第8話 神谷とひまり
その日の作業は思ったより早く終わった。
神谷が黒板へ書かれた作業内容を一つずつ消していき、「今日はここまで!」と声を上げると、教室に残っていた生徒たちから小さな拍手が起こる。
「意外と進んだね。」
ひまりが嬉しそうに言う。
「夏川さんが頑張ったからだよ。」
「違う違う。」
「いや、ほんと。」
神谷は笑いながら段ボールを教室の隅へ寄せる。
「じゃあ最後に実行委員だけ集まって。」
ひまりを含めた数人が教卓の前へ集まった。
「先生に進捗送るから、一応写真撮っとこう。」
「あー、報告用?」
「そうそう。」
神谷はスマートフォンを取り出す。
「みんなもうちょい寄って。」
「狭い狭い。」
「神谷くん前。」
「私どこ?」
教室の空気が少しだけ賑やかになる。
遼は席で荷物をまとめながら、その様子をぼんやり眺めていた。
「秋月。」
榊が小さく肘でつつく。
「写真撮るみたい。」
「うん。」
「青春だな。」
遼は曖昧に笑った。
教卓の前では神谷が腕を伸ばしてスマートフォンを構えている。
「いくよー。」
「はーい。」
「三、二、一。」
その瞬間。
「待って。」
小さな声だった。
神谷がスマートフォンを下ろす。
「どうした?」
ひまりは苦笑しながら前髪を耳へ掛けた。
「ごめん、ちょっと前髪ぐちゃぐちゃ。」
「ああ、なるほど。」
「撮り直し嫌だから。」
「女子だなぁ。」
教室に笑いが起きる。
ひまりも照れくさそうに笑った。
「もう大丈夫。」
「よし、じゃあもう一回。」
神谷がスマートフォンを構え直す。
今度は何事もなくシャッター音が鳴った。
「オッケー。」
「写りどう?」
「全員笑ってる。」
「よかったー。」
ひまりは画面を覗き込みながら安心したように息を吐く。
その表情を見て、遼も小さく視線を外した。
何も起きなかった。
ただ、それだけのことだった。
放課後の教室にはまたいつもの笑い声が戻り、写真の話題もすぐに「誰の顔が変だったか」という他愛もない話へ変わっていく。
「神谷、変顔してる。」
「してねえよ。」
「いやしてる。」
「スクショ送っとく。」
「やめろ。」
ひまりも、美咲も、周りの生徒も笑っている。
その輪の外から眺めながら、遼は自分でも理由の分からない息を一つ吐いた。
少しだけ、安心したのかもしれない。あるいは、そうではないのかもしれなかった。
写真を撮ったことなど、翌日にはもう誰も話題にしていなかった。
文化祭の準備は少しずつ形になり、教室の後ろには色を塗り終えた段ボールや飾り付けの材料が積まれていく。授業が終われば自然と何人かが残り、誰かが「こっち手伝って」と声を掛け、また笑い声が広がる。その繰り返しだった。
ひまりも変わらない。
笑って、話して、走って、時々先生に呼ばれて、それでもまた笑っていた。
「夏川。」
神谷が教卓から顔を上げる。
「ガムテープなくなった。」
「私取ってくる!」
「俺も行く。」
「いいよ、一人で。」
「いや、重いから。」
「そんなに買わないって。」
二人はそんなやり取りをしながら教室を出ていった。
「神谷くん、ほんと面倒見いいよね。」
美咲が呟く。
「優しいよねー。」
近くの女子も頷く。
「付き合えばいいのに。」
「またそれ。」
ひまりは苦笑する。
「神谷くんに失礼でしょ。」
「何で?」
「いや……。」
答えに困ったように笑い、そのまま話を流した。
遼はシャープペンシルを回しながら、その会話を聞いていた。
神谷とひまりが付き合う。
確かに不思議ではない。
二人とも明るく、人付き合いが上手くて、誰とでも分け隔てなく接する。
周りから見れば、お似合いなのだろう。
「秋月。」
榊が問題集を閉じる。
「今日帰りコンビニ寄る?」
「いいよ。」
「新作アイス出たらしい。」
「また太るぞ。」
「お前にだけは言われたくない。」
そんな話をしていると、教室のドアが開いた。
「ただいまー。」
ひまりだった。
両手いっぱいにガムテープを抱え、その後ろから神谷が画用紙を運んでいる。
「先生、こんなに渡してきた。」
「足りないよりマシ。」
「それはそう。」
神谷は画用紙を教卓へ置くと、「誰か受け取ってー」と声を掛けた。
数人が集まり、材料を分け始める。
その最中だった。
廊下から甲高い笑い声が聞こえてきた。
男子が一人、廊下へ押し出される。
「だから違うって!」
「お前絶対好きだろ!」
「ちげぇよ!」
別のクラスの生徒らしい。
ふざけ合いながら肩を叩き合い、大声で笑っている。
教室の何人かもつられて廊下を見る。
「元気だね。」
美咲が笑う。
「青春だ。」
神谷も笑った。
遼も何となく廊下へ目を向ける。
そのときだった。
ひまりの笑顔が、ふっと消えた。
ほんの一瞬だった。
誰も気付かなかった。
いや。
遼だけは気付いた。
廊下の笑い声を聞いたまま、ひまりは動かなかった。
視線だけが、どこか遠くを見ているようだった。
ひまりは廊下の方を見つめたまま動かなかった。
時間にすれば一秒か二秒だったのかもしれない。
けれど遼には、その沈黙だけが妙に長く感じられた。
「ひまり?」
美咲が不思議そうに顔を覗き込む。
その声で、ひまりははっと我に返ったように瞬きをした。
「……え?」
「どうしたの?」
「あ、いや。」
ひまりは少しだけ困ったように笑う。
「ぼーっとしてた。」
「疲れてる?」
「うーん、ちょっとだけ。」
「だから言ったじゃん。最近動きすぎなんだって。」
美咲は呆れたように肩をすくめる。
神谷も画用紙を配る手を止め、「今日はもう終わりにするか」と穏やかな口調で言った。
「作業も区切りいいし。」
「ほんと?」
「無理して倒れられても困る。」
「倒れないよ。」
「信用できない。」
神谷が笑う。
ひまりも「ひどい」と笑い返した。
教室の空気は、それだけで元に戻った。
誰も気にしていない。
さっきの一瞬を見ていたとしても、「疲れていただけ」と思っただろう。
遼もそれ以上は何も言わなかった。
言う理由がない。
本当に疲れていただけかもしれない。
勘違いだったのかもしれない。
ただ、あの一瞬だけ見せた表情が、昼休みに集合写真を見つめていたときの顔と少しだけ重なって見えた。
「秋月。」
榊が鞄を持ち上げる。
「帰るぞ。」
「ああ。」
二人は教室を出る。
廊下では、さっき騒いでいた別のクラスの男子たちが先生に軽く注意されていた。
「お前ら、廊下は走るな。」
「すみませーん。」
笑いながら頭を下げる。
それを見て周りの生徒も笑う。
どこの学校にもあるような、ごくありふれた放課後だった。
駅までの道を歩きながら、榊が缶ジュースを開ける。
「最近さ。」
「うん。」
「文化祭の準備、思ったより楽しいな。」
「そうだな。」
「夏川さん来てから、クラス明るくなった気がする。」
遼もそれには頷いた。
実際、そう思う。
転校してきてから、教室で笑い声を聞く回数は増えた。
誰かが話題を振り、誰かが笑い、それにつられて周りも笑う。
ひまりは、そういう空気を作るのがうまかった。
「文化祭終わったら寂しくなりそう。」
榊は何気なくそう言う。
遼は少しだけ前を歩く人混みへ目を向けた。
その中にひまりの姿はない。
それなのに、なぜか探してしまった自分に気付き、すぐ視線を逸らした。
たぶん、気にしすぎなんだろう。
そう思っても、その考えはなかなか頭から離れなかった。




