第7話―プロローグ
夫婦は知人のつてで、その田舎の一軒家を購入した。
夫が長年勤めた仕事を引退し、次の人生をどうするか。ふたりはよく話し合って検討した。妻にはそれなりに楽しみもあったが、仕事人間だった夫はなにかすることを見つけなければすぐに老いていってしまうだろう。
そこで目をつけたのが田舎でのスローライフだった。妻の提案だ。彼女はテレビで見たモデルケースのような家庭を例に出し、このアイデアの素晴らしさを語った。
妻の趣味のひとつであるベランダでのガーデニングをさらに拡大し、広い庭で家庭菜園なんてどうだろう。そこから始めてうまくいけば畑でも借りて、できた作物を道の駅で販売したり。
最近は空き家問題などもあるのだから、運がよければあまり予算を使わずに移住できるかもしれない。子どものいない私たちにとって、それは十分実現可能な夢ではないか。
夫ははじめ渋っていたが、熱心な妻のプレゼンに心を動かされ始めた。農作業に精を出す自分の姿を想像したりもした。うん、悪くない。どうせ自分にはこれといった趣味もないし、わざわざ街中に住むよりは、のんびりとした田舎で穏やかな余生を送るのもいいかもしれない。
とはいえそれも物件次第だ。目的に合った手ごろなものが見つからなければどうしようもない。夫はそれほど期待をかけずに不動産業を営む知人に相談してみた。運命とはこういうものなのだろう。あったのだ。ふたりが夢見たような物件が。広い庭付きの田舎の一軒家。
もともと農業を営んでいた一家が住んでいたらしい。子どもたちは独立し、それぞれ安定した職を得て家を出ていった。しばらくは夫婦だけで暮らしていたが、夫が先立ち、妻は長男の家に引き取られた。その妻も亡くなって、家は長男が相続した。といってももうその家に住むつもりもなく、持て余していたという。面倒を見てくれる人がいるのなら彼にとっても渡りに船だ、と知人は話した。
内見から契約までは驚くほどトントン拍子で進んでいった。夫婦はその家をすぐに気に入った。少し古いが最低限のリフォームは済んでいるし、ここから足りないところを修繕したり、継ぎ足していくのも楽しみのひとつだろう。もし先々畑が必要なら農地もいくらか残っているから、それもいい条件で譲ろうということにもなった。
夫婦はいままでの暮らしを清算し、この新たな地へ移住した。田舎といっても、もともと住んでいた地域とそれほど遠く離れているわけではなかった。車で2時間もかからない距離だ。時折親戚や友人を招くことができた。
広い庭を利用した家庭菜園は妻を夢中にさせたが、だんだん夫の方でもその魅力に取りつかれていった。世話をするのは手間がかかるが、世話した分がきっちり結果となって返ってくる。ふたりは次々と新しい作物へと挑戦していった。
そんな暮らしが数年間続いた。とても幸福な日々だった。しかしそれも終わりを迎える。
ある時、夫は妻の異変に気がついた。話していて言葉を言い淀むことが多くなった。物忘れも増えていって、前後のつながりも不明瞭になったりした。あんなに話し好きだった妻が、黙り込んだままジッと座っている時間が長くなっていった。
病院に連れていくとすぐに認知症という診断が下った。治療が進められ、それで一応は落ち着いたが、それでもだんだんと症状は悪化していった。
ある冬の深夜、ふたりはいつものように布団を並べて眠っていた。夫は隣の妻が「あっ」っと大きな声を出したのに驚いて目を覚ました。すぐに妻の様子を確認するが別に変わりはなく、穏やかに眠っているように見えた。夢でも見たのだろうと、夫は再び眠りについた。
翌朝、身の凍るような寒さを感じて目を覚ました夫は、隣に妻がいないことに気がついた。見ると部屋を仕切る障子が大きく開け放たれ、その先の縁側の掃き出し窓も開いていた。冷気はそこから侵入してきていた。
夫は急いで縁側から庭へ飛び出した。妻の名を呼びながら探すと、家庭菜園の隅のあたりでうつ伏せになって倒れている彼女を見つけた。まだ息はあったが妻の身体は恐ろしく冷たくなっていた。
救急車で病院に搬送された妻は、結局一度も目覚めることなく、そのまま息を引き取った。
妻を失った夫の暮らしは悲惨だった。あんなに楽しんでいた家庭菜園にも、もはや手を付けず放ったらかしになった。時折食料の買い出しに出る以外は家に閉じこもり、誰とも付き合わなかった。心配した親戚がたまに様子を見に訪れたが、それにもそっけなく応対した。
ある日やってきた親戚が夫の様子がおかしいことに気がついた。彼は親戚に庭の様子を尋ねた。荒れたままだったのでそう伝えると、「井戸はどうなっている?」と聞いてくる。井戸なんてあっただろうかと思いながら見にいくが、やはりそんなものは存在しない。そのように答えたところ、夫は激高して親戚を追い出した。
これはいよいよおかしくなってしまったか、と親戚は戻って家族や他の親戚に相談した。どこか面倒を見てもらえる施設にでも入ったほうがいいんじゃないか、と夫を説得するために数人で向かった。
しかし呼び鈴をいくら鳴らしても夫は出てこない。縁側の方へ回ってみると掃き出し窓が開いたままになっていた。はたして夫は庭にいた。あの妻が倒れていたという隅の方で同じようにうつ伏せになって倒れていた。
すでに息はなかった。ただ、その穏やかとは言い難い形相と、手の爪でかいたような地面の痕が発見した者たちの記憶に焼きついていた。




