第52話 帝国スパイの絶望と、無茶なKPI
王都の裏路地にある、日当たりも風通しも最悪な安宿の一室。
薄暗い魔力ランプの明かりの下で、帝国軍情報部の凄腕スパイ・イリヤは、目の下に濃い隈を作りながら、羽ペンを走らせていた。
「……王国軍・第三魔法大隊の物資調達ルートの分析、完了。次は近衛騎士団の予算推移の暗号化処理……。あぁ、もう朝の四時じゃない……」
彼女は細いフレームの眼鏡を外し、目頭を強く揉んだ。
前回の『王立魔導工廠の巨大ゴーレム密輸作戦』が、特務監査部隊のアレン・ロストによって完膚なきまでに叩き潰されて以来、彼女は上官である帝国の将軍から「失敗のペナルティ(懲罰)」として、通常の三倍もの情報収集ノルマを課せられていた。
睡眠時間は毎日平均で三時間。食事は携帯用のパサパサの保存食(カロリーメイト的なもの)を水で流し込むだけ。
彼女の美しい銀色の髪は艶を失い、すり減った胃の痛みを誤魔化すために、常にポケットに入れた苦い胃薬のタブレットをボリボリと噛み砕く日々が続いていた。
「スパイの仕事って、もっとこう……華麗に社交界に潜入して、美貌で要人を色仕掛けしたり、ワイングラス片手に機密情報を盗み出したりするような、優雅なものだと思ってたのに……。やってることは、毎日毎日、薄暗い部屋での終わりのないデスクワーク(データ入力)と、ドブ泥を這い回るような偵察ばかりじゃない……」
ふうっ、と深い深いため息を吐き出し、イリヤが硬いベッドに身を投げ出そうとした、その時だった。
ピピピッ……! ピピピッ……!
机の上に置かれた、帝国本国との直通回線である『通信用の水晶球』が、鼓膜を劈くような不快な警告音と共に、けたたましく赤い光を点滅させ始めた。
「……ッ! この時間に、直通の緊急通信!?」
イリヤは跳ね起き、慌てて服装と髪の乱れを整え、背筋を伸ばして水晶球の通信ボタンを押した。
「は、はいっ! こちらスパイ番号〇〇七、イリヤです!」
通信が繋がると同時に、水晶球から空中に投影されたのは、顔を真っ赤にして怒り狂っている帝国軍情報部のトップ――バルデス将軍のホログラム映像だった。
『イリヤァァァァッ! 貴様、王都で何をチンタラしている!!』
開口一番の怒号に、イリヤはビクッと肩を震わせた。
「し、将軍! 申し訳ありません、現在、王国の魔法部隊の再編状況を調査中でして――」
『そんなものはどうでもいい! 今すぐ王都の【第一物流拠点】へ向かえ!』
バルデス将軍の怒号は、室内の空気をビリビリと震わせるほどだった。
『王国の兵站に異変が起きたのだ! 少し前まで、王国軍の補給ルートは機能不全に陥り、我々が国境を攻めるには絶好のタイミングだった! ……だというのに、ここ数日で急激に王国の物流が「超効率化」され、前線に次々と最新の物資が届き始めているのだ!』
「物流が……急激に効率化、ですか?」
イリヤの脳裏に、嫌な予感がよぎった。
王国の腐敗した組織を、圧倒的な「論理」と「武力」で叩き直し、一瞬にして完璧なホワイト組織(最強の軍隊)へと変貌させてしまう、あの恐ろしい少年の顔が浮かぶ。
(まさか……兵站輸送部にも、あの『特務監査部隊』のメスが入ったの……?)
『このまま王国の物資が充実すれば、我々帝国軍の侵攻計画に重大な遅延が生じる! イリヤ、お前への新たな特命だ。……今から二十四時間以内に、王都の【第一物流拠点】に潜入し、完全に爆破・破壊してこい!』
「は……はいっ!?」
イリヤは、あまりの無茶振りに素っ頓狂な声を上げてしまった。
「将軍、お待ちください! 王都の第一物流拠点といえば、王国の心臓部とも言える巨大な軍事施設です! 厳重な警備が敷かれているはずで、たった一人で、しかも二十四時間以内に破壊するなど……!」
『だからどうした!』
バルデス将軍は、イリヤの正論を鼻で笑い飛ばした。
『それは「できない理由」を探しているだけだ! 帝国のエリートスパイなら「どうすればできるか」を常に考えろ! 目標(KPI)は完全なる破壊! 納期は明日! それだけだ!』
「そ、そんな……! せめて、潜入用の別働隊(人員)を回してください! それに、巨大な拠点を吹き飛ばすための爆薬(予算)も必要です!」
『ふざけるな! 現在、帝国軍の予算は新兵器の開発に回しており、お前のような末端の工作員に回す金も人員もない! 爆薬は現地で調達しろ!』
「人員ゼロ!? 予算もゼロ!? それでどうやって王国の重要施設を……っ!?」
『気合だ!!』
将軍は、バンッ!と机を叩く幻影と共に、胸を張って言い放った。
『帝国兵としての誇り(パッション)と、皇帝陛下への忠誠心があれば、予算などなくても奇跡は起きる! いいか、もしこの任務に失敗すれば、お前は無能として帝国から追放……いや、軍法会議で【死罪】だと思え! 期待しているぞ!』
ブツッ!!
将軍は、言いたいことだけをまくし立てると、イリヤの返事を聞くこともなく一方的に通信を切断した。
「……」
薄暗い部屋に、沈黙が落ちる。
イリヤは、光を失った水晶球を見つめたまま、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。
「……バカなの? あの将軍、頭にウジでも湧いてるの……?」
人員ゼロ。予算ゼロ。武器の支給もなし。
それで、敵国の超巨大な軍事拠点を、二十四時間以内に一人で吹き飛ばせ。失敗すれば死刑。
まさに、絵に描いたようなブラック経営陣の、究極の無茶振り(丸投げ)である。
「気合と誇りで施設が爆発するなら、この世に兵器なんていらないわよ……っ。ああもう、胃が、胃が痛い……っ」
イリヤは震える手でポケットから胃薬の瓶を取り出し、蓋を開けて、中の苦い錠剤を三粒まとめて口の中に放り込んだ。ボリボリと噛み砕く音が、虚しく部屋に響く。
逃げ出したい。今すぐこの国から、いや、帝国からも逃げ出して、遠い田舎で羊でも飼って暮らしたい。
だが、帝国軍情報部は『裏切り者』を決して許さない。逃げれば、帝国の暗殺部隊に一生追われることになる。
「……やるしか、ないのね。私には、帝国のスパイとして生きるしか、道はないんだから」
イリヤは、自らに言い聞かせるように呟き、黒い潜入用の特殊スーツ(タイツ)に着替えた。
隠し持っていた数本の暗器(投げナイフ)と、ピッキングツールだけをベルトに仕込み、彼女は朝日が昇り始めた王都の裏路地へと、重い足取りで歩み出した。
◇◇◇
その日の夜。
王都の郊外に位置する、巨大な軍事施設――【王立・第一物流拠点】。
全身を黒装束で包み、闇に紛れて接近したイリヤは、近くの時計塔の屋根から、高性能の魔導望遠鏡を使ってその全貌を確認し……絶句した。
「……なっ、何よこれ。私の知ってる情報と、全然違うじゃない……!」
イリヤの手元にある『帝国情報部の資料』によれば、この物流拠点は「建物の老朽化が進んでおり、警備兵も過酷な労働で士気が低く、夜間は居眠りしている者が多い」と記されていた。
それならば、一人で潜入する隙も僅かにあるはずだった。
しかし、望遠鏡の先に見える現実は、資料とは真逆の『要塞』であった。
まず、施設を囲む巨大な防壁。
老朽化していたはずの石壁は、何らかの超高密度の魔法(クラウスの氷結魔法の応用)によって、ダイヤモンドのように硬く、滑らかにコーティングされている。ネズミ一匹、よじ登ることすら不可能な状態だ。
さらに、施設全体を覆うように、淡い青色に発光する『六角形の巨大な光のドーム(結界)』が展開されている。
「あ、ありえないわ。あんな大規模な絶対防壁の結界を、施設全体に常時展開するなんて……。どれだけ異常な魔力量を持った魔道士がバックにいるっていうの……!?」
イリヤは冷や汗を流しながら、結界の入り口――正門を監視する。
そこには、王国の正規兵たちが立っていた。
しかし、彼らの様子もおかしい。夜間の見張りだというのに、誰一人として欠伸をしておらず、瞳はランランと輝き、背筋はピンと伸び、極めて高い士気と集中力を保っている。
「……どういうこと? 王国軍の兵士って、もっとこう、死んだ魚のような目で、嫌々働いてるものじゃないの?」
イリヤは、施設の正門に掲げられた『新しい看板』に望遠鏡のピントを合わせた。
そこには、美しい銀色の文字で、こう書かれていた。
『王国軍・第一物流拠点(特務監査部隊・認定ホワイト施設)』
『〜我々は、一日八時間労働・完全シフト制による、従業員の健康と安全を絶対にお約束します〜』
「……認定、ホワイト施設?」
イリヤの口が、ポカンと開いた。
看板の横には、さらに信じられない光景があった。
夜の十時を過ぎたというのに、施設の中から、仕事を終えたばかりの輸送兵たちが、笑顔で談笑しながら次々と出てくるのだ。
「お疲れ様ですー! いやぁ、完全シフト制になってから、毎日ぐっすり眠れて最高ですね!」
「おう! しかも今日の食堂の夜食メニュー、特上のステーキだったぜ! アレン中隊長に感謝しねぇとな!」
「早く帰って、支給されたフカフカの羽毛布団で寝ましょうぜ!」
彼らは、まるで祭りの帰り道のような明るい顔で、警備兵たちと笑顔で挨拶を交わし、安全な宿舎へと帰っていく。
その圧倒的に『健康で文化的な労働環境』を目の当たりにし。
睡眠時間三時間、食事はパサパサのカロリーメイト、上官からは「気合で爆破しろ」と怒鳴られ、胃薬をかじりながら夜の屋根の上を這い回っている自分の惨めな姿とを比べ……。
イリヤの瞳から、ポロリと、熱い涙が零れ落ちた。
「……何よ、それ。なんなのよ、それ……っ」
イリヤは望遠鏡を落とし、両手で顔を覆った。
「ズルイ……っ。定時退社? ステーキ? フカフカのお布団? ……こっちは、こっちは国のために、女の幸せも睡眠時間も全部捨てて、こんな泥水すするような生活してるのに……っ!」
激しい嫉妬と、絶望。
あの完璧な結界。士気の高い警備兵。たった一人の工作員が、爆薬もなしに突破できるような甘い施設(ブラック企業)では、もう決してないのだ。
「ダメだ……。どう考えても、物理的に不可能よ。……こんな任務、絶対に達成できない」
膝から崩れ落ちたイリヤの脳裏に、将軍の無慈悲な声がフラッシュバックする。
『失敗すれば、無能として処刑だ!』と。
「……あ、はは……。私、ここで終わるんだ。帝国に尽くして、最後は使い捨て(トカゲの尻尾切り)にされて……」
限界まで張り詰めていたイリヤの精神の糸が、ついにプツリと切れた。
数日間の極度の睡眠不足、過労、そして絶望感。それらが一気に襲いかかり、彼女の視界は急速に暗闇へと沈んでいく。
「……誰か、私を……有休を、ちょうだい……」
パタリ、と。
帝国最強のスパイであるイリヤは、王都の裏路地の冷たい石畳の上に、完全に気を失って倒れ込んだ。
そして、その黒装束の女が倒れた路地裏へ。
「おや?」という声と共に、ランタンを持った二つの人影が、静かに近づいてくるのだった。




