第5話―20 怪異に触れてみる
近づくにつれ空気の粘度が増していく気がした。円は泥のなかを泳ぐようにして、どうにか凛子の背に手が届く位置までやってきた。目の前の彼女は黒い繭にでも包まれているようで、もう人なのかなんなのかわからない。凛子としての輪郭も曖昧だった。
ゴクリと息を呑む。一瞬ためらった後、思い切ってその肩(らしき部分)へ向けて右手を突っ込んだ。たしかにつかんだ。そう円が認識した瞬間、自分がどこにいるのかわからなくなった。
円は背を向けた凛子の右の肩に手をかけていた。もう彼女は黒い繭に包まれていない。凛子そのものだった。重い空気も消えている。それどころか清浄さがあたりに満ちているように思われた。
キョロキョロと周囲を見渡す。そこは神社の境内ではあったが、さっきまでいた場所とは違っていた。目の前に本殿があり、手水舎や灯籠がある。その構成は同じだったが、どれもまったく古びていない。それに、この神社の外側がまったく見えなかった。境界がはっきりしないが、まるでこの空間だけ切り取られたかのようだった。
円は自分の身体が自由に動くことを確認すると凛子から手を離した。それで元の場所に戻る、ということはなかった。振り返ってみると省吾や弥幸の姿はない。やはり自分たちは違う場所にいる、と円は思った。
どうしていいかはわからないが、とりあえず凛子をどうにかしようと、円はそろそろと凛子の正面に回る。彼女は相変わらずうなだれたままだ。
「コリン⋯⋯ちゃん?」円はおそるおそる声をかけた。まったく反応がなかった。その頬に手を伸ばし、ペチペチとはたいてみる。「お〜い、コリ〜ン、生きてるか〜」
やはりなんの反応もなかった。円は少しイラッとして、凛子の両肩をわしづかみし、前後に激しく振ってみた。凛子の首がガクガクと揺れる。
「コリ〜ン、コリ〜ン、もういい加減に目を覚ませよ。お〜い、わどー、和道凛子ー」
その時、凛子が円の激しい揺さぶりに抵抗し、動きを止めた。おっ、起きたかと思ったがそうではなかった。凛子は正面の円に向けて甲高い叫び声を浴びせた。
円はとっさに手を離し、一歩退きながら耳をふさぐ。叫びはすぐに止まったが凛子はどう見ても正気じゃなかった。そのまま静かに立ち上がり、上体をゆらゆらさせている。
じっと様子をうかがっているとその顔が奇妙に歪んでいった。画像加工アプリで弄ったように、ありえない曲線を描く。そのグロテスクな様はちょうどお化け屋敷の歪んだ鏡を見ているようだった。
(あっ、これダメだ)円は思った。なんかヤバいのが憑いてる。どうしようかと考えるも、特にアイデアは浮かんでこなかった。現状為す術がない。やっぱ呪いのアイテム借りてくるんだったなあと後悔した。
考えている間に凛子が動き出した。ゆっくりと一歩ずつ前進していく。円は思わず道をあけて、その行く先へ目を向けた。さっきまで閉じていた本殿の扉が開いている。その中になにか渦巻くような別の空間が見えた。
あそこへ行かせてはいけない、と円は直観した。たぶんあの中に入ったら戻ってこれなくなる。慌てて後ろから凛子の腰にしがみついた。それでも凛子の前進は止まらない。円もろともに引きずっていく。
(ヤバいヤバいヤバいヤバい)円は心の中で連呼しながら、精一杯両足を突っ張る。それでなんとか前進は止まったが、そう長くは保ちそうになかった。
もう時間の問題かと思われたその時――誰かが円の肩をつかんだ。




