第46話 潜入(オンボーディング)と、整備不良の馬車
王都から西の辺境へと続く、第十四補給ルート。
鬱蒼と生い茂る『魔の森』と呼ばれるその街道は、昼間であっても太陽の光が届かず、常に薄暗くジメジメとした瘴気に覆われている。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ! 走れ! 止まるな、止まったら食われるぞッ!」
そのぬかるんだ悪路を、五台の巨大な荷馬車からなるコンボイ(輸送隊)が、狂ったような速度で駆け抜けていた。
兵站輸送部・第三小隊。
数日前に王都を出発して以来、彼らは文字通り「一睡もせず」に馬を走らせ続けている。
先頭の馬車の御者台で、血の滲む手で手綱を握りしめているのは、二十歳になったばかりの若き輸送兵・リックだった。
彼の目は極度の睡眠不足で落ち窪み、焦点が定まっていない。横で並走しているはずの先輩兵士たちも、皆一様に亡者のような顔色で、ただ機械的に馬へムチを打つことしかできなくなっていた。
「バーツのおやっさん……無事に王都に、着いてくれたかな……」
リックはひび割れた唇で、自分たちを助けるために単身で森を抜け、王都へ走ったベテラン兵士の顔を思い浮かべた。
だが、すぐに絶望が頭をもたげる。
ここ数日、彼らは一切の休息を取っていない。
なぜなら、新しい司令官であるディランが「無駄なコスト」として護衛部隊をすべて解任してしまったからだ。魔物がうごめくこの森で足を止めれば、丸腰の彼らは一瞬で魔物の餌食になる。
だから、馬が泡を吹こうが、車輪が悲鳴を上げようが、ただひたすらに前へ進む(デスマーチ)しかなかった。
「……司令官の言う通りだ。俺たちにパッション(情熱)が足りないから、こんなに苦しいんだ。もっと勢い(モメンタム)を出さなきゃ、納期に間に合わない……っ」
極限の疲労と恐怖により、リックの思考は完全に正常な判断力を失い、ディラン司令官から叩き込まれた『空虚なビジネス用語と精神論』に洗脳されかけていた。
その時だった。
「――情熱や勢い(パッション)で馬車が走るのなら、この世に車輪や馬は必要ありません。……極度の睡眠不足は、正常な論理的思考を著しく奪うようですね」
「……え?」
リックがハッと顔を上げた瞬間。
疾走する彼の荷馬車の横に、いつの間にか『並走』している影があった。
それは、馬に乗っているわけではない。
漆黒のスリーピース・スーツのような軍服に身を包み、純白のスカーフを風に靡かせた美しい青年が、一切の足音を立てず、涼しい顔で『馬車と同じ速度で走りながら』リックに話しかけていたのだ。
「ひぃっ!? も、魔物っ!?」
「失礼な。我々は魔物ではありません。王国軍・特務監査部隊の者です。……バーツさんからの内部告発を受け、本ルートの『労働環境の実地監査』に参りました」
アレン・ロストだった。
彼の背後には、同じく軽やかな足取りで馬車に並走する赤髪の女騎士エルザと、空中に魔法の足場を作って滑るように移動している白髪の魔道士クラウスの姿があった。
「と、特務監査部隊……! じゃあ、バーツのおやっさんは!」
「ええ。王都の我々のオフィスで、泥のように眠って有休を消化していますよ。……さあ、あなたたちも直ちに馬車を止め、休息を取ってください」
アレンが並走しながら告げるが、リックは首を横に激しく振った。
「だ、ダメです! 止まったら魔物に追いつかれる! それに、ディラン司令官が『いかなる理由があろうと足を止めることは、部隊の勢い(モメンタム)を殺す大罪だ』って……!」
「……なるほど。現場に無茶な精神論を押し付けるブラック上司の洗脳が、かなり深く浸透しているようですね」
アレンは呆れたようにため息をつき、並走しながら馬車の車輪や車体を鋭い目つきで観察し始めた。
「それにしても、酷い状態ですね。車輪の車軸はグリス(潤滑油)が完全に切れ、今にも摩擦熱で発火しそうだ。荷台のサスペンション用の板バネも半分以上折れている。……こんな整備不良の機材で、よくここまで走ってこられましたね」
アレンの的確すぎる指摘に、リックは泣きそうな声で答えた。
「だって、司令官が『車両のメンテナンス費用も無駄なレガシーコストだ』って言って、整備予算を全部削っちまったんです! 交換用の予備の車輪すら積ませてもらえなくて……っ!」
「……インフラの維持費を削って利益を出す。それは経営ではなく、ただの『命の切り売り』です」
アレンの言葉の温度が、スッと冷たく下がる。
「エルザ殿、クラウス。彼らの限界はとっくに超えています。強制的にコンボイを停止させますよ」
「承知した」
「わかりました、アレン先生」
アレンが合図を出そうとした、まさにその瞬間だった。
バキィィィィィンッッ!!!
森の中に、鼓膜を劈くような破壊音が響き渡った。
リックの乗る先頭の荷馬車の『右前輪の車軸』が、長時間の過負荷と整備不良に耐えきれず、根元から完全にへし折れたのだ。
「うわぁぁぁぁっ!?」
バランスを崩した巨大な荷馬車が、轟音を立てて横転する。
後続の馬車もパニックに陥り、次々と急ブレーキをかけて街道の真ん中で玉突き事故のように停止してしまった。
「がはっ……! い、痛てぇ……」
横転した御者台から放り出されたリックが、泥だらけになって呻き声を上げる。
後続の馬車からも、満身創痍の輸送兵たちが這い出してきた。
「あぁ……終わりだ……。車軸が完全に折れてる。これじゃあもう、一歩も進めねぇ……」
「護衛もいないのに、こんな森のど真ん中で立ち往生するなんて……」
彼らの目に浮かんでいるのは、完全な『死の絶望』だった。
止まれば死ぬ。その強迫観念で何日も走り続けてきた彼らにとって、馬車の完全な物理的破壊は、死刑宣告と同義であった。
「……グルルルルルルル……ッ」
絶望に追い討ちをかけるように。
木々の奥から、低く、血に飢えた獣の唸り声が無数に響き始めた。
「ヒィッ……! き、来た……! 『森の暴食狼』の群れだ……ッ!」
リックがガチガチと歯の根を鳴らして後ずさる。
街道の周囲を囲む茂みから、赤い双眸をギラギラと光らせた、体長三メートルを超える巨大な狼の魔物たちが、涎を垂らしながら次々と姿を現した。
その数は、ざっと見ても五十匹以上。丸腰の輸送兵数十人を食い殺すには、十分すぎる数だ。
「お、俺たちが何をしたって言うんだよ……! ただ、司令官の命令通りに、真面目に仕事をしてただけなのに……ッ!」
二十歳の若い輸送兵が、泥水に顔を埋めて号泣する。
安全対策という『命綱』をすべてコストカットという名目で奪われ、精神論だけで危険地帯に放り込まれた末路。
それこそが、ディラン司令官の言う「勢い」と「アジャイルな組織運用」がもたらした、最悪の真実であった。
「……泣く必要はありませんよ、若き労働者たち」
絶望に支配された空間に。
アレン・ロストの、一切の焦りを含まない、極めて事務的で冷徹な声が響いた。
「え……?」
リックが顔を上げると、そこには、横転した馬車と魔物の群れの間に、静かに立ち塞がるアレンの姿があった。
彼は純白のスカーフを指でスッと整え、まるで会社のオフィスで部下に指示を出すかのように、淡々と告げた。
「インフラの崩壊(車軸の折損)は、必要な予算を投資しなかった経営トップ(司令官)の完全なる『マネジメント不足』によるものです。現場で汗を流すあなたたちが、責任を感じて命を散らす理由など、一ミリたりとも存在しません」
アレンの背後で、エルザが腰の剣の柄に手をかけ、クラウスが魔法の杖を静かに構える。
「……これより、特務監査部隊による『オンボーディング(現場の引き継ぎ)』を完了します。あなたたちの業務は、我々がすべて巻き取った」
「あ、あんたたち……たった三人で、あんな数の魔物を相手にする気か!? 無理だ、殺されるぞ!」
リックが悲鳴のように叫ぶ。
しかし、アレンの横顔には、冷たい笑みすら浮かんでいた。
「ご心配なく。我々は、労働者の安全を守り抜くことに関しては、王国で最も優秀なプロフェッショナル集団ですので」
アレンは懐中時計を取り出し、パチンと蓋を開けた。
「……さて皆さん。業務中の不慮の事故により、本ルートは一時的に進行不能となりました。コンボイの修理が完了するまでの間、あなたたちには特務監査部隊の権限において『強制的な有給休暇』を取得していただきます」
魔物たちが、獲物を狩るために一斉に地面を蹴り、無数の牙がアレンたちに向かって飛びかかってきた。
「ゆっくりと、泥のように眠ってください。――あなたの職場に湧いた『害虫』の駆除は、我々バックオフィスが完璧に処理しておきますから」
アレンの冷徹な号令と共に。
特務監査部隊が誇る最強の盾と矛が、森の魔物たちへ向けて、圧倒的な『物理的監査』を開始した。




