LOG.139 夜のざわめき
LOG.139 夜のざわめき
### ◆ 学院内の噂
夜鳴くピアノ事件の翌日。学院の廊下や食堂では、候補生たちの小声が飛び交っていた。廊下を歩けば肩越しにひそひそ声が追いかけてきて、食堂ではスプーンを握る手が強張り、視線が落ち着かない。誰かはコップを倒して水をこぼし、誰かは慌てて目を逸らす。空気は湿った紙のように重く、緊張で誰もが喉を詰まらせていた。
「……器材不良なんて、信じられるか?」「影を見たってやつがいたらしい」
囁きは恐怖と好奇心を混ぜ合わせ、噂は瞬く間に広がっていく。仲間同士の信頼はさらに揺らぎ、誰かが「お前が見間違えたんだろ」と責めれば、別の誰かが「じゃあ昨夜の声は?」と反論する。衝突が今にも火花を散らしそうな中、冷はその光景を横目に見つめていた。
(……放っておけば、瓦解する。けど俺たちはもう、逃げるわけにはいかない)
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### ◆ 湊のお見舞い
医務室。白いカーテンがかすかに揺れ、消毒液の匂いが漂っていた。湊は包帯に吊られた右腕を抱え、ベッドに横たわっていた。顔色はまだ悪いが、口元にはいつもの柔らかな微笑みがある。その微笑みに安堵しながらも、仲間たちの胸には痛々しさが残っていた。
「来てくれてありがとう……」
今日は冷だけでなく、他のクラスの女子候補生たちも数人が見舞いに来ていた。花や果物を差し入れ、湊の周囲はにぎやかな空気に包まれている。彼の隠れた人気を、冷たちはあらためて実感することになった。
冷はベッド脇に座り、そっと湊の毛布を直しながら声をかける。
「痛みはどうだ? 無理に笑うなよ。俺がそばにいるから、安心して休め」
湊は目を細め、安堵したように微笑んだ。
「ありがとう、冷……君がいてくれると、本当に安心する」
そのやり取りを見ていたさくら、まつり、天音は思わず複雑な表情を浮かべる。湊に特別な感情があるわけではない。だが冷があまりにも優しく接する姿に、心のどこかがざわつくのを感じていた。
天音はわざと咳払いし、「ふん、過保護すぎじゃない?」とつぶやく。さくらは「……私たちの時より優しい顔してない?」と小声で漏らし、まつりは無言でタブレットに視線を落としたまま、指先を止めてしまう。
医務室には他の女子の笑い声が響く一方で、冷と湊の親密さに微かな嫉妬が滲み、チームの空気は妙に居心地の悪いものとなった。冷は気づかぬまま湊を気遣い続け、その優しさが逆に周囲の胸をざわめかせていた。
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### ◆ さくらの不安
医務室を出た帰り道。廊下の窓から射し込む光が傾き、影が長く伸びていた。人気のない廊下は静まり返り、足音がやけに響く。さくらが足を止め、制服の袖をぎゅっと握りしめ、小さな声で告げる。
「……やっぱり、影に見られてる気がするの。廊下を歩いてても、背中に視線を感じて……誰かがずっと後ろにいるみたいで」
冷は彼女を見つめ、言葉を選びながら答えた。心の中では焦燥と怒りが入り混じるが、それを悟らせまいと低く落ち着いた声で言う。
「俺がいる。大丈夫だ」
さくらはわずかに息を吐き、安心したように冷の袖口をつまんだ。だがその直後、窓の外で何かがきらめいた。ガラスに一瞬、白い光が反射し、さくらの表情が強張る。冷も即座に振り返り、廊下を駆け寄って窓を開け放った。冷たい風が吹き込み、カーテンが揺れる。しかし外には何もいない。闇と静寂だけが広がっていた。さくらは肩で息をし、顔色を失って冷にしがみついた。冷は背に手を添え、胸の奥で怒りを噛み殺すしかなかった。
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### ◆ 不穏の広がり
夜、候補生たちの間で新たな噂が立つ。「屋上に不審な光を見た」と。寮の談話室でもその話題でもちきりだった。いつもならテレビやカードゲームで盛り上がる場所が、今夜ばかりは囁きと沈黙で支配されている。影の話題になるたびに誰かが身をすくめ、誰かが廊下を気にして振り返る。薄暗い照明の下、談話室は普段よりも広く、冷え冷えとした空気に包まれていた。
天音は腕を組み、挑発的に言い放つ。
「ほら、やっぱり“器材不良”なんかじゃないじゃない。これで信じろって方が無理よ」
まつりはタブレットを開き、真剣に分析する。光の出現時刻と候補生の行動ログを並べ、指先で数値を弾く。
「光の出現時間とログの欠損……相関があるかもしれない。無関係だとは思えないわ」
湊は皆を見渡し、疲れた身体を起こして微笑んだ。周囲の不安を少しでも軽くしたいという想いがにじんでいた。
「でも……僕たちが一緒にいれば、大丈夫だよ」
その言葉に、一瞬だけ緊張が解ける。だが、談話室の窓辺に座っていた候補生が「今……動いた?」と小さく声を上げ、全員の視線が外へと向く。ガラスに映るのは月と校舎の影だけ。冷は眉をひそめ、胸に嫌なざわめきを覚えた。
さくらの視線は窓の外に釘付けになっていた。怯えるように呟く。
「また……来る」
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### ◆ 締め
その瞬間、学院の屋上に白い光が走った。夜空を切り裂くようにきらめき、校舎の影を淡く照らす。候補生たちのざわめきが一気に広がり、誰かが叫び、誰かが駆け出そうとする。恐怖と興奮が入り混じった声が談話室を震わせた。
冷は静かに窓辺に歩み寄り、手を窓枠に添えて夜空を睨む。目を細め、息を潜めながら光の残滓を追う。胸の奥では鼓動が強まり、血が熱くなるのを感じた。
(これは……次の七不思議)
頭の中に浮かぶ言葉はそれだけ。背後でざわめく声も、怯えるさくらの吐息も、今は遠くに感じる。光と影、そのどちらもが学院を覆い尽くしている。もしそれが制度そのものの仕掛けなら――次に狙われるのは誰なのか。
冷の胸に新たな緊張が走る。拳を握りしめ、決して退かないと心に刻む。屋上に残る光は、一瞬だけ“人影のように見えた”。影と光が交錯する不気味な学院に、次なる謎が待ち受けていることを予感させながら、夜はゆっくりと更けていった。




