第34話 バックオフィスの反撃と、暴かれた二重帳簿
第五ラインの稼働を強制的に停止させた日の夕刻。
アレンたち第七小隊が案内された「外部監査役用の宿舎」は、工廠の敷地の隅にある、今にも崩れ落ちそうなトタン屋根の廃倉庫だった。
「……ここを使え、だと?」
エルザが廃倉庫の内部を見渡し、不快そうに眉をひそめる。
床にはカビが生え、壁には隙間風が吹き込み、ベッドの代わりとして薄汚れた藁が敷かれているだけだ。おまけに、部屋の隅に置かれた夕食らしきものは、カチカチに硬くなった黒パンと、具の入っていない塩水のようなスープだけであった。
「ふんっ。本来なら監査役の皆様にはVIP用のゲストルームをご用意するのですがね。生憎、あなた方がラインを止めたせいで、我々は事後処理に追われているのですよ。……お気に召しませんかな?」
案内役として現れたのは、昼間にエルザに蹴り飛ばされ、腹部に痛々しい包帯を巻いたあの現場監督だった。彼は第七小隊の面々が惨めな環境に文句を言うのを期待して、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべていた。
組織の不正を暴こうとする外部の人間に対し、劣悪な環境と食事を与えて精神的に追い詰める「兵糧攻め」。彼らのような腐敗した管理職が好んで使う、極めて古典的で陰湿な嫌がらせ(ハラスメント)である。
「……監査役への不当な待遇。なるほど、工場長は我々に『さっさと帰れ』と言いたいようですね」
「ええ、その通り! ここは我々の城だ。護衛部隊のガキが偉そうに口出しできる場所ではない。嫌なら明日にでも王都へ尻尾を巻いて……」
現場監督がドヤ顔で言い放とうとした、その時。
「ティノ。我が小隊の『自立型宿泊モジュール』の展開を」
アレンが一切の動揺を見せず、首元のスカーフを整えながら短い指示を出した。
「はいっ! 第一班、空間拡張テントの設営を開始! 第二班は魔導コンロを起動して、持ち込んだ高栄養レトルト食品の湯煎をお願い! クラウス先輩、浄水と空調の結界展開を頼みます!」
ティノのテキパキとした指示に合わせ、二十人の新人兵士たちが一糸乱れぬ動きで作業を開始する。
彼らが背負っていた特殊なカバンから、次々と真新しい野営セットが取り出され、カビ臭い廃倉庫の中に「完全に独立した快適な居住空間」がものの数分で組み上がってしまった。
クラウスの魔法によって嫌な匂いと隙間風は完全に遮断され、魔導コンロからは、高級なビーフシチューの濃厚な香りが漂い始める。
「な、なんだと……っ!?」
現場監督が目を剥いて驚愕する。
「ビジネスの基本ですよ、現場監督殿。出張先の福利厚生に依存するのは、極めて重大なリスクだ。いかなる劣悪な環境であろうと、常に一定のパフォーマンスを発揮できるよう、自前で完璧なバックオフィス(後方支援)を構築しておくのが、我がホワイト小隊の基本方針ですので」
アレンが優雅に微笑みながら、温かい紅茶の入ったカップを傾ける。
「な、生意気な……っ! せいぜい強がるがいい! その食料が尽きれば、結局は我々に泣きついてくることになるんだからな!」
嫌がらせが完全に無意味化された現場監督は、顔を真っ赤にして捨て台詞を吐き、足早に廃倉庫から逃げ出していった。
「にゃはは! あいつ、すっごく悔しそうな顔をしてたにゃ! ざまぁみろだにゃ!」
「ふん、小物め。だがアレン、食料の備蓄はどれくらい持つんだ?」
エルザがシチューの器を受け取りながら尋ねる。
「ご心配なく、エルザ先輩。王女殿下から頂いた潤沢な特別予算を使って、この部隊全員が『一ヶ月間』は全く補給なしで戦えるだけの保存食と水筒を確保してあります! 栄養バランスも完璧に計算済みです!」
胸を張って答えるティノ。
彼女の完璧な在庫管理能力こそが、第七小隊がいかなるブラック現場でも決して屈しないための最強の盾であった。
「素晴らしい仕事です、ティノ。……さて、腹ごしらえが済んだら、いよいよ本命の業務に取り掛かりましょうか」
アレンが視線を向けた先の机の上には、レノが昼間に工廠の奥深くから「拝借」してきた、分厚い数冊の革表紙の帳簿が積まれていた。
「工廠の経理データ(裏帳簿)ですね。相手がどれだけ現場の不正を隠蔽しようと、数字の流れだけは絶対に嘘をつけませんから」
アレン、ティノ、そしてクラウスの『頭脳労働組』が机を囲む。
ティノは真剣な表情で帳簿のページをめくり、すさまじい速度で数字を追い始めた。彼女の目は、ただの事務作業員のものではなく、熟練の監査法人のそれへと変わっていた。
「……アレンさん。この工廠の帳簿、明らかにおかしいです。数字の辻褄が全く合っていません」
十分後。ティノが赤ペンで帳簿の数箇所を指し示し、確信に満ちた声で報告を上げた。
「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)の基本ですね。具体的には?」
「王都に提出されている『表の生産データ』と、この裏帳簿に記載されている『実際の資材仕入れ量』に、莫大な乖離があります。……具体的に言うと、王都に報告しているよりも、三倍近い量の『高純度魔導鉱石』を仕入れています」
「なるほど。つまり、表向きの生産ノルマ以外に、大量の武器を『裏』で生産していると。……では、その余分な材料費はどうやって帳簿上で消している?」
「そこです! 昼間、カイン君が鉱石を落としそうになって怒られていましたよね。あの時の現場監督の言葉……『業務中の怪我は自己責任』。これを悪用しているんです」
ティノは別のページを開き、怒りで声を震わせた。
「作業員が少しでも資材に傷をつけたり、事故を起こしたりしたことにして、大量の資材を『不良品・廃棄処分』として帳簿から消しています。そして、その損失分を、作業員たちの給料から『ペナルティ』として天引きして補填しているんです……!」
「……なんという悪辣な手法ですか」
クラウスが眼鏡の奥の目を細め、嫌悪感に顔を歪めた。
「安全カバーを外してワザと事故を起こしやすい環境を作り、作業員に責任を押し付けて給料を搾取する。そして『廃棄』という名目で帳簿から消した大量の資材を使って、裏で秘密裏に兵器を製造する……。二重の粉飾決算にして、最悪の労働搾取(ブラック労働)ですね」
アレンの言葉に、部屋の空気が凍りつく。
利益のためなら、部下の命も、生活も、すべてを帳簿上の「数字の調整」に利用する。それは、アレンが最も許せない「血の通っていないマネジメント」の極致であった。
「……ティノ。その『廃棄』扱いになって消えた資材と資金の総額は、どれくらいだ?」
エルザが低い声で尋ねる。
「えっと……ざっと計算しただけでも、大隊規模(約千人)の軍隊を武装させられるだけの量です。とてもじゃないですが、一部の管理職が小遣い稼ぎで横領できる規模じゃありません」
「その通りです。これは単なる現場の汚職ではない。王国の軍事バランスを揺るがす、完全なる『国家反逆(密輸)ルート』の構築だ」
アレンは帳簿をパタンと閉じ、首元のスカーフを撫でた。
「工場長とその背後にいる貴族は、この工廠のどこかで、王都に隠れて『とんでもない兵器』を大量生産している。……レノ、昼間言っていたね。『工廠の地下に何かある』と」
「にゃ。表のフロアの熱気とは違う、もっと異常にデカい魔力の塊が、第五ラインのさらに地下深くから微かに漏れてるのを感じたにゃ。でも、分厚い魔封じの扉があって、レノ一人じゃ入れなかったにゃ」
「十分な情報です。ご苦労様」
アレンは立ち上がり、廃倉庫の壁の隙間から、黒煙を上げる工廠の巨大な煙突を見上げた。
「現場監督のような中間管理職(トカゲの尻尾)をいくら叩いても、この組織は変わらない。我々が監査すべきは、このブラック工廠のトップである工場長本人と、彼が地下に隠し持っている『最悪の不良在庫』です」
そのためには、この工廠を根底から揺るがす必要がある。
アレンの脳裏にはすでに、王国の歴史上かつて誰も成し得なかった、前代未聞の「労働環境改善アプローチ」の計画が組み上がっていた。
「さあ、皆さん。明日は少し忙しくなりますよ。……この地獄の底で喘ぐ作業員たちに、彼らが本来持っている正当な『権利』というものを教えてあげましょう」
アレンの口角が、不敵に吊り上がる。
最強の社畜が仕掛ける、ブラック工廠への反撃の第二幕――『労働組合の結成』へのカウントダウンが、静かに始動した。




