【番外編2】規律正しき騎士の失敗 〜正義という名の『不採算部門』〜
アレンという名の少年兵が置いていった硬貨を、エルザはぼんやりと見つめていた。
「……接待交際費、か。ふん、ふざけたガキだ」
吐き捨てるように呟き、残った安酒を喉に流し込む。
アルコールが胃を焼く感覚だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる。今の彼女にとって、この不快な刺激だけが唯一の友人だった。
ほんの一年前まで、彼女は『王国軍の至宝』ともてはやされていた。
赤髪をなびかせ、一振りの剣で数百の魔物を退ける若き天才騎士。第一騎士団の千人長として、彼女の未来は約束されていたはずだった。
だが、彼女には決定的な欠陥があった。
それは、騎士団という巨大な組織において、あまりにも『正義感』が強すぎたことだ。
「……団長。この補給物資の不自然な減り方は、一体どういうことですか」
ある日の午後。彼女は上官である第一騎士団の副団長の執務室に、一通の報告書を叩きつけた。
そこには、前線へ送られるはずの食料や魔法触媒が、特定の商会を通じて市井へと横流しされている動かぬ証拠が記されていた。
副団長は、肥え太った体を椅子に預け、眼鏡を押し上げながら鼻で笑った。
「エルザ君、君は相変わらず有能だが……少しばかり視野が狭いな。これは『運用上の調整』だよ。円滑な運営には多少の余裕が必要だということが、なぜ分からないのかね」
「調整、だと? 前線の兵士たちは、錆びた剣と腐りかけのパンで戦っているんですよ! これは調整などではなく、明白な横領……いえ、王国に対する背信行為です!」
エルザの叫びに、副団長は冷酷な目を向けた。
「……正義を語るのは勝手だがね、エルザ。君一人でこの『大きな流れ』を止められると思っているのか? 周りを見てみたまえ」
副団長が合図をすると、執務室のドアが開き、彼女の直属の部下たちが数人、部屋に入ってきた。
エルザが心から信頼し、自ら鍛え上げた精鋭たちだ。
「みんな、聞いてくれ。副団長の不正を暴く証拠は揃った。今こそ、騎士の誇りにかけて、上層部の腐敗を告発するぞ!」
彼女は部下たちの顔を見回した。
だが、返ってきたのは沈黙と、気まずそうに目を逸らす仕草だった。
「……どうした。なぜ何も言わないんだ」
沈黙を破ったのは、彼女が最も目をかけていた最年少の部下だった。
「エルザ様……もう、やめましょうよ。副団長からは、僕たちの家族の生活も保証すると言われています。あなたが騒げば、僕たち全員が路頭に迷うことになるんです」
「……な、何を……」
「正義で腹は膨らまないんですよ、エルザさん。あなたは強すぎる。僕たちのような凡庸な人間が、どれだけ必死にこの泥を啜って生きているか、分かっていないんです」
その言葉は、どんな魔物の爪よりも深くエルザの心を切り裂いた。
彼女が信じていた『騎士の絆』も『正義の規律』も、金と権力という名の強大な圧力の前では、一瞬で瓦解する脆い砂の城に過ぎなかったのだ。
その後、エルザは「精神的に不安定であり、上官への虚偽の報告を行った」として、第一騎士団の第一線から外された。
解雇こそされなかったが、与えられるのは埃を被った資料室の整理や、誰も見ない報告書の作成といった、形ばかりの閑職。エリート部隊に籍だけを残したまま、彼女は実質的に「死刑宣告」を受けたも同然だった。
(……正しい者が、報われない組織。正義を語る者が、和を乱す狂犬として疎まれる世界)
以来、彼女は剣を握る理由を失った。
どれだけ腕を磨いても、組織という化け物を相手には何も変えられない。自分の正義感は、騎士団にとってただの『不採算部門』に過ぎなかったのだ。
「正しい組織、だと……?」
アレンの言葉が、耳の奥で反芻される。
あんな少年兵に何ができるというのか。第七小隊のような、クズや落ちこぼれが集まる『掃き溜め』で、一体どんな魔法を見せようというのか。
(……どうせ、絶望して終わるだけだ。あの子も、私も)
そう思いながらも、エルザはテーブルに残された硬貨を握りしめた。
翌朝、東門へ向かうべきかどうか。酒で濁った頭では答えは出ない。
だが、彼女の指先は、久しく感じていなかった『剣を握るための微かな熱』を、確かに思い出していた。




