第7話 文化祭準備
九月も半ばに差しかかる頃には、ひまりは完全にクラスへ溶け込んでいた。
朝は美咲と一緒に登校し、昼休みには女子たちと机を囲み、放課後は誰かと寄り道をして帰る。文化祭実行委員にもなったせいで、担任や他のクラスの生徒とも話す機会が増え、教室にいる誰よりも忙しそうに見えた。
それでも本人は疲れた様子を見せず、いつも笑っていた。
「夏川って体力あるよな。」
放課後、榊が感心したように言う。
「授業中も寝ないし、昼休みもずっと喋ってるじゃん。」
「そうだな。」
「俺だったら三日で無理。」
遼は笑いながら頷く。
確かにそうだった。
ひまりは一日中誰かと話している。
それなのに、誰に対しても雑にならない。
相手の話をちゃんと聞き、ちゃんと笑う。
ああいう人間は、生まれつきそうなのだろうと思っていた。
「ひまりー。」
美咲が教室の前から手を振る。
「今日さ、実行委員あるんでしょ?」
「あるよー。」
「じゃあ先帰るね。」
「ごめん!」
「いいって。」
美咲は笑うと、鞄を肩へ掛けた。
「じゃ、また明日。」
「うん、またね。」
美咲が教室を出ていく。
その背中を見送りながら、ひまりは「はぁ」と小さく息を吐いた。
その表情は一瞬だけ疲れて見えたが、誰かに声を掛けられるとすぐ笑顔へ戻った。
「夏川。」
実行委員の男子が近付いてくる。
「文化祭のポスターなんだけど。」
「あ、今行く!」
ひまりは急いで立ち上がり、そのまま教室を出ていった。
「忙しいな、あいつ。」
榊が呟く。
「人気者って大変だ。」
遼は返事をしなかった。
ひまりがため息をついたことが、少しだけ気になっていた。
笑っている時間が長い人ほど、一人になった瞬間の表情は案外見られないものなのかもしれない。
その日の帰り道、駅へ向かう途中で信号待ちをしていると、少し先の横断歩道にひまりの姿が見えた。
一人だった。
美咲も、実行委員の男子もいない。
イヤホンを付けるでもなく、スマートフォンを見るでもなく、ただ信号が変わるのを待っている。
教室で見せる笑顔はそこにはなかった。
無表情というほどではない。
どこかぼんやりとした、力の抜けた横顔だった。
そのとき、後ろから誰かに肩を叩かれる。
「秋月。」
榊だった。
「何見てんの。」
「あ……。」
遼が前を向き直ると、もうひまりの姿は人混みへ紛れて見えなくなっていた。
「帰るぞ。」
「うん。」
二人は信号を渡り始める。
歩きながら、遼は自分でも少し不思議だった。
どうして今、ひまりを目で追っていたのだろう。
心配だから。
たぶん、それで合っている。
そう思うことにして、遼はそれ以上考えるのをやめた。
文化祭まで一か月を切ると、放課後の教室は以前より賑やかになった。
大道具をどうするだとか、当日のシフトがどうだとか、実行委員を中心に話し合いが始まり、帰宅部だった生徒も自然と教室へ残る日が増えていく。
ひまりも、その中心にいた。
「それじゃ、この買い出し私行く!」
「え、一人で大丈夫?」
「全然大丈夫!」
「じゃあ俺も行くよ。」
「ありがと!」
誰かが困っていれば手を挙げ、空気が止まれば冗談を言う。
遼は窓際の席からその様子を眺めていた。
「ほんと働くよな。」
榊が隣へやって来る。
「夏川。」
「そうだな。」
「普通ああいうのって誰かに押し付けるじゃん。」
「そういう人じゃないんだろ。」
「損するタイプだな。」
遼も少しだけそう思った。
頼まれると断れない。
期待されると応えようとする。
そんな性格なのかもしれない。
話し合いが終わり、生徒たちが帰り支度を始める。
ひまりは机へ突っ伏すようにして大きく息を吐いた。
「あー、疲れたぁ。」
「お疲れ。」
美咲が笑いながらペットボトルを差し出す。
「ほら。」
「神。」
「ジュース一本で神になれるなら安いわ。」
二人は笑う。
そのやり取りを見ていると、本当に仲が良さそうだった。
「ねえ、美咲。」
「ん?」
「土曜日暇?」
「何。」
「駅前行こ。」
「また服?」
「見たい。」
「この前も見たじゃん。」
「女の子は何回でも見るの。」
「はいはい。」
そんな他愛もない会話をしながら、美咲は机へ頬杖をつく。
「でもさ。」
「ん?」
「最近は出てないね。」
ひまりの笑顔が少しだけ止まる。
ほんの一瞬だった。
「……そうだね。」
「よかったじゃん。」
「うん。」
美咲はそれ以上何も言わなかった。
話題はすぐに新しいカフェの話へ変わり、二人はまた笑い始める。
その短いやり取りを聞いていた遼だけが、小さな違和感を覚えていた。
最近は出てない。
ということは、やはり一度きりではない。
あれは、繰り返すものなのだ。
その日の帰り道、榊が不意に口を開いた。
「秋月。」
「何。」
「お前さ。」
「うん。」
「最近、夏川さんのこと見すぎじゃない?」
遼は思わず足を止めかけた。
「そうか?」
「うん。」
榊は冗談っぽく笑う。
「好きなのかと思った。」
その一言に、遼は少し考える。
好き。
そうなのだろうか。
ひまりと話すのは楽しい。
笑っている顔も好きだ。
それは否定できない。
でも、昼休みのあの日から胸の中へ残っているものは、それとは少し違う気がした。
「……分かんない。」
自然とそう答えていた。
榊は「珍しい返事だな」と笑い、二人はまた駅へ向かって歩き始めた。
文化祭まで三週間。
放課後になると、教室へ残る生徒の数は目に見えて増えていた。
段ボールを運ぶ者、企画書をまとめる者、教室の飾り付けを考える者。それぞれが好き勝手に動いているようで、不思議と作業は進んでいく。
「夏川さん、それ俺やるよ。」
実行委員の男子が、ひまりの抱えていた段ボールをひょいと持ち上げる。
「え、大丈夫?」
「これくらい余裕。」
「ありがと!」
「その代わり、そっちの名簿まとめといて。」
「了解!」
ひまりは笑って頷き、すぐに机へ向かった。
遼は窓際の席で数学の問題集を開いていたが、ほとんど手は動いていなかった。
「あいつ、いい奴だよな。」
隣で榊が小さく呟く。
「神谷。」
「そうだな。」
「何でも引き受けるじゃん。」
神谷颯太。
サッカー部で、文化祭実行委員。
声が大きく、誰とでも話し、面倒事ほど率先して引き受けるタイプだった。
担任からの信頼も厚く、「神谷がいるなら大丈夫」と言われることも少なくない。
「夏川さん。」
神谷がまた声を掛ける。
「これ終わったら先生んとこ行こう。」
「今?」
「今。」
「はーい。」
ひまりは立ち上がる。
「美咲、ごめん!」
「いいよいいよ。」
美咲は椅子へ座ったまま手を振る。
「働いてきな。」
「頑張る!」
二人は教室を出ていった。
「ほんと働き者同士だな。」
榊が笑う。
「見てるだけで疲れる。」
遼も小さく笑った。
神谷とひまりは、どこか似ていた。
頼まれると断れないところ。
誰かのために動くことを苦にしないところ。
だから一緒に仕事をしていても、不思議なくらい噛み合って見える。
しばらくすると、美咲が立ち上がった。
「ジュース買ってくる。」
「一人で?」
「ひまりいないし。」
そう言って教室を出ていく。
残った教室は急に静かになった。
遼は問題集へ目を落とす。
数式を追っているはずなのに、視界の端では、さっきまで笑っていたひまりの姿が何度も浮かんでいた。
「秋月。」
榊が不意に声を掛ける。
「もしさ。」
「何。」
「神谷と夏川さん付き合ったら、お似合いだと思わない?」
遼は問題集から顔を上げた。
教室の外では、ひまりの笑い声がかすかに聞こえてくる。
「……そうかも。」
自然とそう答えていた。
神谷は明るい。
ひまりも明るい。
二人とも人付き合いが上手くて、誰からも好かれている。
並んで歩いていても違和感はないだろう。
「だよな。」
榊は深く考えた様子もなく頷く。
「普通に付き合いそう。」
遼は何も答えなかった。
その言葉に引っ掛かったわけではない。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
その日の作業は六時前に終わった。
「お疲れさまー!」
ひまりが教室の真ん中で手を叩くと、残っていた生徒たちも「お疲れ」と口々に返事をし、それぞれ帰り支度を始める。
「夏川さん。」
神谷が段ボールを抱えたまま声を掛けた。
「これ倉庫戻してくるけど、一緒に行く?」
「行く!」
「重いから持たなくていいよ。」
「えー、ちょっとくらい持つ。」
「いいって。」
「じゃあ後ろついてく。」
「それなら助かる。」
二人は笑いながら教室を出ていった。
「見ろよ。」
榊が小声で言う。
「完全に保護者じゃん。」
「そうか?」
「神谷、誰にでもあんなだけどさ。」
遼は廊下へ目を向けた。
神谷は前を歩き、ひまりがその少し後ろを歩いている。
どちらも自然だった。
無理に会話を続けるわけでもなく、沈黙が気まずそうでもない。
遼は何となく、その後ろ姿を見送っていた。
「秋月。」
榊が肩を軽く小突く。
「また見てる。」
「……そうだっけ。」
「そうだよ。」
榊は苦笑しながら鞄を持ち上げた。
「帰ろうぜ。」
二人も教室を出る。
昇降口へ向かう途中、職員室の前を通り掛かると、神谷とひまりがちょうど倉庫から戻ってくるところだった。
「あ。」
ひまりがこちらへ気付く。
「秋月くん、榊くん、お疲れー!」
「お疲れ。」
「もう帰る?」
「うん。」
「私たちも!」
ひまりがそう言った瞬間だった。
「夏川。」
職員室から担任が顔を出す。
「悪い、ちょっといいか。」
「え、私ですか?」
「文化祭の件。」
「分かりました!」
ひまりは「ごめん!」と三人へ手を合わせ、そのまま職員室へ入っていった。
「じゃ、俺も行くわ。」
神谷も当然のようについていく。
文化祭実行委員なのだから、不思議ではない。
不思議ではないのだが。
「ほんと真面目だな。」
榊が笑う。
「神谷も夏川さんも。」
「ああ。」
遼は短く答えた。
昇降口を出ると、外はすっかり夕方になっていた。
空は少し赤く染まり始め、運動部の掛け声が校庭の方から聞こえてくる。
二人で校門を出たところで、榊がふと思い出したように口を開いた。
「そういえばさ。」
「何。」
「夏川さんのあれ。」
「あれ?」
「写真見て固まるやつ。」
遼は歩く速度を少しだけ緩めた。
「まだ気になってる?」
「……まあ。」
「俺さ。」
榊は頭を掻く。
「正直、あんまり考えないようにしてる。」
「どうして。」
「だってさ。」
少し笑う。
「本人が普通に笑ってるじゃん。」
その言葉は、美咲が言っていたことと少し似ていた。
「本人が大丈夫って言うなら、俺らまで気にしても仕方ないかなって。」
「そうか。」
「もちろん、本当にヤバそうなら話は別だけど。」
榊は信号が青になるのを見て歩き始める。
「考えても分かんないことってあるしな。」
遼もそのあとを歩きながら、小さく頷いた。
考えても分からない。
その通りだった。
それでも、分からないままにしておくには、あの日のひまりの表情は、あまりにも頭に残りすぎていた。
翌週に入ると、文化祭の準備は本格的に始まった。
昼休みになるたびに実行委員が集まり、放課後は教室へ残って作業を進める。ひまりは相変わらず忙しそうだったが、不思議と疲れた様子は見せなかった。
「夏川さん、それ切る係じゃなくて貼る係ね。」
「あ、逆だった。」
「だからさっき言ったじゃん。」
「ごめんごめん。」
神谷は笑いながら段ボールを受け取り、カッターを手に取る。
「ほら、危ないから貸して。」
「子ども扱い。」
「指切ったら困るだろ。」
「確かに。」
ひまりは素直にカッターを渡した。
その様子を見ていた美咲が吹き出す。
「神谷くん、お父さんみたい。」
「誰がお父さんだ。」
「過保護すぎ。」
「違う違う。夏川さんが危なっかしいだけ。」
「失礼だなぁ。」
教室に笑い声が広がる。
神谷は誰か一人に特別優しいわけではなかった。
重い物を運んでいる女子がいれば代わりに持ち、机を運ぼうとしている男子がいれば手伝う。ひまりにも同じように接しているだけだった。
だから、見ていて嫌味がない。
榊もその様子を見ながら、「いい奴だよな」と何度か口にしていた。
作業が一段落すると、神谷は教卓へ置かれていたペットボトルを一本取り、「夏川さん」と声を掛けた。
「飲む?」
「あ、ありがと。」
「結構動いてたから。」
「神谷くんもじゃん。」
「俺は慣れてる。」
「サッカー部だもんね。」
「そういうこと。」
二人は少しだけ笑う。
そのやり取りを見ていた美咲が、ひまりの肩を肘でつついた。
「よかったじゃん。」
「何が?」
「優しいじゃん、神谷くん。」
「うん、優しい。」
「付き合っちゃえば?」
「何言ってんの。」
ひまりは笑いながら美咲の腕を軽く叩いた。
「そういうんじゃないって。」
「またまた。」
「ほんとだって。」
その会話も、教室の誰かが「おーい、こっち手伝って」と声を掛けたことで途切れた。
遼は少し離れた席でその様子を見ていた。
神谷はいい奴だと思う。
美咲も明るくて、一緒にいると楽しそうだ。
ひまりも、二人といる時は本当に楽しそうに笑う。
教室の風景として、それはとても自然だった。
だからこそ、あの日の集合写真だけが、この教室の中でひどく場違いな出来事だったように思えた。




