LOG.135 幻影の母と白影
LOG.135 幻影の母と白影
扉が開いた瞬間、夜気と古い木の匂いが冷の頬を撫でた。音楽室は闇に沈み、楽器の影が黒々と沈殿している。窓はすべて遮られ、隙間から漏れるはずの月明かりさえ見えない。ひと呼吸――その次の瞬間、闇の中央で白が揺れた。
白いドレスの女が立っていた。輪郭は淡く滲み、胸元で手を組む仕草が、懐かしい癖のように正確だった。冷の喉は、名を呼ぶ前に乾いた。胸は早鐘のように鳴り、息が詰まるほどに速まる。膝が小刻みに震え、今にも折れそうだった。
「……母さん」
女は微笑む。だが微笑の縁を、銀砂のようなノイズがさらさらと崩していく。女の背後には、背丈の同じ白い影が寄り添っていた。影は顔の位置に穴のような空虚を抱え、その空虚が、冷の視線を吸い込んで離さなかった。耳の奥でノイズのようなざわめきが重なり、空気が粘つくように重くなる。
「冷」
名を呼ぶ声は確かに母の声色だった。柔らかく、冬の毛布の内側の温度をしていた。胸骨がきしみ、さらに呼吸が浅くなり、意識が霞みかける。背後で、さくらが小さく息を呑み、天音が一歩前に出る気配がした。湊は声を失い、まつりは硬直して端末を握りしめている。
「行かないで」さくらが袖を掴む。震える指先が熱い。冷は振り返れない。視線を外したら、二度とこの姿に会えない気がして。
「目を逸らすな。これは――」まつりが低く言い、端末を掲げた。スクリーンには、波形が幾層にも重なって脈動し、幻影の声と影のノイズが干渉していることを示していた。
「冷」
二度目に呼ばれた名は、母の声と影の囁きが重なっていた。音階の裏側から湿った指が伸び、鼓膜を撫でるように。視界の端に、幼い日のリビングが揺らめく。陽だまり、淡い埃、ピアノの黒鍵に映る自分の額。母の手が背を抱きよせ、笑い皺が増える。泣きながら歩く候補生、耳を塞ぎながらも足を止められない候補生が、廊下の奥からふらつきながら近づいてくる。
――帰ろう。
一言。たったそれだけが、永遠に甘い。冷の足が半歩、前に出た。床板が鳴る。天音が肩を掴んで引き戻す。
「目を覚ましなさい、冷!」
怒鳴声が闇の膜を裂いた。湊が震える声で重ねる。「これ、記憶を利用して誘導してる。罠だよ!」
まつりが素早く指を走らせる。「音場、可聴域の上と下にトリックが入ってる。視覚は――投影干渉。制度の装置が作る幻影」
「制度が……」天音の声が低くなる。「なら、壊すまで」
白い影が揺れた。女の足元で、影の輪郭が母の足首に絡みつく。やがて二つは重なり、一体の“人型”へと収斂していく。顔の半分は母、半分は穴。笑みと空洞が同居する。影が腕を広げた瞬間、候補生たちの呻き声が廊下から聞こえ、扉を叩く鈍い音が室内を震わせた。
不協和音が鳴った。鍵盤が誰の指もないまま跳ね、弦が軋む。教室の空気が波打ち、胸郭が内側から押し広げられる。壁の掲示物が震え、窓ガラスが唸り声を上げる。扉の外、廊下の足音が次々と近づいてくる。夢遊病者の歩幅。候補生たちが音に呼ばれて集まってくるのだ。
「来るな!」天音が扉に背を預け、押し込まれる力を一人で受け止めた。背筋が軋み、汗が滴る。さくらが涙声で叫ぶ。「お願い、入っちゃだめ!」
集合した白い人型は、冷へと手を伸ばす。掌は母の温度の記憶をしていた。指先に、幼い頃に傷を作った薄い線まで再現されている。胸が裂ける。冷の耳に、母が子守唄を歌う声が重なった。だがその旋律は次第に不協和音へと変わっていく。
「……母は、影なんかじゃない」
冷は、言葉にしてから気づいた。これは誰かに向けた宣言ではなく、自分の中の闇へ投げる錨だ。呼吸を整え、目を閉じる。浮かび上がるのは、母の声、匂い、体温、笑い、叱責――影が持ちえない厚みだ。記憶が鮮やかに蘇るほど、目の前の幻影が薄れていく。胸の鼓動は破裂しそうに速い。
「母さんは、俺の記憶の中にいる。奪わせない」
白い人型がわずかに揺らぐ。まつりが叫ぶ。「いま、揺れてる! 冷、保持して!」
湊が拳を握る。「僕たちも支える!」
さくらが背中に額を押し当て、震えながら囁く。「冷、ここにいるよ」
天音が歯を食いしばる。扉の向こうから押し寄せる体重に軋む蝶番。その身体が震えながら、なおも踏ん張っている。「早く決めなさい。叩き潰すのか、祓い落とすのか」
ピアノの音が割れる。音階が崩れ、空気が鳴く。白い人型が突進した。冷は一歩踏み込み、拳を握り――殴らなかった。代わりに、両腕を広げる。抱きとめる姿勢で、幻影を受け止める。
「もういい。帰ってこなくていい。ここにいる」
耳元で、母の呼吸の幻が震えた。白い穴が、瞬きをしたように狭まる。消える直前、母の唇が何かを言いかける。その音は届かないまま、次の瞬間、目の前の人影がばらばらの粒になって弾けた。白金の粉塵が舞い、音楽室に雪が降る。冷たい粒子が肌を刺し、視界が白く霞む。
閃光。沈黙。
床には、一枚の譜面だけが残っていた。紙は古く、角が擦り切れている。表紙には、見慣れたインクの掠れた筆跡で、母の名が記されていた。
「……母が、残した」
冷が膝をつき、譜面を拾い上げる。指に紙のざらつきが移り、微かな香水の残り香が鼻に届く。まつりが横に膝をつき、譜面の記号を覗き込む。
「ただの楽譜じゃない。配列――コードになってる。解析できる」
湊が安堵と疲労の混じった息を吐く。「よかった……冷、戻ってこれて」
さくらは涙を拭い、笑顔になろうとしてうまくいかず、代わりに小さく頷いた。天音は扉から離れ、肩で息をしながら冷の隣に立つ。
「証拠は手に入れた。あとは、叩きつけるだけ」
音楽室の闇は、先ほどまでの濃度を失っていた。窓の隙間から、遅れて月光が薄膜のように差し込む。白い粉塵がゆっくりと沈み、床に薄い光の層を作った。冷の鼓動だけが、まだ異様に速い。
扉の外でたむろしていた候補生たちは、いつの間にかそれぞれの寮へ引き返している。夢から醒めたような足取りで、何も覚えていない顔のまま。泣き腫らした目の者、肩を抱き合って戻る者、耳を塞ぎながら俯く者――群像の混乱の残滓が廊下に漂う。さっきまでの騒ぎを忘れたかのように、静かに扉の影が遠ざかっていった。
冷は譜面を抱え、最後にピアノへ視線を向けた。蓋の上に、指でなぞった小さな傷が一本。幼い日にやってしまった傷と同じ場所に、同じ角度で刻まれている。
――届いた。
胸の深いところで、何かが静かに収まっていく。痛みは消えない。だが、痛みの形が分かった。母を喪った記憶が影に侵食されることは、もうない。
「行こう」
背後の仲間たちが頷く音が、闇に小さく連なる。音楽室の扉が開き、冷たい廊下の空気が流れ込んだ。夜はまだ深い。けれど、遠くで鳥の気配がかすかに動いた。仲間たちの靴音が異様に響き、やがて遠ざかる音楽室の扉が重く閉じる音が背後に落ちた。ゆっくりと廊下を歩き出す冷の耳に、自分の鼓動だけがなおも重苦しく響いていた。
この夜の終わりは、すぐそこにある。
――そして物語は、一度だけ静かに区切りを迎える。次なる頁に、日常の光を準備しながら。




