第59話 日曜日のお出かけ
日曜日の朝、ひまりは目覚ましが鳴るよりも先に目を覚ました。
時計を見ると、七時四十二分だった。
待ち合わせは十一時。家を出るのは十時を過ぎてからでいい。それなのに、もう一度眠る気にはなれなかった。
ひまりはベッドから起き上がり、クローゼットを開けた。
金曜日の夜に決めた服が、ハンガーに掛かっている。白いニットに紺色のスカート、少し厚手のコート。昨日、美咲に写真を送って確認してもらった組み合わせだった。
『いいんじゃない? かわいいと思う』
そう返ってきたあと、琴音にも見せようか迷ったけれど、結局やめた。あまり大勢に相談すると、かえって決められなくなりそうだったからだ。
ひまりは服をベッドに並べ、鏡の前に立った。
「……よし。」
誰に聞かせるでもなく呟く。
それから、鏡の前でツインテールの形を整えた。
少し結び直してみる。
鏡を覗き込み、首を傾げた。
「……まあ、いっか。」
いつもの髪型に落ち着くと、ひまりは洗面所へ向かった。
秋月くんは、いつもの私を知っている。
急に違う格好をしたら、変に思われるかもしれない。
そう考えてから、ひまりは首を傾げた。
別に、変に思われてもいいのではないだろうか。
似合っていなければ、そう言ってくれるかもしれない。それは少し恥ずかしいけれど、だからといって嫌われるわけではない。
ひまりは鏡の前で笑った。
「……まあ、いっか。」
十時三十八分。
ひまりは待ち合わせ場所の駅前広場に着いた。
さすがに早すぎたと思ったが、家でじっとしているよりはよかった。
改札から出てくる人たちを眺めながら、スマートフォンを取り出す。
『着いたよ!』
送ろうとして、指を止めた。
まだ二十分以上ある。
急かしているみたいになるかもしれない。
ひまりは文章を消した。
そのとき、後ろから声がした。
「夏川?」
「えっ?」
振り向くと、遼が立っていた。
黒いコートに、グレーのマフラー。肩から小さな鞄を提げている。
「……秋月くん!」
「早くね?」
「秋月くんこそ!」
「俺は電車の時間がちょうどよかったから。」
「私も!」
「夏川、電車じゃないだろ。」
「あっ。」
遼が笑った。
ひまりも笑った。
「……ちょっと楽しみで、早く来ちゃった。」
「そっか。」
「秋月くんは?」
「俺も、まあ。」
遼は少し視線を逸らした。
「遅れるよりいいかなって。」
「……そっか。」
二人は顔を見合わせた。
何だか、それだけで嬉しかった。
「じゃあ、行く?」
「うん!」
ひまりは頷いた。
駅前の商業施設までは、歩いて五分ほどだった。日曜日ということもあり、通りには買い物客や家族連れが多かった。
「そういえば、今日どこから行く?」
遼が尋ねた。
「えっと、まず本屋さん!」
「了解。」
「秋月くん、何か欲しい本あるの?」
「いや、特に決めてないけど。新刊出てないかなって。」
「漫画?」
「うん。」
「そっか。私も見たいのあるんだ!」
二人はエスカレーターで三階へ上がった。
書店に入ると、ひまりは文房具のコーナーへ向かった。色とりどりのノートやペンが並んでいる。
「見て、秋月くん。これかわいくない?」
ひまりが手に取ったのは、小さな猫の絵が描かれた付箋だった。
「かわいいんじゃね?」
「反応薄い!」
「いや、かわいいと思うけど。」
「ほんとに?」
「ほんとだって。」
ひまりは笑った。
「じゃあ、買おうかな。」
「そんな簡単に決めていいのかよ。」
「秋月くんがかわいいって言ったから!」
「俺のせい?」
「うん!」
遼は呆れたように笑った。
ひまりは付箋を買い物かごに入れた。
それから、隣の棚に並んでいたシャープペンシルを手に取った。
「これもいいなあ。」
「今の壊れたの?」
「ううん。でも、ちょっと書きにくくて。」
「だったら買えば?」
「うーん。」
ひまりは値札を見た。
「……ちょっと高い。」
「どれ?」
「これ。」
「千八百円か。」
「ね。」
遼はペンを手に取って、試し書き用の紙に線を引いた。
「確かに書きやすいな。」
「でしょ?」
「でも、千八百円は迷うな。」
「そうなの!」
ひまりは嬉しそうに頷いた。
「秋月くん、分かってくれる!」
「いや、普通に高いだろ。」
「そうなんだけど!」
結局、シャープペンシルは棚に戻した。
その代わり、猫の付箋と新しいノートを買った。
遼は漫画を二冊買った。
会計を終えて店を出ると、ひまりは紙袋の中を覗き込んだ。
「……ふふ。」
「何?」
「何でもない!」
「またそれかよ。」
「だって、楽しいんだもん。」
遼は少し笑った。
「……俺も楽しいよ。」
ひまりは顔を上げた。
「……ほんと?」
「ああ。」
「……そっか。」
ひまりは紙袋を抱き寄せた。
買ったものは、いつもと大して変わらない。
それなのに、今日の買い物はずっと特別なものに思えた。
昼食は、施設の中にある洋食店で取ることにした。
ひまりはオムライスを、遼はハンバーグを注文した。
「秋月くんって、ハンバーグ好きなの?」
「好きだけど。何で?」
「いや、何となく。」
「夏川はオムライス好きなの?」
「うん!」
「じゃあ、お互い様じゃん。」
「そうだね!」
ひまりは笑った。
料理が運ばれてくるまで、二人は学校の話をした。
来月の学年末試験のこと。
三年生になったら選択授業がどうなるかということ。
榊が最近買ったゲームのこと。
美咲たちと昼休みに話したこと。
ひまりは、遼が榊と遊んだ昨日の話を聞いた。
「昨日、結局何時まで遊んでたの?」
「六時くらいかな。」
「へえ。何してたの?」
「ゲームして、飯食って、またゲーム。」
「ずっとゲームじゃん!」
「まあ、そうだな。」
「楽しそう!」
「楽しかったよ。」
遼は笑った。
「榊、負けるとすげえうるさいんだよ。」
「想像できる!」
「でも、あいつ結構うまいんだよな。」
「そうなんだ。」
ひまりは頷いた。
遼が自分の知らない話をしている。
けれど、それを聞くのは嫌ではなかった。
むしろ、もっと知りたいと思った。
「秋月くんって、榊くんといつから仲いいの?」
「一年のときから。同じクラスだったし。」
「へえ!」
「最初は別にそんな話してなかったけど、ゲームの趣味が合ってさ。」
「そうなんだ。」
「何だかんだ、ずっと一緒にいるな。」
遼は水を一口飲んだ。
「夏川は、美咲とはいつから仲いいんだっけ。」
「転校してすぐかな。」
「そっか。」
「うん。最初に話しかけてくれたの、美咲だったんだ。」
ひまりは少し笑った。
「私、あのときすっごく緊張してて。」
「まじ?全然見えなかった。」
「うん。でも、美咲が普通に話してくれて、嬉しかった。」
遼は頷いた。
ひまりはグラスに手を伸ばした。
「……今も、嬉しいんだ。」
「うん?」
「また、美咲と普通に話せるようになって。」
遼はひまりを見た。
「……よかったな。」
「うん。」
ひまりは笑った。
それから、少しだけ声を落とした。
「秋月くんにも、いっぱい助けてもらったね。」
「そんなことないだろ。」
「あるよ。」
ひまりは首を振った。
「すっごく、ある。」
遼は少し困ったように笑った。
「……そっか。」
「うん。」
ひまりはそこで言葉を切った。
ありがとう。
何度も言ってきた言葉だった。
でも、今日はそれだけでは足りない気がした。
だからといって、何を言えばいいのかは分からなかった。
ちょうど料理が運ばれてきたので、ひまりは顔を上げた。
「わあ、おいしそう!」
「いただきます。」
「いただきます!」
ひまりはスプーンを手に取った。
オムライスを一口食べる。
「……おいしい!」
「よかったじゃん。」
「秋月くんのもおいしそう!」
「食べる?」
「えっ、いいの?」
「一口なら。」
「やった!」
遼が小さく切り分けたハンバーグを、ひまりの皿に載せた。
ひまりもオムライスを少し分けた。
「……うま。」
「でしょ!」
「こっちにすればよかったかな。」
「えー! じゃあ交換する?」
「いや、もう結構食べてるし。」
「そっか。」
二人は笑った。
食事を終えたあと、ひまりは化粧室へ向かった。
鏡の前で髪を整え、スマートフォンを取り出す。
美咲からメッセージが届いていた。
『どう? 楽しんでる?』
ひまりはすぐに返信した。
『すっごく楽しい!』
『今お昼食べたところ!』
『よかったじゃん』
ひまりは少し考えてから、文字を打った。
『ねえ、美咲』
『何?』
『これ、ほんとにデートなのかな』
送信して、鏡を見た。
少しして返信が来た。
『まだ気にしてたの?笑』
『気になるんだもん!』
『じゃあ今日の帰りに聞いてみれば?』
『無理!!』
『じゃあ聞かなくていいじゃん』
『それも気になる!!』
美咲から笑っているスタンプが届いた。
ひまりは頬を膨らませた。
けれど、すぐに笑った。
『ありがと! またあとでね!』
スマートフォンをしまい、鏡の前でもう一度髪を整える。
「……よし。」
ひまりは店へ戻った。
午後は雑貨屋をいくつか回った。
ひまりは小さなキーホルダーを見つけ、しばらく眺めていた。
青い星の形をしたものと、黄色い月の形をしたものが並んでいる。
「……かわいい。」
「それも買うの?」
遼が尋ねた。
「うーん。どうしようかな。」
「今日、結構買ってない?」
「買ってる!」
「じゃあ、やめとけば?」
「そうだね。」
ひまりは笑って、キーホルダーを棚に戻した。
そのとき、遼が隣に並んでいた別のキーホルダーを手に取った。
「これ、何か変じゃね?」
小さな動物の顔が、妙に間の抜けた表情をしていた。
ひまりは覗き込んだ。
「……何これ!」
「分かんねえ。」
「顔が!」
「な。」
二人は声を抑えて笑った。
ひまりはそのキーホルダーを手に取った。
「これ、秋月くんに似てるかも。」
「は?」
「何か、ちょっと眠そうなところ。」
「俺こんな顔してんの?」
「たまに!」
「ひでえな。」
遼は笑った。
ひまりも笑った。
結局、そのキーホルダーは買わなかった。
けれど、店を出てからも、ひまりは何度か思い出して笑ってしまった。
「まだ笑ってんの?」
「だって!」
「そんな面白かった?」
「うん!」
遼は呆れたように首を振った。
午後四時を過ぎる頃には、二人とも少し疲れていた。
施設の外に出ると、冷たい風が吹いていた。
「寒いね。」
「な。中、暑かったのに。」
「ほんとだね。」
ひまりはコートの前を合わせた。
駅へ向かう歩道には、買い物帰りの人たちが行き交っていた。
遼はひまりの歩く速さに合わせていた。
ひまりはそのことに気づいて、少し嬉しくなった。
交差点に差しかかったとき、後ろから自転車が近づいてきた。
「あ、危ない。」
遼がひまりの腕を軽く引いた。
自転車が二人の横を通り過ぎていく。
「……あ、ありがとう。」
「大丈夫?」
「うん。」
遼は手を離した。
ひまりは自分の腕を見た。
さっきまで遼の手が触れていた場所。
ほんの一瞬だった。
それなのに、何だかそこだけ温かい気がした。
ひまりは顔を上げた。
遼は何事もなかったように歩き始めている。
ひまりも慌てて隣に並んだ。
少し歩いてから、遼が口を開いた。
「……今日さ。」
「うん?」
「楽しかった?」
ひまりは驚いて遼を見た。
「楽しかったよ!」
「そっか。」
「すっごく!」
ひまりは笑った。
「秋月くんは?」
「俺も楽しかった。」
「……ほんと?」
「ほんとだって。」
遼は少し笑った。
「夏川と出かけるの、結構楽しいな。」
ひまりは足を止めかけた。
「……結構?」
「いや、すげえ楽しい。」
「よろしい!」
ひまりは胸を張った。
遼が笑った。
二人はまた歩き出した。
駅前広場が見えてきた。
もうすぐ、今日が終わる。
ひまりは少し寂しくなった。
朝はあんなに楽しみだったのに、時間が過ぎるのはあっという間だった。
「……秋月くん。」
「ん?」
「また、二人で出かけてもいい?」
遼はひまりを見た。
「もちろん。」
「……ほんと?」
「ああ。」
ひまりは笑った。
「……やった。」
それから、少しだけ黙った。
聞いてみようか。
今日のこと。
遼にとって、これはどういう一日だったのか。
友達と買い物に行っただけなのか。
それとも。
ひまりは鞄の持ち手を握った。
「……ねえ、秋月くん。」
「うん?」
「今日って……。」
そこで言葉が止まった。
遼が首を傾げる。
「今日?」
「……ううん。何でもない。」
「何だよ、気になるじゃん。」
「……えへへ。」
ひまりは笑ってごまかした。
遼は少し不思議そうにしていたが、それ以上は聞かなかった。
駅の改札前で、二人は立ち止まった。
「じゃあ、また明日。」
遼が言った。
「……うん。」
ひまりは頷いた。
けれど、すぐには歩き出さなかった。
遼もその場に立っていた。
「……夏川?」
「ん?」
「何か、まだある?」
ひまりは少し迷った。
それから、顔を上げた。
「……あのね。」
「うん。」
「今日、秋月くんと二人で出かけられて、嬉しかった。」
遼は黙った。
ひまりは続けた。
「いつも学校で話してるけど、今日は何か、違う感じがして。」
「……うん。」
「すっごく楽しかった。」
ひまりは笑った。
「だから、ありがとう。」
遼は少し俯いた。
それから、ひまりを見た。
「……俺も。」
「……うん?」
「俺も、夏川と二人で出かけられて嬉しかった。」
ひまりは息を止めた。
「……そっか。」
「ああ。」
二人は顔を見合わせた。
遼が少し照れたように笑った。
「……何か、変な感じだな。」
「……うん。」
ひまりも笑った。
それから、思い切って尋ねた。
「……秋月くん。」
「ん?」
「今日のこと、デートって思ってもいい?」
言ってしまった。
ひまりは自分の頬が熱くなるのを感じた。
遼は目を丸くした。
「……え?」
「……あっ、いや!」
ひまりは慌てて手を振った。
「違うの! 違わないんだけど!」
「……うん。」
「その、二人で出かけたし、何か、そういう感じなのかなって……。」
言葉がどんどん小さくなる。
遼は黙っていた。
ひまりは俯いた。
やっぱり聞かなければよかった。
ただの友達だと思っていたら。
変に意識させてしまったら。
そう考えたとき、遼が口を開いた。
「……俺は。」
ひまりは顔を上げた。
「……うん。」
「俺は、デートのつもりだったけど。」
ひまりは固まった。
「……え?」
遼は少し視線を逸らした。
「いや、夏川がどう思ってるか分かんなかったから、言わなかったけど。」
「……えっ。」
「……変だった?」
ひまりは首を振った。
何度も振った。
「……変じゃない!」
遼がひまりを見る。
「……そっか。」
「……うん。」
ひまりは笑った。
笑っているのに、何だか泣きそうだった。
「……私も。」
「うん?」
「私も、デートだったらいいなって思ってた。」
遼は少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
「……そっか。」
「……うん。」
二人はしばらく、何も言わなかった。
駅のアナウンスが聞こえる。
改札を通る人たちの足音。
遠くで誰かが笑っている声。
いつもと同じ駅前だった。
けれど、ひまりには少し違って見えた。
「……じゃあ。」
遼が口を開いた。
「また、デートしようか。」
ひまりは顔を上げた。
「……うん!」
今度は、迷わず答えた。
「……したい!」
遼は笑った。
ひまりも笑った。
それから、ようやく改札へ向かった。
「じゃあ、また明日ね!」
「おう。また明日。」
ひまりは手を振った。
遼も振り返す。
改札を通ってから、ひまりはもう一度振り返った。
遼はまだそこにいた。
目が合うと、少し照れたように笑った。
ひまりも笑った。
今度こそ、ホームへ向かった。
電車に乗り、空いている座席に腰を下ろす。
スマートフォンを取り出した。
美咲とのトーク画面を開く。
『美咲!!』
送信する。
『聞いて!!』
すぐに返信が来た。
『何?』
ひまりは文字を打った。
『今日、デートだった!!』
少しして、美咲から返事が来た。
『知ってる笑』
『秋月くんもデートのつもりだったって!!』
『おー』
『よかったじゃん!』
ひまりは画面を見つめた。
それから、ゆっくり返信した。
『うん!』
『すっごく嬉しい!』
美咲から、笑顔のスタンプが届いた。
ひまりはスマートフォンを胸元に引き寄せた。
窓の外では、夕暮れの街が流れていた。
今日、秋月くんとデートをした。
秋月くんも、デートのつもりだった。
また、デートしようと言ってくれた。
ひまりは口元を押さえた。
笑いが止まらなかった。
その頃、遼は駅前のベンチに座っていた。
すぐに帰るつもりだったのに、何となく歩き出せなかった。
スマートフォンを取り出す。
榊からメッセージが届いていた。
『今日どうだった?』
遼は少し考えてから返信した。
『楽しかった』
すぐに返事が来た。
『おー』
『で?』
『で?って何だよ』
『付き合った?』
遼は画面を見つめた。
付き合った。
そういうわけではない。
告白したわけでもない。
ただ、二人で出かけた。
デートだったと確認した。
また出かける約束をした。
それだけだった。
『まだ』
返信する。
榊から、すぐにメッセージが届いた。
『まだってことは脈ありじゃん』
『頑張れよ笑』
遼は小さく笑った。
スマートフォンをしまい、立ち上がる。
駅前には、夕方の冷たい風が吹いていた。
遼はマフラーを巻き直した。
今日、ひまりは何度も笑っていた。
本屋でも、昼食のときも、帰り道でも。
そして最後に、デートだったらいいなと思っていたと言ってくれた。
遼は歩き出した。
次に会うのは明日の朝。
それなのに、もう会いたいと思っていた。
スマートフォンが震えた。
ひまりからだった。
『秋月くん!』
『今日はほんとにありがとう!』
『またデートしようね!』
遼は立ち止まった。
少し笑って、返信した。
『こちらこそ』
『また行こうな』
すぐに既読がついた。
『うん!!』
遼はスマートフォンをしまった。
明日は月曜日。
また学校が始まる。
教室に行けば、ひまりがいる。
それが、今までよりずっと楽しみだった。




