〈 16の春 scene 9 〉決意
綾さんに電話しようと何度か思ったけど、なかなか勇気が出なかった。顔を見ない方が気が楽なのか、それとも逆なのかわからなかったのもある。
先月の末に綾さんが面会に来てくれた。その時は当たり障りのない話をして、30分もしないうちに帰ってしまったけど、帰り際に「また来月来ますね」と言っていたのを思い出した。
─もう半ば過ぎだし、待っててもいいかな…
伝えたいことは自分でもわかっている。綾さんだって俺が黙ってたらいつまでも気にするだろうし、心配だろう。でも情けないけど、その最初の一歩が踏み出せなかった。
金曜日の放課後、田島先生に頼まれて、授業で使う資料を航と一緒にコピーしていた。でも途中でコピー機の調子が悪くなってしまい、先生が直してくれてまた機械が使えるようになったのは、もう外が暗くなってからだった。それでも何とか全部終わらせた時には夕食の時間になっていた。
「悪かったな。俺も寮まで行って、高橋さんに説明するから」
先生は申し訳なさそうに言った。
三人で寮に戻ると、寮母の高橋さんが慌ててやって来た。
「桧山くん、今まで綾さんて方がずっと待ってたのよ。帰る時間が過ぎても戻らないから…」
半分まで聞かないうちに、俺はもう玄関に向かって弾かれたように走り出していた。
「桧山!」
田島先生が大声で呼んだが、俺は止められても行くつもりだった。
「9時までには戻れ!」
背中に声が聞こえた。俺は片手をあげて応えると、駅の方へ向かった。
─今言わなきゃ、また言えなくなりそうだ…
先生と航が勇気をくれた今なら、「ありがとう」くらいは言える。駅前の雑踏の中に、忘れるはずもない綾さんの背中が見えた。
「綾さん!」
俺は息を切らして綾さんに駆け寄った。綾さんは驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「俺、綾さんに、言わなくちゃ、いけないことがあって…」
呼吸を整えてから、両手で綾さんの手首をつかんだ。
「綾さん、ごめん…」
「謝らないで、ください」
「…ごめん。遅くなって。なかなか言い出せなくて。不安にさせて、ごめん」
「いいんです、あたりまえですよね。大人の都合で蒼さんを悲しませてしまって、ごめんなさい」
綾さんは俺を見上げるようにして言った。
─いつの間にか、俺の方が背が高くなってる…
16年の間、綾さんはどんな気持ちで俺を見てきたんだろう…
「…何で養子を選んだのか、俺には正直まだよくわかんないよ」
─俺はやっぱり意気地無しだ。だけど、嘘はつかない
「でも、これだけは自信をもって言える。母さんに会えてよかった。母さんは、いつでも俺の味方で優しかった。たった5年だけど母さんの子どもでいられて幸せだったよ。
だから、俺を産んでくれて、母さんに会わせてくれて、ずっとそばにいてくれて、ありがとう」
「蒼さん…」
綾さんの目に涙が滲んでいた。
「…航に、怒られたよ」
『僕とのことも全部なかったことにするつもり?』
『僕は今の蒼が大好きだよ』
「航さんがいてくれたら、私も安心します」
「俺もだよ。だけど情けないな、一人じゃ不安ってこと?」
「でも、航さんも蒼さんがいないとダメみたいですよ」
綾さんは涙目のまま、くすくす笑った。
先生が時間をくれたので、駅の近くの公園で綾さんと少し話をした。
「何で、今日は来てくれたの?月末じゃないのに」
「…蒼さんの、顔を見たかったんです」
綾さんはちょっと恥ずかしそうに笑った。
「少しは元気になったとこ見せられて、よかったよ」
「はい。安心しました」
「俺、やっとわかった。綾さんの気持ちから逃げてたって。弱くてごめん。俺…変なとこだけ父さんに似てるんだな。どうせなら綾さんに似れば良かったのに…」
「蒼さんは、幸恵さんに似ています。優しいところが」
「血は繋がってないのに、そういうもんかな…」
綾さんは笑ってうなずいた。
「…桧山さんも、昔は、カッコよかったんですよ」
「想像つかないな…」
「いつも明るくて、優しくて。お父様のコネで入った銀行のお仕事にも熱心で、実力で地位を勝ち取ってました。でも、大旦那様には頭が上がらなかったから、陰では苦労もあったと思います。幸恵さんが亡くなってから、弱い人だったんだなって…思いました。それだけ、幸恵さんを愛していたんですよ。本当にあれからすっかり変わってしまって…」
失って豹変するほど誰かを愛するなんて、今の俺にはまだわからないけど…
「でも、そんなに母さんのことが好きだったら、綾さんとは…」
「矛盾してるかもしれませんけど…」
綾さんは穏やかな表情だった。
「あの時の私にも桧山さんにも、お互いへの想いは確かにありました。私たちにしかわからないけど…」
「…許されない、関係でも…?」
綾さんがはっとした。
「ごめんなさい、偉そうに。でも他人には言えないことですから、それでいいんだと思います。あの人が覚えてくれてるかは、わかりませんけど…。
それに私は、蒼さんが元気で生きてくれてたら、もう他に何もいらないんです」
俺は思わず綾さんを見た。綾さんも俺を見ていた。
─そうだ。俺は怖かったんだ。綾さんの真っ直ぐに俺を見つめる、凛とした瞳が。逃げも隠れもしない毅然とした態度が。
俺は綾さんをきつく抱きしめた。でも今は怖いんじゃなくて、たまらなく愛おしかった。全てを失っても俺の幸せだけを願う綾さんの強い決意を、俺はその時初めてわかった気がした。
「…蒼さん?」
「…『蒼』でいいよ。敬語もなし」
腕を離して綾さんに言った。
「だってもう、うちの家政婦さんじゃないでしょ」
まだ全然整理しきれてないけど、綾さんの気持ちに俺も何か応えたかった。
「…ありがとう」
綾さんは泣き笑いの顔になった。
「夏休み、遊びに行くよ。航も一緒に」
「はい…待ってますね」
─やっぱり何があったとしても、この女のこと、簡単に嫌いになんかなれないよな…
『今はそれが答えでいいんじゃないの』
航が前に教えてくれた。
─そういう、ことだ。今の俺にできることをするだけ
週末に、俺は思いきってバスケ部の見学に行った。
諒介は俺を見るとにっこり笑って迎えてくれた。
3×3ができるとなると、みんな歓声を上げて喜んだ。準備運動もそこそこに、対戦が始まった。
ふつうバスケットボールは1チーム5人でゲームをするが、3×3は1チーム3人で5人制コートの約半分のスペースで行われる。
基本的なルールは一緒だが、ゴールが1つしかないので、攻守が入れ替わるタイミングや制限時間、得点などに細かい独自のルールがある。
5人制がメンバーそれぞれに役割があるのに比べて、3×3は3人とも幅広く何でもこなすオールラウンダーであることが求められる。
初めこそ遠慮とブランクを感じていたが、頭を空っぽにして肩の力を抜くと、自然に体が動けるようになっていった。
俺のいるチームがあと3点でノックアウトできると思った時だった。
「ラスト3本、オールコートで!」
諒介が指示を出した。
─マジか…それはただ単に人数が少ないバスケの試合じゃないか
外れたシュートのリバウンドを、味方が取ったのを確認するやサイドを走って戻り、ロングパスをもらう。相手のパスをカットして速攻に持ち込む。
ディフェンスはついてこれないか、せいぜいマンツーマンだ。
追いつかれた時は、落ち着いて体勢を整えてから、カットインしてゴール下に攻めこむか、ミドルレンジのシュートを狙う。
シューティングガードの役割は体が覚えていた。
『桧山っ、前に出ろ!もっと前だ!走れっ』
コーチの声が聞こえるようだった。息を切らしてボールを追いかけていると、あの頃に戻ったみたいな気がした。
最後のシュートを決めると、俺は床に倒れこんだ。のどがカラカラで肩で息をしていると、身体中から汗が吹き出すのがわかった。
「お疲れ!」
ボールを小脇に抱えて、諒介が俺を覗き込んでいた。
「こんなに、走ったの、久しぶり…」
途切れ途切れにしか話せなかったけど、気分は爽快だった。こんなにすっきりしたのはいつ以来だろう。
「やっぱ、やるじゃん、すげー速っ」
「いや、体力、落ちたし、オールコートはキツイよ…」
起き上がって息を整えた。
「ああ、ごめん。桧山のスピード見たかったんだ。でも、バスケまたやりたくなったでしょ」
諒介は楽しそうに言った。
「…そうだね。いいかも」
膝の古傷も痛まなかった。
ちょっと怖かったけど、勇気を出してみてよかった。綾さんにも、バスケにも。大切なものを失わずにすんだんだなと思うと嬉しかった。




