第35話 口封じの罠と、狙われた若手技師
翌日の昼休み。
王立魔導工廠の薄暗い中庭で、若手技師のカインは煤けた壁に寄りかかり、支給されたカチカチの黒パンを無表情に齧っていた。
「……隣、よろしいですか?」
不意に声をかけられ、カインがビクッと肩を揺らす。
見上げると、第七小隊の小隊長・アレンが、綺麗にアイロンがけされた軍服姿で立っていた。その手には、ティノが握った具沢山の特製おにぎりと、温かいお茶が入った水筒が握られている。
「ア、アレンさん……! 昨日は、本当にありがとうございました。おかげで腕の火傷もすっかり良くなって……」
「お礼なら、医務室のイリヤ先生に言ってください。僕らは監査役としての基本業務をこなしただけですから。……これ、経費で落とす試供品ですが、よければどうぞ」
アレンがおにぎりと水筒を差し出すと、カインは遠慮しながらも、空腹に耐えきれずに両手で受け取った。一口食べた瞬間、そのあまりの美味しさにボロボロと涙をこぼし始める。
「おいしい……。こんな温かくて美味しいご飯、工廠に入ってから一度も……っ」
「カイン。あなたはなぜ、こんな明らかな『労働基準法違反(ブラック環境)』で働き続けているのですか? 逃げ出す選択肢はなかったのですか」
アレンの直球の問いかけに、カインは俯いた。
「逃げられるわけがありません……。俺たちは全員、田舎の家族を養うために、ここで働くしかないんです。もし逆らったり逃げ出したりすれば、給料を全額没収された上で、借金漬けにされて裏社会に売られます。工場長や現場監督には、逆らえないんですよ……っ」
恐怖で震えるカインの背中を、アレンは冷たい目で見つめた。
貧困につけ込み、恐怖で支配し、逃げ場をなくして搾取し続ける。前世のブラック企業でもよく見た、最悪の『囲い込み(ロックイン)』の手法だ。
「……カイン。確かに、労働者『個人』の力は、経営層の権力の前では無力に等しい。一人が文句を言えば、簡単に潰されて終わるでしょう」
「だったら……!」
「ですが、もしこの工廠の作業員『全員』が、同時に一斉に手を止めたらどうなりますか?」
カインがハッとして顔を上げる。
「全員が手を止めたら、工廠の生産ラインは完全にストップする。納期は遅れ、多額の違約金が発生し、工場長の首は一瞬で飛ぶでしょう。……経営層が最も恐れているのは、労働者たちが『団結』して生産の主導権を握ることです」
アレンは首元のスカーフを撫で、カインの目を見据えた。
「『労働組合』。それが、弱い立場の労働者が、不当な経営層と対等に交渉するための唯一のシステムです」
「ろ、ろうどうくみあい……?」
「ええ。我々第七小隊が、あなたたちを全力でバックアップ(保護)します。だからカイン、まずはあなたが声を上げるための――」
アレンがそこまで言いかけた時だった。
「おい、カイン! こんな所で油を売ってないで、さっさと持ち場に戻れ!」
怒鳴り声と共に現れたのは、腹部に包帯を巻いたあの小太りの現場監督だった。彼はアレンを忌々しそうに睨みつけながら、カインの胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
「ひぃっ! す、すみません監督! 今すぐ戻りますっ!」
「フン。外部監査役のガキと何をコソコソ話していたかは知らんが、お前には特別な仕事を与えてやる。今すぐ第五ラインの地下にある『旧資材廃棄区画』へ行き、奥のバルブの点検をしてこい!」
「ち、地下の旧区画!? でもあそこは、地盤が緩んでいて立ち入り禁止の危険エリアじゃ……」
「口答えするな! これは業務命令だ! 行かないなら今すぐクビにするぞ!」
現場監督の凄まじい剣幕に、カインは青ざめた顔で何度も頷き、走って地下へと向かっていった。
その後ろ姿を見送る現場監督の口角が、薄気味悪く吊り上がるのを、アレンは見逃さなかった。
「……随分と唐突な業務命令ですね。立ち入り禁止の危険エリアに、見習いの彼を一人で行かせる論理的な理由があるのですか?」
「フンッ! 現場の配置は私の自由だ! 監査役といえど、正規の業務命令に口を出す権限は貴様にはない!」
現場監督は勝ち誇ったように鼻を鳴らし、踵を返して立ち去った。
アレンは静かに懐中時計を取り出し、時間を確認する。
(……工場長と現場監督は焦っている。昨日の騒ぎで僕らが『裏帳簿』の存在に気づいたのではないかと疑い、第七小隊と接触したカインを『口封じ』のために始末する気だ)
「レノ、いますね」
アレンが虚空に向かって呟くと、音もなく猫耳のレノが頭上のパイプから舞い降りた。
「にゃ。アレンの予想通り、現場監督の野郎、あの地下区画の足場の支柱に、細工を仕掛けてたにゃ。カインが奥に入った瞬間に、天井の廃棄スクラップごと崩落する仕掛けになってるにゃ」
「完全な殺人未遂……いえ、劣悪な環境を利用した『悪質な労災偽装』ですね。許し難いコンプライアンス違反です」
アレンの瞳に、冷酷な殺意が宿る。
「クラウス、エルザ殿。直ちにカインの救出に向かいます。現場監督の悪意を、完膚なきまでに叩き潰す!」
* * *
同じ頃、第五ラインの地下深く。
旧資材廃棄区画は、カビとサビの匂いが充満する、不気味な暗闇に包まれていた。
「怖い……。なんで俺が、こんな場所に……」
カインはランタンの僅かな明かりを頼りに、恐る恐る奥へと進んでいた。
頭上には、過去の生産で廃棄された巨大な魔導プレッサー機の残骸や、数百キロはあろうかという鉄骨の山が、今にも落ちてきそうなほど不安定に積み上げられている。
(早くバルブを確認して、戻らないと……また給料を引かれてしまう……)
恐怖を押し殺し、カインが目的のバルブに手を伸ばした、その瞬間だった。
バキィィィッ!!
カインの足元にあった支柱が、不自然な音を立てて砕け散った。
現場監督が事前に仕掛けていた、崩落のトラップが作動したのだ。
「えっ……!?」
バランスを崩したカインの頭上から、轟音と共に、数百トンもの廃棄スクラップと鉄骨の雨が容赦なく降り注ぐ。
逃げ場はない。完全に押し潰される――カインが絶望に固く目を閉じた、その刹那。
「――物理的防御展開。対象を完全保護します!」
暗闇を切り裂くような、冷静で澄んだ声。
直後、カインの頭上に分厚い半透明の光の結界が出現し、降り注ぐ数百トンの鉄骨の山を、ガギィィィンッ!という凄まじい音と共に空中で完全に受け止めた。
「な、なんだっ!?」
腰を抜かしたカインの前に、白髪の魔道士クラウスが杖を構えて立っていた。彼の額には薄っすらと汗が浮かんでいるが、その防御結界は微塵も揺るがない。
「救出成功です。……エルザ殿、障害物の排除を!」
「承知した!」
クラウスの背後から、赤いマントを翻してエルザが跳躍する。
彼女は空中で名剣を抜き放ち、カインの逃げ道を塞いでいた巨大な鉄骨の山を、一刀の元に「十字」に切り裂いた。
ズガガガガァァッ!
数十センチの厚みがある鉄骨が、まるで紙切れのように切断され、左右に崩れ落ちる。
その圧倒的な武力による道開けに、カインはただ口をポカンと開けて見惚れるしかなかった。
「カ、カイン! 無事か!?」
土煙の中から、アレンが静かに歩み出てくる。
「アレンさん……! 俺、俺……っ!」
「安心してください。怪我がないなら、それで十分です」
アレンはカインを立たせ、その肩をポンと叩いた。
「これでもまだ、あなたは『経営層の言うことは絶対だ』と言い張りますか? 彼らは自分の保身のためなら、あなたの命を『不慮の事故』として平気で使い捨てる。……それが、このブラック工廠の真の姿です」
カインの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
恐怖ではない。自分を使い捨てのゴミとしか見ていなかった会社(工廠)に対する、激しい怒りと悲しみの涙だった。
「俺は……俺たちは……ただ、家族のために一生懸命働いていただけで……っ。殺されるような筋合いなんて、どこにもないのにっ!」
「ええ。その怒りこそが、現状を打破するための最強の原動力です」
アレンは首元のスカーフを整え、冷たい声で宣言した。
「さあ、カイン。まずは、この稚拙な殺人トラップを仕組んだ『無能な中間管理職』に、然るべき法的措置(物理的監査)を下しに行きましょうか」
暗闇の地下区画から、第七小隊と一人の若き技師が、怒りの反撃の狼煙を上げる。
彼らが次に向かう先は、すべてを仕組んだ現場監督のいる管理室であった。




