第51話 物理的監査(スクラップ)と、ホワイト物流網の誕生
「キシャァァァァァァァァッッ!!!」
全高十メートル。森の絶対的なヌシである『暴食の森蜘蛛』の耳障りな咆哮が、第十四中継倉庫の前の広場をビリビリと震わせた。
「ひぃぃっ……! た、たすけっ、誰か私を助けろォッ!!」
つい先ほどまで「気合とパッションがあれば魔物など逃げ切れる」と豪語していた兵站輸送部のトップ、ディラン司令官は、完全に腰を抜かして地面に這いつくばり、無様に股間を濡らしていた。
彼が王都から連れてきた数十人の精鋭近衛兵たちも、巨大魔物が放つ圧倒的なプレッシャーと瘴気の前に完全に戦意を喪失し、武器を投げ捨てて我先にと転移魔方陣の方へ逃げ出していく。
「お、おい! 逃げるな貴様ら! 私は次期当主だぞ! 戻ってこい、私を肉盾にしてでも守れェッ!」
ディランが半狂乱になって近衛兵たちに命令するが、誰も立ち止まらない。
現場の苦労を知らず、普段から「兵士は使い捨てのコストだ」と公言していた彼が、いざという時に部下から命懸けで守ってもらえるはずがなかった。
「……トップが現場から信頼を失墜していると、有事の際に組織はこうも呆気なく瓦解するのですね。まさに反面教師の鏡です」
その地獄絵図のような状況の中。
アレン・ロストだけは、漆黒の軍服に埃一つ付けず、優雅にコーヒーカップを片手に持ちながら冷徹に分析していた。
「あ、アレン・ロストォッ! 貴様ら特務監査部隊だろう! ぐだぐだ言ってないで早くその化け物をどうにかしろ! 軍の幹部である私を守るのが貴様らのタスクだろうがッ!」
ディランが涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、アレンの足元にすがりつく。
しかし、アレンは氷のように冷たい視線を彼に向け、一歩後ずさってその汚れた手を躱した。
「勘違いしないでいただきたい。我々特務監査部隊の第一優先業務は、『現場の労働者の生命と安全を守ること』です。……現場の安全予算を中抜きし、自業自得でバグ(魔物)を引き寄せたブラック経営者を守る義理など、一ミリたりとも存在しません」
「なっ……! き、貴様、上官を見殺しにする気かァッ!」
「キシャァァァァッ!」
アレンがディランを完全に見限ったその時、森蜘蛛が八本の巨大な脚を蠢かせ、狙いを定めたようにディランの頭上へと巨大な前脚を振り下ろしてきた。
「アッ――」
ディランは死を覚悟し、恐怖のあまり白目を剥いた。
ガァァァァァンッッ!!!
しかし、巨大蜘蛛の前脚がディランの体を叩き潰す直前。
目に見えない強固な『六角形の光の壁』が空中に展開され、数トンはある蜘蛛の一撃を、ガラスが弾くように軽々と受け止めていた。
「……チッ。軍規のコンプライアンス上、ここで彼を物理的に見捨てるのは後々『書類の処理(始末書)』が面倒になりますからね。仕方ありません」
アレンの背後で、白髪の魔道士クラウスが杖を高く掲げ、ため息をついていた。
「クラウス、対象(害虫)の隔離を」
「承知いたしました。……展開。絶対防壁・隔離施設」
クラウスが杖を振り下ろすと、ディランを守っていた光の壁が形を変え、今度は全高十メートルの巨大蜘蛛をスッポリと包み込む『巨大な結界の檻』へと変化した。
「ギチィッ!? ギギギギッ!」
突然狭い空間に閉じ込められた森蜘蛛が、狂ったように結界の壁に体当たりを繰り返すが、クラウスの絶対防壁には傷一つ付かない。
「エルザ殿。害虫駆除の準備は?」
アレンが懐中時計を開きながら問う。
「ふっ……五秒だ。これ以上、この下劣な豚(司令官)の泣き声を聞いていると、私の精神衛生に悪影響を及ぼすからな」
赤髪の女騎士エルザが、結界の檻に向かってゆっくりと歩み寄る。
彼女は大剣を両手で上段に構え、極限まで圧縮された闘気と魔力を、その刀身に集束させていく。周囲の空間が、エルザの放つ圧倒的なプレッシャーによってビリビリと悲鳴を上げた。
「第一騎士団式・実地監査――【過重労働の完全精算】」
クラウスが蜘蛛を囲む結界の『前面』だけを一瞬解除した、そのコンマ一秒の隙。
エルザの放った一閃は、もはや剣の形すら留めていなかった。
それは、純粋な破壊のエネルギーを帯びた、極太の『光の奔流』であった。
ドゴォォォォォォォォォォォォォォンッッッ!!!
「ギェェェェェ……ッ!?」
全高十メートルの巨大魔物が、断末魔の悲鳴を上げる間もなかった。
エルザの光の剣閃は、強固な漆黒の甲殻を紙屑のように消し飛ばし、森蜘蛛の巨体を真っ二つに両断。そのまま背後の『魔の森』の木々を数百メートルにわたって消滅させ、空に分厚い雲を割るほどの凄まじい衝撃波を巻き起こした。
一撃。文字通りの、一瞬の物理的粉砕。
「……ふむ。少し出力が高すぎたか。残業代は請求しないから許してくれ、アレン」
エルザは剣をクルリと回して鞘に納め、何事もなかったかのように肩をすくめた。
「素晴らしい駆除作業です、エルザ殿。これなら現場のインフラ(街道)を汚すこともありませんね」
アレンはパチンと懐中時計を閉じ、地面で腰を抜かしたまま泡を吹いているディランの元へ歩み寄った。
「さて、ディラン司令官。現場の致命的なバグは、我々バックオフィスが完全に処理しました。……これであなたの言う『勢い』と『パッション』が、いかに現場の現実を無視した無価値な精神論であったか、身に染みて理解できたことでしょう」
「あ、あ、ああ……っ」
ディランはもはや、言葉を発することすらできず、ただガクガクと震えるばかりだった。
その時、倉庫の前の広場に、再び王都からの転移魔方陣が展開された。
現れたのは、ディランが連れてきた近衛兵ではない。軍の内部犯罪を取り締まる、厳格な『憲兵隊』の一個小隊であった。そしてその先頭には、タイトスカートに銀縁眼鏡をかけた有能な経理官、ティノの姿があった。
「アレン中隊長! お疲れ様です! 王都での裏付け調査、すべて完了しました!」
ティノはアレンに敬礼すると、震えるディランに向かって冷酷な目で『分厚いファイルの束』を突きつけた。
「ディラン司令官! あなたを『不動産取得税の不正免脱』『軍の予算の背任横領』、および『民間私兵を使った労働者への暴行教唆』の容疑で、ただちに拘束します!」
「あ……ああ……」
「あなたがダミー会社を経由して愛人に振り込んでいた家賃の帳簿は、一シルも残さず差し押さえました! 貴族の特権など通用しません。軍法会議での無期懲役は免れませんよ!」
憲兵たちがディランの両腕を乱暴に掴み、魔封じの手錠をガチャンと掛ける。
偽りのホワイトを掲げ、横文字のビジネス用語で自らの無能さを隠蔽してきたブラック経営者の、完全なる破滅の瞬間であった。
「待っ……待ってくれ! 私は、私はただ、軍の効率化を……コストのスリム化をッ!」
見苦しく叫びながら憲兵に引きずられていくディランの背中に向かって、アレンは氷のように冷たい宣告を投げ放った。
「コスト(命)を削って利益を出すのは、経営ではなくただの『搾取』です。……暗く冷たい地下牢の中で、ご自身の『マインドセット』を、一生かけて見つめ直してください」
ディランの絶望の叫びが、転移魔方陣の光と共に消え去る。
すべてが終わった静寂の中。
中継倉庫の扉が恐る恐る開き、中で休んでいたリックたち輸送兵が、信じられないものを見るような目でアレンたちを見つめていた。
「アレン、中隊長……」
リックが震える足で歩み寄り、そして、泥だらけの地面に深々と土下座をした。
「ありがとうございました……ッ! 俺たちを……使い捨ての駒として扱われていた俺たちを、救ってくれて……ッ!」
リックに続き、目を覚ました他の輸送兵たちも、次々とその場に膝をつき、大粒の涙を流して感謝の言葉を口にする。
アレンは静かに歩み寄り、リックの肩に手を置いて、優しく立たせた。
「頭を上げてください、皆さん。あなたたちが救われたのは、理不尽な現状に抗うために、王都へ走った『バーツさんの勇気』があったからです」
アレンは輸送兵たちの顔を一人一人、真剣な目で見つめ返した。
「これからは、どんな理不尽な命令にも黙って従う必要はありません。上層部がおかしいと思ったら、遠慮なく『声を上げる(ストライキ)』権利があなたたちにはある。……いいですか? あなたたちの命より重い荷物など、この世には絶対に存在しないのです」
「……はいっ! はい……ッ!」
アレンの言葉に、リックたちは号泣しながら何度も頷いた。
十八歳の最強の社畜が残したその言葉は、過酷な肉体労働に苦しんでいた彼らの心に、『人間としての尊厳』という最も強力な盾を築き上げたのであった。
◇◇◇
それから数週間後。
王都の特務監査部隊本部、その優雅な執務室。
「……というわけで、兵站輸送部の新体制は無事に完了しました。新司令官には、現場からの叩き上げであるバーツさんが抜擢されたそうです」
ティノがタブレットを操作しながら、笑顔で報告を読み上げる。
「見事な人事ですね。現場の苦労を知る者がトップに立てば、あのような悲劇は二度と起こりません。……現場の労働環境はどうなっていますか?」
レザーチェアに深く腰掛けたアレンが、淹れたてのコーヒーの香りを楽しみながら問う。
「完璧です! 『一日八時間労働・完全シフト制』が徹底され、すべての荷馬車にエルザ先輩が監修した『対魔物用の重装甲』が施されました。さらに、クラウス先輩の結界魔法を応用した魔道具が各馬車に配備され、護衛がなくても絶対に魔物に襲われない、まさに【最強のホワイト物流網】が完成したとのことです!」
「素晴らしい。これで軍のサプライチェーンも、ようやく『正常化』されましたね」
アレンが満足げに頷くと、ソファでくつろいでいたエルザが、長い赤髪を揺らしながらフッと笑った。
「それにしても、あのディランとかいう男が隠し持っていた裏金(横領金)、相当な額だったな。それが全額、我が特務監査部隊の『特別ボーナス』として還元されるとは、笑いが止まらんぞ」
「うむ! これでまた、部隊の福利厚生施設が豪華になるにゃ!」
猫耳のレノが、窓際で日向ぼっこをしている保護猫の『シロ』(※第一章の番外編から正式に飼われている部隊のアイドル)を撫でながら歓声を上げる。
「さて、平和なひととき(コーヒーブレイク)もここまでです」
アレンはカップを置き、机の上に置かれていた『一通の真新しい封筒』を手に取った。
それは、軍の内部告発を受け付ける目安箱に、今朝方投函されたばかりの悲痛なタレコミの手紙だった。
「ティノ。次の監査対象の選定に入ります。……どうやらお次は、『王立魔法研究所』のようですね」
アレンが封を切り、中の書類に鋭い視線を落とす。
「なんでも、若手の優秀な研究者たちに『名ばかり管理職』という肩書きを与え、残業代を一切支払わずに、深夜まで危険な魔法実験を強要しているブラックな研究室があるとか」
「名ばかり管理職……! また姑息で陰湿な手口ですね……っ!」
ティノが眉を吊り上げて憤慨する。
「ええ。表面上の法律をすり抜けようとする悪質なやり口です。……しかし、我々特務監査部隊の前では、いかなる小細工も通用しません」
アレンはゆっくりと立ち上がり、十八歳の青年へと成長し、より洗練された威圧感を放つ漆黒の軍服の襟を正した。
「さあ皆さん。我が部隊の完璧な論理と武力(物理)で、頭の硬い研究者どもに『真の労働基準法』を教育して差し上げましょう。……本日も、定時退社を目指して出勤です!」
「「「了解!!」」」
王都の空に、最強のホワイト部隊の力強い声が響き渡る。
現場の命を削る『死の軍事兵站』を物理的に粉砕し、見事に物流を再構築したアレン・ロスト。
彼が率いる特務監査部隊の「ブラック組織・物理的ホワイト化計画」は、まだまだ終わらない。




