第29話 市街地の防衛戦と、物理的監査の鉄槌
「グルルォォォォォォォッ!!」
王都のメインストリートを揺るがす、鼓膜が破れんばかりの咆哮。
禁断の秘薬によって身長三メートルを超える醜悪な怪物へと成り果てたバッカスは、理性を失った真紅の瞳で周囲をギロリと睨みつけた。
肥大化した肉体に食い込むように融合した金ピカの装飾鎧が、彼の動くたびに不気味な金属音を軋ませる。
「第一フェーズ、広域防御結界展開! これ以上の被害の拡散を物理的に遮断します!」
いち早く動いたのはクラウスだった。
彼は銀縁眼鏡を光らせながら杖を大地に突き立てる。瞬時にして、バッカス・モンスターを取り囲むように、半径三十メートルほどの半透明な光の障壁がドーム状に展開された。
ドゴォォォォンッ!!
怪物が無軌道に振り回した丸太のような腕が結界に直撃し、激しい火花が散る。
「くっ……! なんてデタラメな出力ですか。論理演算を無視した力任せのスパゲッティコード……私の魔力リソースがゴリゴリと削られていきます!」
「クラウス、結界の維持に専念しろ! 奴のヘイトは私が稼ぐ!」
結界が砕かれる前に、第一騎士団の女騎士エルザが地を蹴った。
赤い髪をなびかせ、彼女は怪物の懐へと一直線に飛び込む。狙うは、装甲の隙間である巨大な膝の関節部。
「ハァッ!」
銀の軌跡を描く名剣が、怪物の硬質化した皮膚を切り裂く。
しかし、浅い。秘薬によって異常なまでの硬度を得た怪物の肉体には、致命傷を与えることができない。
「ギガァァァッ! ジャマダァァッ!!」
「チィッ……!」
痛みに怒り狂った怪物が、エルザに向けて巨大な拳を振り下ろす。
エルザは剣を盾にして防ぐが、その圧倒的な質量の暴力の前に、華奢な体は木の葉のように吹き飛ばされ、石畳を派手に転がった。
「がはっ……! なんて、馬鹿力だ……っ」
「ミトメナイ……ワタシハ、ユウノウダ! キサマラノヨウナ、デキソコナイ、デキソコナイ、デキソコナイドモガァァァァッ!!」
怪物の口から、バッカスの怨念が呪詛のように漏れ出す。
すべてを失った男の、自己正当化と責任転嫁の極致。自分が無能であることを決して認めず、周囲を『出来損ない』と見下し続けることでしか自我を保てない、哀れな末路。
「……有能、ですか。笑わせないでいただきたい」
その時。
吹き飛ばされたエルザを庇うように、結界の中央へと静かに歩み出た影があった。
首元のスカーフを風に揺らし、片手をスラックスのポケットに突っ込んだままの、第七小隊の少年兵。
アレンである。
「聞いて呆れますね。自身の粉飾決算が露呈した挙句、あろうことか違法な薬物に手を出して市街地で暴れ回る。……これをコンプライアンス違反と呼ばずして、何と呼ぶのですか」
「アレン……っ! 下がるんだ、今の奴はまともじゃない! 私の剣すら通らないんだぞ!」
悲痛な声で叫ぶエルザを背中で制し、アレンは首元のスカーフ留めに触れた。
「問題ありません、エルザ殿。いかに相手が理不尽な暴力を振るおうとも、僕の構築した『システム』は絶対に揺るがない」
アレンの瞳に、冷徹な光が宿る。
かつて前世で、過労死するまで自分をすり潰したブラック企業の無能な経営層。彼らの理不尽な要求とパワハラに、ただ耐えることしかできなかった己の無力さ。
だが、今の彼には、その理不尽を正面から叩き潰すための『力』がある。
「対象の敵対的行動、および極めて悪質なハラスメント行為を確認。――これより、当方からの『物理的監査』を実行します」
アレンが静かに宣言した瞬間。
彼の足元から、黄金色の光の波紋が爆発的に広がった。
『――スキル【アンチ・ハラスメント(反逆の下剋上)】、完全起動――』
それは、相手から受ける理不尽な暴力や圧力の度合いに応じて、アレン自身の物理的出力を青天井で引き上げるという、究極のカウンター・スキル。
対象であるバッカスは現在、違法薬物を使用し、殺意をむき出しにして、かつての部下に対して一方的な暴力を振るっている。
ハラスメントの悪質レベルは『最悪(MAX)』。
すなわち、アレンに付与される出力の倍率は、天文学的な数値へと跳ね上がっていた。
「ギルルォォォ! ツブセェェ、デキソコナィィィッ!!」
バッカス・モンスターが、アレンを肉塊に変えようと、両手を組んで頭上から全力で振り下ろした。
迫り来る、死の質量。エルザが絶望に目を閉じた、その刹那。
「不当な暴力による業務妨害には――」
アレンは一切の感情を排した声で呟き、右の拳を真っ直ぐに突き出した。
「――徹底的な物理的監査を行う!」
ドゴォォォォォォォォォォォォッッッ!!!
振り下ろされた怪物の巨大な両腕と、アレンの小さな拳が激突した瞬間。
空間そのものが歪むほどの、凄まじい衝撃波が発生した。
「アギャァァァァァァッ!?」
拮抗すら、しなかった。
アレンの拳から放たれた圧倒的な物理の暴力が、怪物の両腕を紙のようにへし折り、そのまま巨大な胴体へと深々と突き刺さった。
パァァァンッ!!
怪物の肉体に食い込んでいた金ピカの装飾鎧が、限界を超えた衝撃に耐えきれず、粉々に砕け散って宙を舞う。
何一つ成果を出せなかった無能な上司の『虚飾』が、完全に粉砕された瞬間だった。
「が、はっ……」
白目を剥き、バッカスの口からドス黒い血が噴き出す。
そのまま巨体は後方へ弾き飛ばされ、クラウスの防御結界に激突して、ドスンと重い音を立てて崩れ落ちた。
全身から噴き出していた暗紫色の魔力が霧散し、怪物の肉体は急激に収縮していく。やがてそこに残されたのは、衣服も装飾品もすべて失い、白目を剥いて完全に気絶している、惨めな中年男の姿だけだった。
「……監査完了。これにて、本件はクローズとします」
アレンが乱れたスカーフを整え、静かに息を吐く。
王都の大通りは、水を打ったような静寂に包まれていた。
結界を維持していたクラウスも、地面に座り込んでいたエルザも、あまりの出来事に言葉を失っている。
「……す、すごい……っ! アレンさん、一撃で……!」
沈黙を破ったのは、市民の避難誘導を終え、結界の外側で見守っていたティノの声だった。
彼女は目をキラキラと輝かせ、アレンのもとへ駆け寄ろうと一歩踏み出した。
その時である。
アレンの一撃が生み出した凄まじい衝撃波の『余波』が、遅れて周囲に吹き荒れた。
「ひゃうっ!?」
突風がティノの体を容赦なく襲う。
もともと彼女が着ていた第七小隊の軍服は、サイズが全く合っていないダボダボの支給品であり、日々の過酷な業務(と先ほどの森での活動)で生地が限界まで傷んでいた。
ビリビィィィィッ!!
「えっ……?」
無情な布の裂ける音が、静寂の大通りに響き渡る。
強風に煽られたティノの軍服の前面が、襟元から腹部にかけて、大きく弾け飛んでしまったのだ。
「あ……あぁっ……!」
ティノが慌てて両手で胸元を隠すが、遅かった。
破れた軍服の下から露わになったのは、男の兵士が着るはずのない、可愛らしいフリルのついた白いインナー。そして、細い腕で隠しきれない、女性特有の柔らかな胸の膨らみであった。
「なっ……!?」
「ティノ……君、まさか……!」
クラウスが目を丸くし、エルザが驚愕に声を上げる。
後方で見ていた二十人の新人兵士たちも、「えっ、ティノ先輩って女の子だったの!?」と一斉にどよめき始めた。
周囲の視線を一身に浴び、ティノの顔はトマトのように真っ赤に染まる。彼女はずっと、男尊女卑の激しい軍の中で生き残るため、必死に性別を偽って『出来の悪い男の兵士』を演じてきたのだから。
「あ、違うの! これは、その……っ!」
涙目でパニックになるティノ。
そんな彼女に対し、この場を収束させた最大の立役者であるアレンは、スッと真顔で歩み寄った。
「なるほど。そういうことだったのか」
アレンの言葉に、ティノがビクッと肩を震わせる。騙していたことを怒られる、そう思った彼女はギュッと目を閉じた。
「……申し訳ない、ティノ。僕としたことが、完全に『労務管理』のミスだった」
「……えっ?」
アレンは自分の軍服の上着を脱ぐと、震えるティノの肩にふわりとかけ、極めて真面目なトーンで告げた。
「女性社員に対して、適切なサイズの制服を支給せず、あまつさえ男性と同一の設備で過酷な業務に当たらせていたとは。これは我が小隊における重大な『福利厚生の欠陥』だ。明日、直ちに経理と人事に掛け合い、女性用ロッカーの設置と専用の備品調達の稟議を通そう」
「……はぇ?」
「安心しろ。僕のチームでは、性別や出自による不当な評価(ガラスの天井)は一切存在しない。君の在庫管理スキルは、我が小隊の立派な戦力だ」
キリッと言い放つアレン。
エルザとクラウス、そしてレノまでもが、「いや、そういう問題じゃないだろ……」と、心の中で盛大にツッコミを入れたのは言うまでもない。
ともあれ、王都を脅かした理不尽な『バグ』は、完全な形で排除された。
第七小隊の、否、アレン率いるホワイト小隊の、輝かしい第一章の幕引きは、もう目前に迫っていた。




