LOG.132 消えゆく者たち
LOG.132 消えゆく者たち
朝の校舎は、静かにざわめいていた。昨日の夜、音楽室で倒れていた候補生たちが朝になっても目を覚まさず、医務室に運ばれた――はずだった。だが、その名を呼んでも誰も反応せず、やがて周囲は奇妙な違和感に気づき始める。
「……あれ? ○○って、どのクラスだった?」
「昨日まで一緒にいたよな……? 机もあったし……」
しかし名簿を開けば、その名前は消えていた。ロッカーも空っぽで、まるで最初から存在しなかったかのように整理されている。候補生たちの間に、ざわりとした恐怖が走った。
教官は「病欠だ」「自主退学した」と淡々と告げるだけ。だが、その説明を信じる者はほとんどいなかった。昨夜の旋律と影を知る冷たちには、なおさらだ。むしろその説明の空虚さが、いっそう背筋を冷たくする。
「ふざけた説明ね……消されたんだわ」天音が机を叩き、唇を噛む。鋭い眼差しは怒りを隠そうともしない。彼女の言葉は周囲の心を突き刺し、誰も反論できなかった。
「そんな……昨日まで一緒にいたのに……」さくらは目を潤ませ、今にも泣き出しそうだった。心細さに冷の袖を掴み、小さな声で「どうして……」と繰り返す。彼女の震える声は、教室の静寂に痛いほど響いた。
まつりは端末を操作し、名簿を何度も確認していた。やがて深刻な顔でつぶやく。「データごと抹消されています。これは自然消滅ではなく、意図的な“削除”です。記録からも、存在そのものが消去されています」
「僕らも……次は誰が選ばれるのか……」湊は顔を青ざめさせ、視線を床に落とした。微かに震える声は、周囲の恐怖を代弁していた。彼の肩は小刻みに震え、癒し系と呼ばれる彼ですら、今は恐怖を隠せなかった。
冷は無言のまま拳を握り締めた。昨夜スピーカーから流れた「影の選別」という言葉が、耳の奥に焼きついて離れない。――これは制度による“選別”なのか。胸の奥で何かが重く沈む。その一瞬、母の声と父の背中が記憶の奥から蘇り、冷は唇を噛んだ。
その時、寮の廊下で甲高い悲鳴が上がった。駆けつけると、ロッカーの扉に赤い紙が貼りつけられていたのだ。血のように鮮やかな色。風もないのにひらひらと揺れ、僅かに脈動しているかのように見える。まるで「次の標的」を告げる印のように。候補生たちは息を呑み、誰も近づこうとしない。ざわざわと恐怖の囁きが広がっていく。
「また赤紙……!」
「選ばれたら終わりだ……」
ざわめきが一気に広がる。赤紙を見つけた候補生は顔面蒼白となり、周囲の視線から逃げるように背を丸めた。仲間だったはずの者たちも距離を置き、ひそひそと囁く。「影に選ばれた」「裏切り者だ」……まるで感染する病のように孤立が進んでいく。その孤立の空気は、赤紙を持つ者を徐々に追い詰めていった。泣き崩れる者、必死に「そんなはずはない」と叫ぶ者、紙を剥がそうとして止められる者……混乱は広がるばかりだった。
「やめろ!」天音が鋭く声を張った。「冷を巻き込むな!」彼女の苛烈な態度は、冷を守ろうとする意志そのものだった。彼女の声は強く響き、だが恐怖に駆られた候補生の目を完全に止めることはできない。
「……分断。これは制度の意図です。観察されています」まつりは冷静に告げた。だがその声にはわずかな怒りが滲み、眼鏡の奥の瞳が鋭く光った。彼女にとっても、ただの分析では済まされない現実だった。
「僕ら、仲間なのに……どうして……」湊は悲痛な声で訴える。だが「お前も怪しい」と誰かに言われ、表情を曇らせた。彼の目に浮かんだ涙は、必死に耐える心の叫びだった。
空気は張り詰め、衝突はすぐそこまで迫っていた。候補生たちは互いに疑い合い、殴り合い寸前の緊張が漂う。冷も止めに入ろうとするが、その瞬間、背筋に悪寒が走った。
――その時だった。夕暮れの校舎に、昨夜と同じ旋律が微かに響き始めた。遠くから、けれど確かに胸を締め付ける旋律が、影のように忍び寄ってきた。
「……まただ……!」
赤紙を持つ候補生の足元に、白い影が現れた。影はゆらりと立ち上がり、背後に伸びてその肩へと覆いかぶさる。候補生は恐怖に叫び声を上げた。だがその声は次第に遠ざかり、身体ごと闇に引きずられるように消えていった。残されたのは、絶望に打ちひしがれる仲間たちだけ。
ロッカーには、空っぽの空間と赤い紙だけが残されていた。候補生たちは凍りついたように動けず、しばらくの間、誰も声を発せなかった。沈黙が耳鳴りのように響く。
「……これが“影の選別”。制度が……候補生を削っている」まつりの声が静寂を切り裂いた。冷静な言葉の裏に、恐怖と怒りが入り混じっていた。
恐怖と混乱は、校舎全体を覆い尽くしていく。次は誰が消えるのか――その疑念が、すべての候補生の心を締め付けていた。誰もが周囲を疑い、誰もが自分を守るために距離を取る。その空気は学校全体を重苦しく変えていった。
冷は固く唇を結び、心の中で誓う。
――必ず、この影と制度の正体を暴く。
その瞬間、夜風が頬を刺し、教室の灯りが異様に遠く感じられた。冷の鼓動は早く、耳鳴りのように響き続けていた。




