第9話 私じゃない
文化祭まで二週間を切ると、教室の後ろ半分はほとんど作業場になっていた。段ボールや色画用紙が積み上げられ、黒板の端には神谷が書いた作業予定が残り、放課後になると誰かが机を動かす音やガムテープを引き出す音が途切れることなく続いていた。
「秋月、それ貼って。」
「ここ?」
「もうちょい左。」
「この辺?」
「そうそう、完璧。」
神谷が親指を立てる。
「秋月ってこういうの得意だな。」
「貼ってるだけだけど。」
「俺がやると曲がるんだよ。」
「雑だからじゃない?」
「それ榊にも言われた。」
神谷は笑いながら次の段ボールを持ち上げた。
遼は渡されたテープを切り、位置を合わせる。文化祭そのものに強い思い入れがあるわけではなかったが、こうして放課後に何人かで残って作業する時間は思っていたほど嫌いではなかった。
「見て見て!」
少し離れたところから声がする。
一人の男子が、絵の具で塗った看板を持ち上げていた。
「できた。」
「何それ。」
すぐに誰かが笑う。
「え、うまくね?」
「いや、字やばいって。」
「どこが?」
「『祭』見てみろよ。」
言われて見ると、確かに少しおかしかった。字の右側だけが妙に大きく、全体が斜めに傾いている。
「味だよ、味。」
「便利な言葉使うな。」
「芸術だから。」
「じゃあ名前書いとけよ。作者として。」
「やめろって。」
教室に笑い声が広がる。
看板を作った本人も笑っていた。
「写真撮ろうぜ。」
「なんでだよ。」
「記念。」
「黒歴史だろ。」
「文化祭終わったらクラスLINEに流すわ。」
「マジでやめろって。」
スマートフォンを向けられ、男子は笑いながら看板で顔を隠す。それがおかしくて、また周りが笑う。
悪意なんてない。
誰かを傷つけようとしているわけでもない。
いつもの教室で、いつものように誰かが弄られているだけだった。
遼も少し笑った。
そのとき、視界の端にひまりが入った。
笑っていなかった。
少し離れた机の前で、色画用紙を持ったまま立っている。
遼は何となくそちらを見る。
ひまりの目は、看板を持っている男子へ向けられていた。
「夏川さん?」
近くにいた女子が声を掛ける。
反応がない。
「夏川さん。」
「……え?」
ひまりが瞬きをする。
「これ、どっちに貼る?」
「あ……ごめん。何?」
「こっちとこっち、どっちがいい?」
「えっと……。」
ひまりは二枚の画用紙を見比べる。
「こっち、かな。」
「オッケー。」
女子は特に気にした様子もなく作業へ戻った。
ひまりも再び手を動かし始める。
遼はそれを見てから、自分の作業へ視線を戻した。
この前と同じだった。
廊下から笑い声が聞こえたときも、ひまりは一瞬だけ動きを止めていた。
今回も、笑い声。
ただ、それだけなら教室では一日に何度も聞こえる。ひまり自身、誰よりよく笑うし、誰かの冗談につられて笑っているところも何度も見ている。
何が違うのかは分からなかった。
「おい、もっと酷くなってんじゃん!」
再び大きな笑い声が上がった。
看板を修正しようとしたらしいが、今度は塗料が垂れて文字の一部が潰れている。
「だから触るなって言ったのに。」
「いや、直そうと思って。」
「悪化してんじゃん。」
「もうこれで出そうぜ。」
「晒し者じゃねえか。」
「作者も一緒に展示しよう。」
「俺まで!?」
また笑い声が起きる。
男子も笑っている。
「ひどくない?」
ひまりが小さく言った。
すぐ近くにいた美咲が振り向く。
「何が?」
「あ……。」
ひまりは少し黙る。
「いや、何でもない。」
「本人も笑ってるじゃん。」
「うん。」
ひまりも笑った。
けれど、その笑顔は少しだけぎこちなかった。
「じゃあこれ写真撮って――」
「やめなよ。」
今度は、はっきり聞こえた。
教室の笑い声が少しだけ小さくなる。
スマートフォンを構えていた男子がひまりを見る。
「え?」
「……嫌がってるじゃん。」
ひまりの声は、普段より低かった。
看板を持っていた男子本人が、困ったように笑う。
「いや、別に嫌がってないけど。」
「でも、さっきやめろって。」
「冗談だよ。」
「……。」
「夏川?」
神谷も作業を止めていた。
ひまりは何も言わない。
教室の空気が少しだけ変わった。
「ごめん。」
ひまりが突然言った。
「え?」
「ごめん、違う。」
笑おうとした。
けれど、うまく笑えていなかった。
遼は手にしていたテープを机へ置いた。
まただ。
そう思った。
「ひまり?」
美咲が近付く。
「大丈夫?」
「うん。」
ひまりはすぐに頷いた。
「大丈夫。ごめん。」
「座る?」
「大丈夫だから。」
そう答えながら、ひまりは机へ手をついた。
指先に力が入っている。
「夏川さん。」
神谷も近付こうとする。
「ほんとに大丈夫?」
「うん。」
また同じ返事だった。
けれど、呼吸が少しずつ速くなっていた。
遼には分かった。
卒業アルバムを見ていたときと同じだった。
ひまりは一度大きく息を吸おうとして、それに失敗したように小さく咳き込んだ。
「ひまり、座って。」
美咲が椅子を引く。
「大丈夫。」
「大丈夫じゃないでしょ。」
「ほんとに――」
言葉が途中で切れる。
教室が静かになった。
さっきまで笑っていた生徒たちも、いつの間にかひまりを見ている。
それに気付いたのか、ひまりは俯いた。
「見ないで。」
小さな声だった。
誰も動かなかった。
「……ごめん。」
もう一度、ひまりが言う。
「ごめんなさい。」
「ひまり。」
「違うから。」
何が違うのか、誰にも分からなかった。
「私じゃない。」
美咲の表情が変わる。
「ひまり?」
「私じゃ……。」
そこから先は言葉にならなかった。
ひまりは口元を押さえ、その場にしゃがみ込む。
「夏川さん!」
真っ先に動いたのは神谷だった。
「先生呼んでくる!」
「待って。」
美咲が止める。
「たぶん、いつものだから。」
「いつもの?」
「いいから。ちょっと待って。」
美咲はひまりの前へしゃがみ、背中へ手を置く。
「ひまり。聞こえる?」
返事はない。
「ゆっくりでいいから。」
美咲の声は、以前よりずっと落ち着いていた。
慣れているのだろう。
遼は少し離れたところから、その様子を見ていた。
助けた方がいいのかもしれない。
水を持ってくるとか、先生を呼ぶとか、何かできることはあるはずだった。
けれど、美咲がいる。
神谷もいる。
自分が割って入る必要はないように思えた。
だから、その場から動かなかった。
ひまりは机の脚を見つめたまま、小さく震えている。
何度も息を吸おうとして、そのたびに喉の奥で細い音が鳴る。頬にはいつの間にか涙が流れていたが、それを拭おうともしなかった。
遼は、その顔を見ていた。
卒業アルバムのときより近い。
笑っているひまりとは、まるで別人だった。
いつも大きく開いている目は何かに怯えるように揺れ、唇は言葉にならない何かを何度も作ろうとしている。
「……ごめんなさい。」
また、その言葉だった。
誰に謝っているのだろう。
遼はそう思った。




