第17話―番外編 湯けむり温泉カッパ地獄変 前編
漆黒を纏いしその者は、脇目も振らずにまっすぐ千歳楼の玄関にやってきた。
「ごめんください」と低めだが、その見た目からは意外なほど涼やかな声音で訪いを入れる。
女将がすぐに出てきた。イケメン来訪の余韻がまだ残っているようで、普段よりはずっと明るい表情である。
「お待たせ致しました。ようこそお越しくださいました。わたくし温泉旅館・千歳楼の女将でございます」と出迎える。
「MAYOI先生からの紹介で参りました芦原です」その人物は丁寧に頭を下げた。
「は?」女将は思わず聞き返す。MAYOI先生?なんだっただろう?なにか約束していたかしら⋯⋯
「怪現象でお困りだと伺いましたので」芦原と名乗った大柄な女性はそう続けた。
「ああ、はいはい、小説家の⋯⋯」女将はようやく思い出した。昨日からの嵐のような出来事ですっかり忘れていた。たしかにそのような話をしていたのだ。
いま女将サチコさんの目の前に立っている漆黒のマントを着た大女は、みなさんご存知、芦原英依先輩だった。彼女はここ千歳楼へ、弥幸の叔母でホラー作家のMAYOIの紹介でやってきたという。
この数週間ほど前、弥幸に調査の依頼が持ちかけられる以前のことだが、女将さんはオンラインでの取材を受けた。内容はこの千歳楼、および近隣の温泉地で頻発すると噂の怪奇現象について。ホラー作家であるという取材者にアレコレお話ししたのである。
この辺りには心霊や妖怪変化の類いの噂話が絶えない。それはもう、彼女が学生の頃よりもさらに昔からである。ただ幸いというかなんというか、もともと温泉地としては秘湯的ポジションなので、それで少ない客足がさらに鈍るというほどでもなかった。
それでも噂が広まれば、マイナスになる可能性はある。しかし女将としてはここはひとバクチといった心持ちだった。逆にそれが記事になったり、小説の題材になってバズリでもすれば、観光地として大きく羽ばたけるかもしれない。なあにオバケといっても実害はないのだ。そう問題にもなるまい。
もちろんそんな勝手なことをして、観光関連業で生活している周りの人にバレたらマズイので、あくまでも極秘裏に、ソースは秘匿するという条件をつけている。女将さんだって村八分はゴメンだ。
本来の女将サチコさんはとても慎ましい人柄であった。弥幸にのぼせたあんなのは異例中の異例で、"物静か" と評した板長の判断はそう間違ってはいない。しかし最近は少しばかりギャンブラー気質にもなっていた。FXでプラスを出し続けているのが原因であろう。座敷わらしのささやかな加護なのに、自分の実力と錯覚している。それでこんな、たいして確信のない賭けに打って出たのだ。
ペラペラとインタビューに応えるなかで、怪現象といっても困るようなことはほとんど起こらないのだけど、そういえば温泉利用者からおかしな苦情がくる。これだけは少し困ると、そんなことを話した。
たまに、温泉の男湯を利用した客が、なにかに尻を撫でられて気持ち悪い、というようなことを言ってくるのだ。実害といえばこれだけなので、なにが原因かはわからないけど、なんとかしたい。そうこぼした。
それを聞いたMAYOI先生は、それなら自分の知り合いが処理できるかもしれないと言い出したのである。さすがホラー小説なんてものを書いているだけあって、そちらの方面に顔が利くということか。しかし⋯⋯
「お高いんじゃありません?」女将さんは恐る恐る尋ねた。
「いえいえ、そのコはほとんど趣味みたいな感じでやってますので、相場よりはだいぶんお安くできると思いますよ。宿泊と手間賃、交通費程度でお話できますけど」
「あら、それならお願いしようかしら」
それでやってきたのがいま目の前にいる、芦原と名乗る女性というわけだ。"そのコ" と言っていただけあって、ずいぶん若く見える。デカくて、妙な威圧感を放ってはいるが。
今日は二組予約が入っていて、すでにチェックインは済んでいる。予定になかったことではあるが、部屋の空きもあるし、問題はないだろう。女将は頭のなかで算盤を弾いた。
「それではこんなとこではなんですので、お部屋にご案内します。今日はお泊まりでいいのよね?」
「ええ、お願いします」英依はニッコリ笑った。




