番外編1 沈黙のパワハラ上司、酒場で恨み言を叫んで自爆する
王都の歓楽街の奥深く。一般の騎士たちは決して足を踏み入れないような、高級だがどこか薄暗い酒場のVIPルーム。
分厚いビロードの絨毯が敷かれたその部屋で、第七小隊の小隊長バッカスは、苛立ちに任せて高級ワインのグラスを呷っていた。
「忌々しい……。あの小生意気な出来損ないめ……」
空になったグラスをテーブルに叩きつけ、バッカスはギリッと奥歯を鳴らした。
彼の肥満体の体は、高級な仕立ての私服に包まれているが、その顔色はひどく悪い。目の下には濃い隈ができ、常に何かに怯えているように視線が定まらなかった。
彼がこうして昼間から酒浸りになり、部隊の執務室から逃げ出している理由はただ一つ。
数週間前、自らが痛めつけていた平民出身の新人兵士、アレンから受けた『反撃』のトラウマである。
(……思い出すだけでも腹立たしい。なぜ、魔法も使えないようなただの平民が、あんな凄まじい力を持っていたというのだ)
首を絞め上げていた自分の腕を、紙切れのように引き剥がした圧倒的な膂力。
そして、自分のような身分の高い将校を、無造作に石造りの床へと叩きつけたあの冷酷な目。
あの日以来、アレンの姿を見るたびに、バッカスの脳髄にはあの時の激痛と恐怖がフラッシュバックするようになってしまった。アレンの前では、本能が「逆らえば殺される」と警鐘を鳴らし、声すらまともに発せなくなるのだ。
「私を誰だと思っている。この王国軍において、確固たる地位と人脈を築き上げたバッカス様だぞ。たかが平民のゴミ虫が一匹、少しばかり腕っぷしが強いからといって、調子に乗りおって……」
バッカスは脂汗を滲ませながら、ぶつぶつと恨み言を吐き出し続けた。
直接的な暴力や命令では、もはやあの男を抑え込めない。
それどころか、最近の第七小隊は奇妙な活気に満ちている。いつもオドオドしていた少年兵のティノは生意気にも在庫管理のルールなどと口答えをするようになり、倉庫は不気味なほど整頓されてしまった。
さらには、無能な没落貴族として放置していたクラウスまでもが、アレンを「先生」と呼び崇め、訓練場で凄まじい威力の魔法を連発しているという報告まで上がってきている。
「自分の思い通りに動かない部下など、ただの不具合だ。私の完璧な部隊管理を乱す者は、一人残らず排除しなければならない」
バッカスはニチャリと醜悪な笑みを浮かべ、懐から一通の黒い封筒を取り出した。
それは、王国軍とは対立関係にある『帝国の商人』を名乗る怪しい人物からの密書だった。バッカスは以前から、小隊の裏帳簿を操作し、備品を横流しすることで私腹を肥やしていた。その取引相手である。
「真正面からぶつかる必要などない。私には『権力』と『繋がり』があるのだ。来月予定されている国境付近の定期巡回……。あの付近には、凶悪な魔物の群れが意図的に誘導されていると聞く」
バッカスはワインボトルを掴み、ドボドボと乱暴にグラスへ注いだ。
「アレンと、あの生意気な取り巻きどもを、その危険地帯への任務に強制的に割り当ててやる。命令拒否は軍法会議ものだ。そこで魔物に食い殺されようと、帝国軍の『はぐれ部隊』に襲われようと、すべては不運な事故。私の手は一切汚れないというわけだ」
完璧な計画だ。
物理的な力で勝てないなら、組織の仕組みと権力を使って合法的にすり潰す。これこそが、上に立つ者の正しいマネジメントである。
「くっくっく……あっはっはっは! 見物だな。あの小賢しいアレンが、絶望の中で魔物に引き裂かれる姿が目に浮かぶようだ!」
バッカスは歓喜に顔を歪め、高笑いしながら勢いよく立ち上がった。
早くこの素晴らしい計画を密売人に連絡し、手配を進めなければならない。
「おいっ! 誰かある! すぐに馬車を用意しろ! 私が直々に出向いて……」
意気揚々と部屋のドアに向かって歩き出した、その時だった。
昼間から浴びるように飲んだワインで、彼の三半規管は完全に麻痺していた。
さらに、過度な肥満体型を無理やり押し込んでいる高級なズボンの裾が、歩幅と全く合っていなかったのだ。
「む?」
バッカスは、自分が脱ぎ捨てて床に転がっていた革靴に思い切り足を取られた。
巨体が宙に浮く。受け身を取る運動神経など、彼が持ち合わせているはずもない。
「べぶっ!?」
顔面から見事にビロードの絨毯へと激突したバッカスは、カエルのような無様な悲鳴を上げた。
さらに不運なことに、彼が激突した振動で、テーブルの端に置かれていたワインボトルがぐらりと揺れ――そのまま、彼の後頭部に向かって落下した。
ガシャァァンッ!!
「ぎゃあああああっ!!」
ボトルが砕け散り、真っ赤な高級ワインがバッカスの頭から背中、そして高価な衣服へと容赦なく降り注ぐ。
まるで血まみれになったような悲惨な姿で、バッカスは絨毯の上をのたうち回った。
「痛いっ! 冷たいっ! 私の、私の最高級の服がぁぁっ!!」
誰が見ても、ただの酔っ払いの完全な自業自得である。
しかし、自らの非を絶対に認めないパワハラ上司の脳内では、驚くべき論理の飛躍が起きていた。
「おのれ……おのれぇぇっ!! これもすべて、私をこんな酒場に追いやったあの出来損ないのせいだ! アレンめ、よくも私にこんな恥を……絶対に許さんぞぉぉぉっ!!」
薄暗いVIPルームに、八つ当たりも極まったバッカスの理不尽な叫び声だけが、空しく響き渡っていた。




