第58話 二人で
木曜日の放課後、ひまりは教室の自分の席で、鞄のファスナーを開けたり閉めたりしていた。
帰る準備はとっくに終わっている。机の中にも忘れ物はない。それなのに、なかなか立ち上がれなかった。
「ひまり、帰らないの?」
美咲が声をかけた。
「えっ? あ、帰るよ!」
「じゃあ何してんの?」
「……ちょっと。」
「ちょっと?」
美咲はひまりの視線を追った。
教室の後ろでは、遼が榊と話していた。榊が何かを言い、遼が笑いながら肩を小突く。いつも通りの光景だった。
美咲はひまりに視線を戻した。
「あー。」
「何、その『あー』!」
「別に。」
「絶対何か思ってるじゃん!」
「思ってないって。」
美咲は笑った。
「話しかけてくれば?」
「……何を?」
「それは自分で考えてよ。」
ひまりは唇を尖らせた。
昨日までは、遼に話しかけることなんて何でもなかった。
朝だって、昼休みだって、帰り道だって。話したいことがあれば話していたし、何もなくても隣にいられた。
それなのに、美咲から「好きなんじゃない?」と言われてから、何だかおかしい。
目が合うと嬉しい。
話しかけられると緊張する。
何を言おうか考えているうちに、何も言えなくなる。
ひまりは鞄を抱き寄せた。
「……美咲。」
「ん?」
「好きって、こんなに面倒くさいの?」
「知らないよ。」
「ええっ!」
「私に聞かないでってば。」
美咲は笑いながら立ち上がった。
「じゃ、私先帰るね。」
「えっ、待って!」
「何?」
「……何でもない。」
美咲は少しだけ呆れた顔をした。
「ひまりさ。」
「うん。」
「秋月くんと話すのに、そんなに頑張らなくてもいいんじゃない?」
ひまりは黙った。
「今まで普通に話してたんだから。」
「……そうだけど。」
「じゃあ、いつも通りでいいじゃん。」
美咲は鞄を肩にかけた。
「また明日ね。」
「……うん。また明日!」
ひまりは手を振った。
美咲が教室を出ていく。
その背中を見送ってから、ひまりは小さく息を吐いた。
いつも通り。
そうだ。
別に、急に何かを変える必要なんてない。
ひまりは立ち上がった。
「あ、秋月くん!」
遼が振り向いた。
「ん? どうした?」
「えっと……。」
言葉が止まった。
何を話すつもりだったんだっけ。
遼は不思議そうに首を傾げた。
「夏川?」
「あ、あのね!」
「うん。」
「今日も、電話していい?」
言ってから、ひまりは少し後悔した。
もっと他に話すことがあったはずなのに。
遼は笑った。
「いいよ。昨日も言ったじゃん。」
「……そうだった!」
「忘れてたのか?」
「忘れてないよ!」
榊が横から口を挟んだ。
「何、お前ら毎日電話してんの?」
「毎日ってわけじゃねえよ。」
遼が答える。
「へえ。」
榊はにやにやした。
「仲いいねえ。」
「うるせえな。」
ひまりは頬が熱くなるのを感じた。
けれど、榊はそれ以上何も言わなかった。
「じゃ、俺先行くわ。秋月、また明日な。」
「おう。」
榊が教室を出ていった。
二人だけになる。
ひまりは遼を見た。
「……秋月くん。」
「ん?」
「今日、一緒に帰れる?」
遼は少し驚いたようだった。
「いいけど。何かあった?」
「ううん。」
ひまりは笑った。
「一緒に帰りたいだけ!」
遼は一瞬、言葉を探した。
それから、少し照れたように笑った。
「……そっか。じゃあ帰るか。」
「うん!」
二人は並んで教室を出た。
廊下には部活動へ向かう生徒たちが行き交っていた。階段を下り、昇降口で靴を履き替える。外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。
「寒っ。」
遼が肩をすくめた。
「今日、風強いね。」
「な。早く春になんねえかな。」
「春かあ。」
ひまりは空を見上げた。
冬の空は、もう夕方の色になりかけていた。
「もうすぐ三年生だね。」
「そうだな。」
「クラス替え、どうなるんだろ。」
「ああ、そっか。あるんだよな。」
「うん。」
ひまりは少し考えた。
「美咲たちと、また同じクラスになれたらいいな。」
「なれるといいな。」
「秋月くんも!」
「俺も?」
「うん!」
ひまりは頷いた。
「秋月くんとも同じクラスがいい!」
遼は前を向いたまま、少し笑った。
「……俺も、同じクラスがいいよ。」
ひまりは胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ほんと?」
「何で嘘つくんだよ。」
「そっか。」
ひまりは笑った。
それから、少しだけ歩幅を緩めた。
遼も自然に速度を落とす。
そのことが、何だか嬉しかった。
駅へ向かう途中、商店街の入口に差しかかった。
洋菓子店のショーウインドーには、赤やピンクのリボンで飾られた箱が並んでいた。
バレンタイン。
大きな文字が、ガラスに貼られている。
ひまりは思わず足を止めた。
「……あ。」
「どうした?」
「もうすぐバレンタインだね。」
「ああ、そういや。」
遼はショーウインドーを見た。
「来週か。」
「うん。」
ひまりは色とりどりの箱を眺めた。
今まで、バレンタインに特別な思い入れがあったわけではない。
友達同士でお菓子を交換したことはある。中学の頃も、高校に入ってからも。
でも、今年は少し違う気がした。
「秋月くんって、チョコ好き?」
「普通に好きだけど。」
「甘いの平気?」
「平気。」
「そっか。」
ひまりは頷いた。
遼が不思議そうにこちらを見る。
「何で?」
「えっ?」
「いや、急にチョコの話するから。」
「……べ、別に!」
「別に?」
「ほら、バレンタインだから!」
「そりゃそうだけど。」
遼は笑った。
「何だよ、変なの。」
「変じゃないよ!」
ひまりは慌てて歩き出した。
遼も隣に並ぶ。
しばらくして、ひまりは小さく息を吐いた。
チョコ。
秋月くんに渡したい。
そう思った瞬間、胸がどきどきした。
友達として渡すこともできる。
いつもありがとう、と言って。
でも、それだけじゃない気がする。
自分が渡したいのは、そういうチョコなのだろうか。
「夏川?」
「ひゃいっ!」
「……ひゃい?」
「な、何でもない!」
遼が吹き出した。
「何だよ、それ。」
「笑わないで!」
「いや、今のは笑うだろ。」
ひまりもつられて笑った。
駅前の横断歩道で信号を待つ。
向こう側には、仕事帰りの人たちが集まっていた。
ひまりは遼の横顔を見た。
話しかけようとして、やめる。
もう一度、口を開く。
「……秋月くん。」
「ん?」
「今週末って、暇?」
遼は少し考えた。
「土曜は榊と遊ぶ約束あるけど、日曜なら空いてるかな。」
「……そっか。」
ひまりは頷いた。
土曜日は榊くんと遊ぶんだ。
当たり前のことだった。
遼には遼の友達がいる。
自分が知らない時間もある。
そんなこと、分かっている。
けれど、ほんの少しだけ残念だった。
「何かあるの?」
遼が聞いた。
「あ、うん!」
ひまりは顔を上げた。
「日曜日、ちょっと買い物行きたいなって思って。」
「買い物?」
「うん。駅前の本屋さんとか、雑貨屋さんとか。」
「へえ。」
「それで……。」
ひまりは鞄の持ち手を握り直した。
「秋月くん、一緒に行かない?」
遼はひまりを見た。
「俺?」
「うん。」
「……いいよ。」
「ほんと?」
「ああ。日曜なら暇だし。」
ひまりの顔がぱっと明るくなった。
「やった!」
「そんなに喜ぶ?」
「喜ぶよ!」
遼は笑った。
信号が青になる。
二人は横断歩道を渡った。
ひまりは、さっきまでの緊張が嘘みたいに足取りが軽くなっていることに気づいた。
日曜日。
秋月くんと二人で買い物。
それって。
もしかして。
ひまりは遼を見上げた。
「……ねえ、秋月くん。」
「ん?」
「日曜日、二人だよね?」
「え?」
「……二人で、行くんだよね?」
遼は少し驚いた顔をした。
「そりゃ、そういう話じゃないの?」
「あ、うん! そうだよね!」
「他に誰か誘う?」
「ううん!」
ひまりは慌てて首を振った。
「二人がいい!」
言ってから、足が止まりそうになった。
遼も一瞬、黙った。
ひまりは顔を伏せた。
何を言っているんだろう。
今日の自分は、どうかしている。
けれど、遼は笑わなかった。
「……分かった。」
穏やかな声だった。
「じゃあ、二人で行こう。」
ひまりは顔を上げた。
「……うん。」
小さく頷く。
駅の改札が見えてきた。
いつもなら、ここで別れる。
ひまりは少しだけ寂しくなった。
でも、今日は違う。
明日も学校で会える。
日曜日には、二人で出かけられる。
その約束があった。
「じゃあ、また明日ね!」
「おう。また明日。」
ひまりは手を振って、改札を通った。
振り返ると、遼はまだそこにいた。
目が合う。
ひまりはもう一度、大きく手を振った。
遼も笑って手を振り返した。
その姿が見えなくなるまで、ひまりは何度も振り返った。
家に帰ると、ひまりは真っ先に美咲へメッセージを送った。
『美咲!!』
『どうしよう!!』
数分後、返信が来た。
『何?』
『日曜日、秋月くんと出かけることになった!』
『おー、よかったじゃん』
『二人で!』
『分かったって笑』
ひまりはベッドに倒れ込んだ。
『これってデートなのかな!?』
送信する。
少しして、美咲から返事が来た。
『本人に聞いてみれば?』
『聞けないよ!!』
『じゃあデートだと思って行けばいいじゃん』
『えええ』
『楽しんできなよ』
ひまりは画面を見つめた。
楽しんできなよ。
その言葉が、何だか嬉しかった。
『ありがとう、美咲』
送信する。
すぐに返信が来た。
『どういたしまして』
『服、変なの選ばないようにね』
『ひどい!!』
ひまりは笑った。
そのあと、クローゼットを開けた。
冬服が並んでいる。
いつものニット。
お気に入りのスカート。
去年買ったコート。
何を着ていこう。
秋月くんは、どんな服が好きなんだろう。
ひまりは鏡の前でニットを胸に当てた。
少し考えて、別の服に替える。
また戻す。
そんなことを繰り返しているうちに、夕食の時間になってしまった。
夜九時過ぎ、遼からメッセージが届いた。
『今大丈夫?』
ひまりはすぐに返信した。
『大丈夫!』
数秒後、着信があった。
『もしもし!』
「おう。」
『秋月くん!』
「何だよ、元気だな。」
『元気だよ!』
遼は笑った。
「日曜のことなんだけどさ。」
『うん!』
「何時くらいにする?」
『えっと……十一時とか?』
「いいよ。駅前集合でいい?」
『うん!』
「分かった。」
ひまりは枕を抱き寄せた。
約束が、少しずつ具体的になっていく。
十一時。
駅前。
日曜日。
それだけで嬉しかった。
「……夏川?」
『ん?』
「何か、すげえ楽しそうだな。」
『……うん。』
ひまりは小さく笑った。
『楽しみだよ。』
「そっか。」
『秋月くんは?』
「俺?」
『うん。』
少し沈黙があった。
ひまりは息を止めた。
聞かなければよかったかもしれない。
もし、そこまで楽しみじゃないと言われたら。
ただ付き合ってくれるだけだったら。
そんな考えが、一瞬だけ頭をよぎった。
けれど、遼は答えた。
「……俺も楽しみ。」
ひまりは目を閉じた。
『……そっか。』
「ああ。」
『……よかった。』
それから二人は、日曜日に行く店の話をした。
ひまりが気になっている雑貨屋。
遼が行きたい本屋。
昼ご飯をどこで食べるか。
ひまりはスマートフォンで店を調べながら、何度も笑った。
通話を終えたのは、午後十時半を少し過ぎた頃だった。
ひまりはベッドの上で、天井を見つめた。
好き。
秋月くんが好き。
もう、そう考えても恥ずかしいだけではなかった。
むしろ、その気持ちに名前がついたことで、少し安心した。
今までどうして、遼と話したくなるのか分からなかった。
どうして、褒められるとこんなに嬉しいのか分からなかった。
どうして、電話が終わると少し寂しいのか分からなかった。
でも、今は分かる。
ひまりは枕に顔を埋めた。
「……好きなんだ。」
声に出すと、余計に恥ずかしくなった。
けれど、笑ってしまった。
その頃、遼も自分の部屋でスマートフォンを見ていた。
日曜日の約束。
ひまりが誘ってくれた。
二人で行きたい、と言ってくれた。
それが嬉しかった。
榊に言われた言葉を思い出す。
付き合っちゃえば。
遼はベッドに仰向けになった。
ひまりと付き合う。
考えたことがなかったわけではない。
けれど、これまでは、そんなことを考えるのが少し怖かった。
ひまりは自分を頼ってくれていた。
困ったときに電話をかけてきてくれた。
自分は、そのひまりを助けていた。
そこに別の気持ちを持ち込んでいいのか、分からなかった。
でも、今のひまりは違う。
学校で笑っている。
美咲たちと楽しそうに過ごしている。
夜も、一人で眠れる。
それでも、自分と一緒に出かけたいと言ってくれた。
遼はスマートフォンを胸の上に置いた。
ひまりが元気になったら、自分は必要なくなる。
少し前まで、そう思っていた。
けれど、ひまりは元気になっても、自分を選んでくれた。
遼は目を閉じた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
金曜日の昼休み。
ひまりは美咲と紗奈、琴音に囲まれていた。
「えっ、日曜に秋月くんと出かけるの?」
琴音が声を上げた。
「ちょ、琴音! 声大きい!」
「だって!」
琴音は身を乗り出した。
「それ、デートじゃん!」
「……や、やっぱり?」
「やっぱりって何!」
紗奈が笑った。
「ひまり、秋月くんのこと好きなの?」
「えっ。」
ひまりは固まった。
美咲が隣で吹き出した。
「ちょっと、紗奈。直球すぎ。」
「だって、気になるじゃん。」
琴音も頷いた。
「気になる!」
ひまりは俯いた。
頬が熱い。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
少し前なら、自分の気持ちを誰かに知られることが怖かった。
変に思われたらどうしよう。
笑われたらどうしよう。
誰かに話されたらどうしよう。
そんなことばかり考えていた。
でも、今は。
「……うん。」
ひまりは小さく頷いた。
三人が黙った。
「……好き、だと思う。」
琴音が口元を押さえた。
「ええーっ!」
「だから声大きいって!」
ひまりが慌てる。
紗奈は笑いながら琴音の肩を叩いた。
「落ち着きなって。」
「だって、ひまりが!」
「分かったから。」
美咲は頬杖をついて、ひまりを見ていた。
「……そっか。」
ひまりが顔を上げる。
「美咲?」
「いや。」
美咲は少し笑った。
「ちゃんと言えたじゃん。」
ひまりは一瞬、黙った。
それから、照れくさそうに笑った。
「……うん。」
その日の放課後、ひまりは一人で教室を出た。
遼は榊と帰る約束をしている。
自分は自分で帰る。
それでいい。
廊下の窓から、校庭が見えた。
冬の夕方。
部活動の声が遠くから聞こえる。
ひまりは歩きながら、日曜日のことを考えた。
何を着ていこう。
どこでお昼を食べよう。
秋月くんと、何を話そう。
楽しみだった。
けれど、それとは別に、一つだけ気になっていることがあった。
遼は、自分のことをどう思っているのだろう。
友達。
大切な人。
それとも、もっと別の何か。
ひまりは階段を下りた。
答えを知りたい。
でも、知るのが怖い。
そんな気持ちは、初めてではなかった。
誰かにとって、自分がどんな存在なのか。
昔から、ずっと気になっていた。
ただ、今は少し違う。
みんなに好かれたいわけじゃない。
誰からも嫌われたくないわけでもない。
秋月くんに、好きになってほしい。
それだけだった。
ひまりは昇降口で靴を履き替えた。
外へ出ると、冷たい風が吹いていた。
日曜日は晴れるといいな。
そう思いながら、駅へ向かって歩き出した。




