LOG.136 譜面に刻まれた影
LOG.136 譜面に刻まれた影
夜が明けても、音楽室での出来事を覚えている者はほとんどいなかった。候補生たちは眠りから醒めたような顔で訓練場へ向かい、笑い声すら漏らしている。まるで昨夜の混乱が幻だったかのように。だが冷たち五人だけは違った。胸に焼きついた恐怖と、消えない余韻が肌に残っていた。
冷は譜面を胸に抱きしめていた。古びた紙のざらつきが掌に伝わり、わずかに香る匂いが母を想起させる。あの幻影が見せた微笑、そして消え際の唇の震え――言葉にならなかった声が、まだ耳の奥に残っていた。「これは……母が残した証だ」冷は心の奥でそう確信していた。彼にとって“母”とは、才牙家で育ててくれた母親の姿であり、血の真実をまだ知らぬまま、その記憶を抱えているのだった。
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### ◆ 譜面の解析
午前の授業を終えた冷たちは、図書室の一角に集まっていた。大きな窓から差す光は冷たく、書棚に並ぶ本の影が長く伸びている。ここなら人目を気にせず話せる。まつりは端末を机いっぱいに広げ、譜面をスキャンして解析を始めていた。彼女の目は鋭く、指の動きは焦燥を隠さない。
隣でさくらが心配そうに覗き込み、湊は落ち着かない手つきでノートの端をめくり続けていた。天音は腕を組み、壁際に立ちながら鋭い視線を端末へ投げる。緊張が一つの空間に凝縮し、誰も無駄口を叩かない。
「……ただの楽譜じゃない。音階の並び方が一定の規則を持っている」
まつりの指が走る。画面には音符の高さと並びが数列に変換され、やがて文字コードへと変わっていった。無機質な電子音が短く鳴り、音符が跳ねるように画面を流れていく。規則的に並んだ文字が少しずつ言葉を形作る。現れた単語は断片的だが、冷たい印象を残す。
> 『合格者選別』
> 『影』
> 『監視塔』
「やっぱり……制度と影は繋がってる」天音の声には怒りが混じっていた。拳が机を軽く叩き、低く唸るように言葉が漏れる。
湊が眉を寄せ、恐る恐る呟く。「誰かが意図的に残した暗号……かもしれないよ」
冷は譜面を見つめた。紙に触れる指先が震え、胸の奥が疼く。「……母が残したメッセージかもしれない」言葉にすると、喉が熱く締めつけられた。才牙家の母を想うその記憶は、彼にとって今なお揺るぎない真実だった。
さくらが目を潤ませながら囁く。「もしそうなら……ずっと冷のことを守ろうとしてくれてたのかな」
冷は答えず、ただ唇を固く結んだ。静寂が一同を包み、ページをめくる音さえ響いて聞こえる。
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### ◆ 候補生の分断
その日の午後、廊下で怒号が響いた。冷たちが駆けつけると、赤紙を貼られた候補生が数人に取り囲まれていた。緊張に満ちた空気は刃物のように張り詰めていた。
「お前、不正合格だろ!」
「影に憑かれてるに違いない!」
青年の顔は青ざめ、必死に否定する。「違う、俺は……!」しかし誰も耳を貸さない。恐怖と疑念が言葉を鋭くし、押し寄せる。背中に貼られた赤紙は烙印のようで、群衆の眼差しが突き刺さる。泣きそうに顔を歪める者、赤紙を必死に剥がそうとする者、祈るように両手を合わせて見守る者――群像の動きが混乱をさらに膨らませた。
「やめろ!」天音が割って入った。だがすぐに反論が飛ぶ。「お前こそ怪しい! 試験で裏切ったんだろ!」
「……なに?」天音の目が鋭く光る。その殺気が逆に場を荒らす。罵声が一層大きくなり、周囲の候補生までざわめき出す。
湊が慌てて手を広げ、「待って、やめようよ!」と間に割って入った。しかし肩を強く押され、床に倒れ込む。肘を擦りむき、赤い血がにじむ。さくらがすぐに駆け寄り、彼を抱き起こした。
「大丈夫? 湊……」
湊は痛みをこらえて笑おうとするが、声は震えていた。「平気……でも、こんなの間違ってるよ」
まつりが端末を掲げ、冷静に言葉を放つ。「制度が意図的に疑念を煽っている可能性が高い。赤紙はそのための道具」
しかし候補生たちの耳には届かない。空気はざらつき、恐怖が群衆を飲み込んでいく。冷は一歩前に出て、腹の底から声を張り上げた。
「やめろ! ここで争っている限り、影の思う壺だ!」
一喝に、廊下が一瞬静まり返った。怒声を浴びせていた者たちの目に怯えが浮かび、互いに視線を逸らす。やがて彼らは舌打ちを残して散り去った。廊下には重苦しい沈黙が残り、擦れた靴音だけが遠ざかっていった。
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### ◆ 冷の決意
静まり返った廊下で、冷は譜面を抱きしめた。あの幻影が母の姿を纏って現れたこと、その背後に影が潜んでいたこと――それは制度の仕組みによるものであり、母自身が影ではない。利用されただけだ。そう強く信じたい。いや、信じなければ自分が崩れる。
指先が冷え、心臓が痛むほどの鼓動が胸を打った。「母は影なんかじゃない。制度に利用されたんだ」
その言葉に、仲間たちが顔を上げる。天音が力強く頷く。「必ず暴いてやる」
まつりは端末を握り、「もっと証拠を集めよう」と冷静に返す。さくらは涙を浮かべながら、「私もついていく」と決意を口にする。湊は微笑み、「冷なら大丈夫だ」と優しく支えた。
仲間たちの眼差しが重なり、冷の胸の奥で炎のようなものが燃え上がる。張り詰めた空気の中で、その炎は確かな光を放っていた。
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### ◆ 締め:再びの無線
その夜、校舎の窓から不穏な光が漏れた。冷と仲間たちが見上げると、教官棟の奥から微かな無線のざわめきが風に混じって届く。暗闇に揺れるその声は、機械的でありながらどこか人の意志を孕んでいた。
「……次の選別を急げ」
「……影は従順だ」
耳を刺すような断片的な声。互いに顔を見合わせ、背筋に冷気が走る。制度の裏には、意志を持った何者かが存在する――そう悟らせるには十分だった。
声が途切れると、しんとした静寂が広がり、自分の呼吸音だけが残った。夜風が肌を刺し、廊下の蛍光灯が不気味に瞬く。遠くで犬の吠える声が響き、静寂を切り裂く。冷は譜面を強く握りしめた。母を、仲間を、影から奪わせはしない。そう誓いながら、闇の奥へと視線を注ぎ続けた。




