第14話 最強の成果報酬と、骨抜きにされた猫
僕が懐から取り出した小袋。その口を少しだけ開けた瞬間、兵舎の屋根の上は、独特の甘く、どこかスパイシーな香りに包まれた。
「にゃ、にゃ……にゃんだ、この香りは……っ! 脳髄に直接響くような、この魅惑的な匂いは……!」
隣に座っていたレノの様子が、劇的に一変した。
金色の瞳は限界まで大きく見開かれ、瞳孔は細く収縮している。ピンと立っていた猫耳は落ち着きなくピクピクと動き、ズボンの後ろから伸びたふさふさの尻尾は、瓦にバンバンと音を立てて激しく打ち付けられていた。
彼はサボっていた窓際社員の顔から、完全に『獲物を目の前にした野生の獣』の顔へと変わっていた。
「これが僕の提示する『誠意』、すなわち成果報酬型インセンティブだ。名付けて『アレン特製・高性能マタタビ玉』」
僕は袋の中から、親指ほどの大きさの茶色い丸薬を取り出してみせた。
これはただのマタタビではない。ミアの食堂の厨房を借りて、前世のハーブ学の知識を総動員し、猫人族が最も好む成分を抽出・濃縮。さらに、クラウスに頼んで微弱な『リラックス効果』を持つ魔力を定着させた、言うなれば魔法の栄養ドリンクのような代物だ。
前世のブラック企業では、どれだけ働いても成果報酬は寸志程度、あるいは「やりがい」という実体のない言葉で誤魔化されていた。
だが、適切な労働には、適切な対価が必要だ。特に、彼のような労働意欲を失った優秀な技術者を動かすためには、理屈ではなく、本能に訴えかける強力な報酬が必要不可欠である。
「これを、オレに……くれるのかにゃ……?」
レノはゴクリと唾を飲み込み、マタタビ玉に釘付けになったまま、震える声で尋ねた。彼の口元からは、うっすらと涎が垂れ下がっている。自由と昼寝を愛する男のプライドは、この香りの前では無力だった。
「ああ。ただし、これはあくまで『前払い分のパフォーマンス・ボーナス』だ。君が僕の提示する業務目標(KPI)を達成するたびに、これ以上の品質のものを支給することを約束する。……どうだ、この条件で僕の専属隠密として契約を結ばないか?」
「け、契約するにゃ! 今すぐ契約するにゃ! その代わり、早くその玉をよこすにゃあぁっ!」
レノは我慢の限界といった様子で、僕の手に飛びかかってきた。
僕は苦笑しながら、マタタビ玉を彼の口元へと放り投げる。
パクッ、と見事なキャッチでマタタビ玉を口に含んだレノは、数回咀嚼した後、ゴクリと飲み込んだ。
「…………ふにゃぁぁぁ……」
直後、レノの全身から力が抜け、その場にぐにゃりと崩れ落ちた。
屋根の上をごろごろと転がり回り、自分の尻尾を抱きしめて頬ずりをする。瞳はとろんと潤み、口元はだらしなく緩んで、幸せそうな笑みを浮かべていた。
「すごい……すごいにゃ、これ……。身体中の魔力が活性化して、すごく良い気分にゃ……。今まで食べたどんな魚より、どんな極上の日向ぼっこより、最高にゃぁ……」
完璧な効果だ。クラウスの魔力付与によるリラックス効果が、マタタビの成分をさらに増幅させているらしい。
レノは完全に理性を失い、僕の足元に身体をこすりつけ、喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
「アレン……いや、アレン様。オレ、もうアレン様なしじゃ生きていけないにゃ。一生ついていくにゃ。自由なんて要らないにゃ。オレを好きなだけこき使うにゃ……」
(……なるほど。マタタビ玉のインセンティブ効果は、想定以上に強力だったようだな。少し報酬設計を見直さないと、依存症を引き起こす可能性もあるか)
僕はとろけてしまったレノの猫耳を軽く摘み、彼を現実へと引き戻した。
「契約は成立だ、レノ。では、さっそく最初のタスク(業務)を割り当てる」
「にゃ……? 業務……?」
レノはまだ少しぼんやりとした様子で、潤んだ目を僕に向けた。
「君の最初の任務は、バッカス小隊長の『24時間体制での動向調査』だ」
僕の言葉に、レノの表情が引き締まった。マタタビの効果はまだ残っているようだが、プロの斥候としての本能が呼び覚まされたらしい。
「奴が誰と会い、何を話し、どこから資金を得て、どこへ流しているのか。そのすべてを記録に残して、僕に報告してほしい。奴の自室、執務室、あるいは外の行きつけの店。君の隠密技術なら、誰にも気づかれずに潜入できるはずだ」
バッカスが裏で陰湿な報復を企てているのは、第1話での『物理的監査』以来の、不気味な沈黙から明らかだ。奴を完全に失脚させるためには、言い逃れのできない決定的な『証拠』が必要だ。
「わかったにゃ。バッカスのオッサンがトイレに行く回数から、寝言の内容まで、全部調べて報告してやるにゃ」
レノは不敵に笑い、屋根の上から軽やかな身のこなしで飛び降りた。
足音は一切しない。一瞬にして兵舎の影へと溶け込み、その気配は完全に消失した。
完璧だ。これで、僕のチームには優秀な『情報収集部門』が加わった。
バックオフィスのティノ、フロントエンドのクラウス、そしてリサーチのレノ。
誰も死なない、残業しないホワイト小隊を構築するためのパズルのピースが、着実に揃いつつある。
バッカス小隊長。君がどんな卑劣な手を使おうとも、僕の構築したシステムの連携で、必ずやコンプライアンス違反の現行犯として監査(成敗)してやるからな。




