第28話 窮地の悪徳上司と、禁断の秘薬(モンスター化)
王都の大通りの石畳に、無様に尻餅をついたバッカス。
彼の鼻先には、エルザが構える名剣の冷たい切っ先が、寸分の狂いもなく突きつけられている。周囲を取り囲む市民たちの、軽蔑と怒りに満ちた視線と罵声。
「国家反逆罪……殺人未遂……」
バッカスの口から、掠れた声が漏れる。
その言葉が意味する未来は、ただ一つ。軍法会議にかけられ、見せしめとして公開処刑されること。
地位、名誉、そして『黄金の豚亭』で夢見た輝かしい出世の道……。そのすべてが、一瞬にして音を立てて崩れ去った。
「馬鹿な……こんな、こんなことが……。有能なこの私が、なぜこのような……っ!」
バッカスの歪んだ自尊心は、現実を認めることを拒否していた。
エリート街道を歩んできた自分が、平民上がりのアレンや、あの出来損ないの新人兵士どもによって、どん底へ叩き落とされたという事実。それが、死への恐怖以上に彼の心を蝕んでいく。
屈辱と絶望が、彼の肥満体を内側から焼き尽くすような、黒い炎へと変わっていった。
「私が……私が悪いんじゃない……。お前たちが……お前たちのような出来損ないどもが、おとなしく死んでいれば……っ!」
バッカスは、這いつくばったまま、血走った目をアレンへと向けた。
責任転嫁。それは、彼がこれまで組織で生き抜くために磨き上げてきた、唯一の、そして最悪のスキルだった。
「アレン……お前さえいなければ! お前さえ、お前さえいなければァァァァッ!!」
バッカスが狂ったように叫ぶ。
その時、彼の太い指が、軍服の懐に隠されていた『何か』に触れた。
それは、以前密売組織から巨額の違約金を請求された際、「万が一の保険」として、高額な金を積んで掴まされていたものだ。裏社会で『禁断の秘薬』と呼ばれる、強烈な魔力を秘めた暗紫色の液体が入ったアンプル。
本来は、魔力を持たない者が一時的に莫大な魔力を得るためのものだが、副作用として、使用者の肉体と精神を異形のものへと変貌させ、最終的には命を奪うという、呪われた薬だった。
「ひ、ひひふふふ……そうだ、私にはまだ、これが……。これさえあれば、お前たちなど……っ!」
バッカスは、絶望の淵で最後の賭けに出た。
エルザが制止の声を上げる間もなかった。彼はアンプルを掴み出すと、そのまま歯でガラスの頭を噛み砕き、中にある暗紫色の液体を一気に喉の奥へ流し込んだ。
「なっ……バッカス、貴様何を……っ!」
エルザが驚愕に目を見開く。
直後、バッカスの体が一瞬、不自然に硬直した。
そして、彼の体内から、ドクン、ドクンと、地響きのような不気味な鼓動が周囲へ響き渡った。
「ぐ、があァァァァァァァァッ!!」
バッカスが咆哮を上げる。
その声は、もはや人間のそれとはかけ離れていた。
彼の肥満体が、内側から膨れ上がるように、劇的に変貌を始めた。
高級な軍服が、ミシミシと音を立てて裂け、肉が波打ち、皮膚の下を何かが這い回るように蠢く。
彼の特徴であった豚のような顔が、さらに醜悪に歪み、顎が裂けて鋭い牙が無数に生え変わった。瞳は真紅に染まり、人の理性は完全に消失して、破壊衝動だけが残った獣の目へと変わる。
「骨が……肉が……軋む……っ! だが、力が……溢れてくる……ッ!」
彼の背中から、醜悪な肉の塊が突き出し、巨大な二本の角へと変形した。
皮膚は黒く硬質化し、まるで魔物の皮膚のような鱗に覆われていく。
彼が身につけていた、有能さの象徴(と勘違いしていた)金ピカの装飾鎧が、変貌する肉体に食い込み、肉と金属が融合した、醜悪な装甲へと変わり果てた。
わずか数秒。
王都の大通りの中心に、身長三メートルを超える、醜悪で巨大な『バケモノ』が産声を上げた。
それは、かつて国家反逆罪の容疑者であった男の、欲望と屈辱が形となった、怨念の怪物であった。
「グルァァァァァァァァァッ!!」
バッカス・モンスターが、再び咆哮を上げる。
その凄まじい風圧と魔力が、大通りの市民たちを吹き飛ばした。
平穏だった王都は、一瞬にして、未曾有のパニックへと叩き落とされた。
「ひ、ひゃああっ! モンスターだ! 街の中に、モンスターが出たぞ!」
「逃げろ! 食われるぞ!」
市民たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
バッカス・モンスターは、逃げる市民たちに興味を示すこともなく、その巨大な拳を近くの建物の壁へと叩きつけた。石造りの壁が、紙切れのように砕け散り、瓦礫が雨のように降り注ぐ。
理不尽な上司の、理不尽な暴力が、白昼の町中で爆発したのだ。
「……なるほど。これが『禁断の秘薬』による、物理的なリスクの最大化ですか」
混乱の極みに陥る町中で、アレンはただ一人、驚くほど冷静に、モンスター化したバッカスを見上げていた。
彼は首元のスカーフを撫でながら、脳内で素早く状況を分析する。
(バッカス小隊長のモンスター化。これは、事前のシナリオにはない、完全なる不測の事態だ。だが、原因は明確。追い詰められたことによる、自暴自棄な自己判断。……組織の規律を完全に無視した、最悪のコンプライアンス違反だ)
アレンは、怯えるティノと新人兵士たちに向き直った。
「ティノ。君は二十人の新人たちを連れて、直ちに市民の避難誘導(バックオフィス業務)に当たってくれ。ここより半径五百メートルを『立入禁止区域』とする。これ以上の被害(損失)は、組織の信用問題に関わる」
「は、はいっ! アレンさん! みんな、僕に続いて! 安全な場所へ誘導するんだ!」
ティノが新人たちを率いて、迅速に市民の避難へと動き出す。彼らはアレンへの信頼のもと、恐怖を乗り越えて自らのタスクを全うしようとしていた。
「クラウス、エルザ殿」
アレンは、戦闘態勢に入っていた二人を指名した。
「クラウスは広域防御結界を展開し、市街地への被害を最小限に抑えろ。エルザ殿は前衛として、奴を大通りに縫い留める(足止め)。……不当な暴力による、我が小隊の業務妨害。これ以上の横暴は、断じて許容できません」
「了解です、アレン先生。この醜悪なバグ、私の魔法で完全に隔離(パッチ適用)してみせましょう」
「ああ、任せておけ。あのような、騎士の誇りを汚す怪物を、この王都で暴れさせるわけにはいかない」
クラウスが杖を振るい、エルザが剣を構える。
「さて、僕も最後のタスク(物理的監査)の準備に入るとしますか」
アレンは、懐から以前クラウスに作らせていた、微弱な魔力を帯びた『特殊なスカーフ留め』を取り出し、首元のスカーフへと装着した。
その瞳には、かつて前世で過労死する寸前に抱いた、無能な上司への底なしの怒りが、冷徹な殺意となって宿っていた。
第七小隊、いや、ホワイト小隊による、暴走した悪徳上司への『最終監査』が、今まさに始まろうとしていた。




