LOG.131 夜鳴きの旋律
LOG.131 夜鳴きの旋律
夜の帳がすっかり校舎を包み込んでいた。寮の明かりも落ち、廊下に響くのは足音すらない静寂――はずだった。だが冷は眠れずに布団の中で目を開けていた。微かな音が、夜気に紛れて聞こえていたからだ。
――ピアノの音色。
柔らかく、しかし確かに心を掻き立てる旋律。それは冷にとって忘れることのできない調べだった。母がよく弾いていた子守歌。遠い記憶の奥から蘇る旋律が、今この公安学校の夜に響いている。胸の奥に冷たい衝撃が走り、彼は思わず布団を蹴って起き上がった。
外の廊下に出ると、冷たい空気が肌を刺した。夜風が窓の隙間を吹き抜け、薄いカーテンを揺らしている。だがそれ以上に彼を震わせたのは、廊下の奥から漂う旋律の鮮烈さだった。寮生の何人かもすでに廊下に出てきており、夢遊病者のようにふらふらと歩いていた。目は焦点を結ばず、ただ旋律に導かれるように一方向を目指している。
「音楽室……」
さくらが半分眠ったような声で呟き、ゆっくりと歩き出す。彼女の頬は蒼白で、額には冷や汗がにじんでいた。冷は思わずその腕を掴んだが、さくらは力なく振りほどいて旋律に従おうとする。「……行かなきゃ……」その小さな声には抗えない吸引力があった。
湊もおびえたように目を丸くしながら、「みんな、呼ばれてる……音に……」と声を震わせる。彼の指先は小刻みに震え、まるで冷たい川に手を浸したかのように血の気を失っていた。「怖い……でも止められない……」
天音は苛立ちを隠さず、唇を噛みしめて「ふざけるな、あんな音に惑わされてたまるか」と吐き捨てたが、次の瞬間には自らの足も旋律の方角へ向かっていることに気づき、苦々しく顔を歪める。「くそ……!」
まつりは眼鏡を押し上げ、冷や汗をにじませながら低くつぶやいた。「解析不能の現象……これは制度の罠……いや、それとも……制御不能の副作用……?」
候補生たちは次々と音楽室の前へと集まった。古びた扉は、誰も手を触れていないのに、ゆっくりと、きしむことなく静かに開いた。中から淡い光がこぼれ落ち、旋律はさらに澄んで響いてくる。その光はろうそくの炎のように揺らめき、不気味な温度を孕んでいた。
中に足を踏み入れると、そこには誰も座っていない椅子と、ひとりでに鍵盤を叩き続けるグランドピアノがあった。譜面台に置かれた紙は真っ白。なのに鍵盤は軽やかに上下し、まるで見えない奏者が存在するかのように音が紡がれていく。
その瞬間、冷の視界は歪み、過去の記憶が鮮烈に蘇った。
――母が笑顔で弾く姿。幼い自分の小さな手をとり、優しく指を重ねて鍵盤を押す母のぬくもり。夕暮れ時、外の光が窓辺に差し込み、家の中が金色に包まれていた幸福な時間。だが、微笑みの余韻を残したまま映像は急激に暗転する。暗闇の中で一瞬だけ母が自分を抱き寄せる。その温もりが消えるより早く、炎の揺らめきが世界を覆い、割れるガラス、父の背中、母の叫び声。そして何も残らない空白――余韻と惨劇のコントラストが冷の心をえぐった。
「……やめろ!」
冷は思わず声をあげ、胸を押さえた。心臓が鋭く痛み、頭の奥で金属音のような耳鳴りが響く。だが旋律は止まらない。むしろ激しさを増し、音楽室全体を震わせた。
窓の外に、白い影が浮かび上がる。ひとつ、またひとつ。候補生の形を模した無表情の人影。それは校庭にずらりと立ち並び、窓越しに中を覗き込んでいる。息を呑む音があちこちから洩れ、空気が一気に張り詰めた。
「いや……来ないで!」
さくらが恐怖に悲鳴を上げ、冷の腕にしがみついた。彼女の肩は震え続け、爪が食い込むほどに冷の袖を掴む。「お願い、止めて……」
天音は前に出て叫ぶ。「冷に触るな!」その声は勇ましかったが、その背中に走る緊張は隠せなかった。「どんなものが来ても、あんたには触らせない」
まつりは影の動きを凝視し、「……模倣体……制度の副産物……?」と分析を試みるが、その声にもかすかな怯えが混じる。「でも……動機が分からない……」
湊は影を見つめ、声を震わせた。「……僕たちのコピー……? やめてよ、そんなの……」
影はただ静かに立ち尽くし、やがて揺らめき、夜気に溶けるように掻き消えていった。
直後、候補生の数名ががくりと膝を折り、床に崩れ落ちた。意識を失い、呼吸だけがかすかに残っている。湊が慌てて駆け寄り、その手首に触れ、「……眠ってる……いや、これは……深い、昏睡……」と声を震わせる。さくらは顔を真っ青にして彼らを見下ろし、「こんなの……どうして……」と小さく泣き声を洩らした。天音は拳を握り、「こんな理不尽……許せない……」と低くつぶやく。
そして突然、教室のスピーカーからノイズが走った。ザザッ、と耳障りな音が響き、次いで途切れ途切れの言葉が流れる。
『……合格者……影の選別……適格……排除……』
その瞬間、まつりは顔を強張らせ、「やはり……七不思議と制度は直結している……偶然の産物ではない……」と低く告げた。湊はおびえながらも、「これ……僕らを、試してるんだ……誰を残すか……」と震える声を漏らす。天音は強い目で冷を振り返り、「ふざけるな……そんな選別、認めない」と吐き捨てるが、その拳は震えていた。
さくらは涙を浮かべ、冷の胸に縋りつく。「冷……怖いよ……もう嫌だよ……」
冷はその腕を受け止め、かすかに震える拳を握りしめた。
「……もう待つのは嫌だ。必ず突き止める」
旋律は唐突に途絶えた。音楽室は不気味なほどの静寂に包まれる。誰もいないピアノ。床に横たわる候補生たち。残る者たちの荒い息と心臓の鼓動だけが夜に混じる。窓の外では風が木々を揺らし、そのざわめきが異様に生々しく響いた。
冷が一歩外へ出た瞬間、背後で“コトン”と音を立ててピアノの蓋が閉じた。まるで幕を下ろすかのように。暗闇に戻った音楽室は、先ほどの怪異が嘘のように静まり返っていた。
冷の鼓動はまだ速く、掌には冷たい汗が滲んでいた。夜風が頬を撫で、ひどく冷たく感じる。全身に残るざわめきが、次なる不安を暗示していた。
――夜鳴きの旋律は終わった。しかし影の選別は、これから始まろうとしていた。




