〈 16の春 scene 7 〉反発
4月から俺と航は、清陵学園高校の寮で生活することになった。入寮の日は、満開の桜が風に揺れる穏やかな春の日だった。
─本当なら心機一転の初日だったのにな…
晴れ渡った青空とは正反対の気分で、寮の部屋へ向かった。転校生同士だからなのか、寮の部屋も航と一緒だった。
俺たちは黙々と荷物を整理した。時間があるとどうしても綾さんとの話を思い出してしまうから、やることがあるのは助かった。
清陵は全寮制の男子校だ。
1学年が25人ほどで、一クラスしかない。7年前に新設されて、進学校としては名前が知れている方ではないが、東大こそないものの、ある一定レベルの大学への合格者を毎年出している。
共学でも中高一貫教育でもなく、スポーツに関しては弱いのと、語学などこれといった特徴がないのとで、人気はあまり高くないようだったが、手堅くレベルの高い大学を目指したい生徒が集まる傾向があった。
綾さんと話をしたのは今年の正月の頃で、ずいぶん前のことのように思えた。そのわりに気持ちはもやもやしたままで、俺はずっと引きずっていた。
航がいろいろと励ましてくれたけど、俺の気持ちはなかなか晴れなかった。
─俺は、どうしたらいいんだろう…
綾さんは俺を傷つけたことを謝ってくれた。養子になったあともずっと見守っていてくれた。
─やっぱり、裏切られたって気持ちがあるんだろうな
小さい頃から、母さんと同じくらい大好きだった綾さんが、父さんと…。その結果が、俺…。
それで養子にって、厄介者でしかないじゃん…
本当に俺が必要だったのか?
結局そこへ戻ってしまう。
果てしない砂漠の中をずっと、足をとられながら歩き続けているみたいだった。
「蒼、終わったら中庭で何か飲もう。桜がきれいだよ」
航が明るく言った。
航の優しさだけが今の俺の支えだった。
中庭には枝垂桜があった。ソメイヨシノよりも少し色が濃い花が咲いていた。テラスのテーブルの席につくと富士山がくっきり見える。
「すごい。日本人好みの風景だね」
航が感心して言った。
その時、視界の片隅に人影が映った。父さんと同じくらいの年齢に見える男性はこちらへ近づいてきて、低いがよくとおる声で言った。
「転校生だな。2年生担任の田島だ」
「こんにちは。渡部です。よろしくお願いします」
航が立ち上がって先に挨拶した。俺も遅れて言った。
「…桧山です」
「おまえが桧山か。試験の成績がかなり良かったそうだな」
「…そうですか」
あの家にいたくない気持ちが結果的にそうさせたのかもしれないが、興味はなかった。
「同じ学校から一度に二人も来るなんて、珍しいな。申し送りだと、いろいろと訳ありのようだが…
まあ、うちはまだ新設だから、基本来るもの拒まずだ。あまり制限もないし、困ったことがあればいつでも相談に乗るよ」
─須藤先生から、どこまで聞いてるんだろう…
「ありがとうございます」航が答えた。
「渡部は医学部志望だったな。桧山は、特に希望はないのか?」
「…今のところは、別に」
「ふうん、そうなのか」
「…まだ、自分のこともよくわからないのに、先のことなんて決められないです」
「何だ、まだまだ子どもってことか。もったいないな、転校までするほどの何か目標があったのかと思ったんだが」
田島先生は、俺のことを観察するように見ていたが、
「じゃ、始業式にな」
と言うと元来た道をまた戻っていった。
「何だよ、あれ」
俺が口をとがらせると、航がまあまあとなだめてくれた。
「教師は、興味なかった…?」
「そういうわけじゃ、ないけど。今そんなこと聞かれてもさ…」
航は以前俺に、教師になるように勧めてくれた。俺もまんざらでもなかったんだけど、とにかく今は何もかもが中途半端で、自分でも気持ちをもて余していた。
「僕はわかってるから、大丈夫。あの先生もすごく世話好きって感じがする。悪い人じゃなさそうだよ」
航がそう言うなら、そうなのかもしれないが、初対面なのに最悪の印象だなと思った。
…お互いにね。
数日後に新学期が始まった。
航がまた同じクラスにいることで、少し安心した俺は、あまり他の生徒と交わることもなく過ごしていた。
5月になっても航以外に話した相手と言えば、後ろの席になった星野諒介くらいだった。
諒介はマイペースなところがあった。
初めて会った時に耳栓をしているのが見えて、思わず訊ねたのがきっかけだった。
「耳、それで話聞こえるの?」
俺は自分の耳を指差して、諒介に聞いた。
「うん、全く聞こえない訳じゃないんだ。俺、ざわざわしたところだと気が散って、指示が聞き取れなくなっちゃうから。余計な音が入らない方がいいんだよ」
「そうなんだ、不便だね…」
「こういうもんだって慣れれば、大したことないよ」
諒介は笑顔でそう言った。
体育の授業のバスケットボールで、諒介と組んでパスをしていると
「やってたでしょ、バスケ」と言われた。
諒介はここのバスケ部に所属していた。
俺は小学生から始めて中学2年までバスケ部にいた。スタメンでシューティングガードをつとめていたが、膝をケガしてから思うように動けなくなり、やめてしまった経緯がある。
─何か俺、投げ出してばっかりだな…
諒介と話すのは楽しいのに、自分の情けないところが気になってしまった。
「中学どこ?」
「永山二中」
「えっ、すげー強豪じゃん。もったいない、バスケ部入ればいいのに」
「ケガしてから、全然なんだよ」
「大丈夫、部活より同好会って感じだし。でも桧山が来てくれたら、3×3ができる。ってことはさー、今部員何人だと思うー?」
諒介はけらけら笑って言った。
「いつでも見学に来てよ。みんなバスケやりたくて、うずうずしてるから喜ぶよ」
それでも諒介があんまり嬉しそうなので、もう少し気持ちの整理がついたら顔を出してみようかな、と思った。
授業が終わり、ボールを片付けるのを諒介が買って出たので、俺も手伝うことにした。ボールの入ったカゴを準備室に戻しながら、諒介が話し出した。
「俺さ、板書苦手なんだよね。時々ノート見せてくれると助かるんだけど」
俺は諒介の言ってる意味がよくわからなかった。
「ああ、見せるくらい構わないけど、苦手ってどういう意味?」
「文字書けないんだわ、俺」
「は?」
「正確に言うと、書くのに時間がかかるってことなんだけどね」
諒介があっけらかんとして言うので、俺は面食らってしまった。
「スマホとかタブレットで入力するのも許可してもらってるけど、手間がかかったり、聞き逃しちゃうこともあって、確認させてもらいたい時があるんだよね」
「そうなんだ、大変だな…」
同級生と話してて、文字が書けないなんて初めて聞く話で、俺はついていくのがやっとだった。
─それにしても、会ったばっかりの俺に自分のことをこんなに話せるもんなのか…
航とはまた違う親近感があった。
「でも、書けないって、昔から?」
「そう。小学校に入ってからわかったの。書字表出障害って言うんだって」
「しょじ、障害…?」
「俺の場合だけど、簡単に言うと文字は認識できるんだけど、書くつまり出力ができないんだ。特に漢字ね。
例えばさ、難しい漢字が出てこなくて書けない時があるじゃん?俺はそれが簡単な漢字やひらがなでも起きてるってこと」
聞けば聞くほど、知らないことばかりだった。自分がいつも何気なくやってることが、諒介にはとても大変なことらしい。
「なんか、すごい大変そうだけど。もどかしくない?」
「今はもう慣れてきたからね。小学校が一番きつかったかな。俺ってバカなんじゃないかって悩んでたし。こんだけベラベラ喋れんのに、何で書けないんだって。
先生に恵まれた方だったから、何とかやってこれたって感じ。ここでも田島先生がいろいろ助けてくれるしね」
「田島先生が?…そんな風には見えないけど…?」
俺は初対面のやり取りを思い出した。
『何だ、まだまだ子どもってことか』
「田島先生、結構あれで優しいんだよ」
「あれで?俺、何か目をつけられてるんだけど」
新学期が始まっても、先生のあの強引な印象は変わらなかった。何かにつけて声をかけられるのだが、正直、放っておいて欲しいと思っていた。
─俺がもっとしっかりすれば、言われないんだろうけどな…
「気にかけてくれてるんだよ、きっと。俺の入試の時すごく気を遣ってくれて助かったよ。別室対応とか、時間延長とか」
「…学校の方針じゃないの」
「そうだとしても。率先してやってくれたよ」
諒介は笑いながら言った。
「先生に言われたんだ。困ってることを自分から相手に知らせろって。相手に気づいてもらわなきゃ、何も始まらないって」
「…でも、それって、怖くないのか?」
「うーん、確かに誰にでも言えるわけじゃないけどさ。だけど俺は手伝ってもらって助かるし、相手は人助けできれば悪い気しないだろ。初めから伝えておけば、誤解や摩擦も減るだろうし。
それに俺だって何もできない訳じゃなくて、相手の役に立つこともあるからさ」
俺にはない考えだった。
気の合う相手ならお互いに何かして欲しかったり、してあげたいとは思うけど、どんな人かわからないのに、自分から進んで打ち明けるというのはなかったから。
─そりゃあ、ぶつかるわけだ…
妙に納得してしまった。
俺と先生とじゃアプローチが真逆だったんだ。
田島先生の担当教科は数学だから、嫌でも毎日のように顔を合わせるし、おまけに先生のご指名で、毎回行う小テストを配ったり集めたりする係をやるはめになってしまった。
その日も登校してから職員室にテスト用紙をもらいに行くと、先生の姿がなかった。いつも早いのに珍しいなと思っていると、ほのかに甘い香りがすることに気がついた。先生の机の上には、いつもは置いてない小さな花器があって、そこには花が活けられていた。
─あ、ジャスミンだ…
母さんが好きな花だった。
今頃はうちの庭でも咲いてるかな…と思った時、先生が戻ってきた。
「おっ、悪いな。待たせて」
用紙を準備する先生の横で、俺はジャスミンの花にそっと触れた。白い小さな花からまた甘い香りが揺れて、辺りにゆっくりと広がった。
そんな俺を先生は不思議そうに見ていた。
「…花、好きなのか」
「ジャスミンは、母が好きだったので…」
「そうか」
そう言って微笑んだ先生の横顔は、とても寂しそうだった。
─この人も、こんな表情するんだな…
おぼろげにしか覚えてないけど、母さんを失った直後の父さんに似ていると思った。先生も、大切な誰かを亡くしてるんだろうか…
その日は一日中、その事が頭から離れなかった。




