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第57話 話したい人

水曜日の朝、ひまりはいつもより十分早く教室に着いた。


窓際の席に鞄を置き、机の中から数学のワークを取り出す。昨日の夜、途中まで解いた問題が残っていた。美咲に借りたノートを見ながら進めたものの、最後の二問だけはどうしても答えが合わなかった。


「おはよ、ひまり。」


「あ、美咲! おはよう!」


教室に入ってきた美咲が、ひまりの机を覗き込む。


「珍しい。朝から勉強?」


「珍しいって何!」


「だって、ひまりじゃん。」


「ひどい!」


美咲は笑って、自分の席に鞄を置いた。


「どこ分かんないの?」


「ここ。途中までは合ってると思うんだけど。」


「あー、符号逆になってる。」


「えっ。」


「ほら、移項するとき。」


「……ほんとだ。」


ひまりは消しゴムを手に取った。


「ありがとう、美咲!」


「どういたしまして。」


美咲は隣の椅子を引いて座った。ひまりが計算をやり直すのを、しばらく黙って見ている。


「あ、できた!」


「よかったじゃん。」


「私、天才かもしれない。」


「今の問題で?」


「今の問題で!」


二人は笑った。


そのとき、教室の扉が開いた。


「あ、秋月くん!」


ひまりが顔を上げた。


遼は片手を上げた。


「おはよう。」


「おはよう! 聞いて聞いて、数学のワーク終わった!」


「へえ。すげえじゃん。」


「でしょ!」


「まあ、美咲に教えてもらったんだけどね。」


美咲が横から言う。


「そこ言わなくていいじゃん!」


「事実でしょ。」


遼は笑った。


「でも、自分で終わらせたんだろ。よかったじゃん。」


ひまりは嬉しそうに頷いた。


遼は自分の席へ向かった。


鞄を置きながら、少しだけ考える。


昨日の夜、ひまりに何か話そうと思っていた。


けれど、結局何も送れなかった。


今朝になってみれば、ひまりはいつも通り笑っている。


自分が何もしなくても。


「秋月。」


榊が隣から声をかけた。


「お前、数学のワーク終わった?」


「終わったけど。」


「見せて。」


「自分でやれよ。」


「昨日やろうと思ったんだよ。思っただけで終わった。」


「それ、やってねえじゃん。」


「だから見せてって。」


遼は呆れながらワークを取り出した。


「答え丸写しすんなよ。」


「分かってるって。」


榊は受け取ったワークを開き、すぐに顔をしかめた。


「お前、途中式まで全部書くタイプかよ。」


「普通だろ。」


「普通じゃねえよ。真面目か。」


「返せ。」


「待って待って。ありがたく参考にします。」


いつものやり取りだった。


遼も笑った。


その間、ひまりは美咲と数学の話を続けていた。


午前中の授業が終わる頃には、ひまりの機嫌はすっかりよくなっていた。


久しぶりに学校へ戻った月曜日は、何をするにも緊張していた。昨日もまだ、教室に入る前に少し足が止まった。


けれど今日は違う。


朝から美咲と話せた。


授業中も集中できた。


英語の小テストでは、休んでいた間に習った単語も書けた。


そして何より、誰かの顔色をずっと気にしていなくても、一日が進んでいく。


それが嬉しかった。


昼休み、琴音が購買で買ってきた菓子パンを机に並べた。


「見て! 新作!」


「それ昨日も売ってなかった?」


紗奈が言う。


「昨日は気づかなかったから、私にとっては新作!」


「何その理屈。」


ひまりが笑った。


「おいしそう!」


「でしょ? ひまり、一口いる?」


「いいの?」


「いいよ。代わりにそっちの卵焼きちょうだい。」


「物々交換じゃん!」


ひまりは弁当箱から卵焼きを一つ取り出した。


琴音がパンをちぎって渡す。


ひまりは一口食べた。


「……甘っ!」


「でしょ!」


「思ったより甘い!」


「そこがいいんじゃん!」


琴音が満足そうに頷いた。


紗奈が呆れ、美咲が笑う。


ひまりも笑った。


少し離れた席では、女子二人がこちらを見て何か話していた。


そのうちの一人と、ひまりは目が合った。


相手はすぐに視線を逸らした。


ひまりの笑顔が、一瞬だけ止まった。


何を話していたのだろう。


自分のことだろうか。


また、あの噂だろうか。


けれど、確かめることはできない。


「ひまり?」


美咲が声をかけた。


「ん?」


「パン、そんなに甘かった?」


「あ、うん! すっごい甘い!」


「私も一口もらおうかな。」


「美咲も食べてみて!」


ひまりは笑って、琴音の方を向いた。


胸の奥に残った小さな引っかかりは、しばらくすると薄れていった。


全部の人に好かれる必要はない。


そう思える日が、少しずつ増えていた。


放課後、ひまりは一人で図書室へ向かった。


数学のワークを終わらせた勢いで、今度は英語の課題も片づけようと思ったのだ。


美咲は琴音と買い物に行く約束があり、紗奈は委員会の仕事があった。


遼は榊と一緒に帰るらしい。


以前なら、誰も一緒に帰れないと分かった時点で、少し寂しくなっていたと思う。


けれど今日は、一人で図書室へ行くのも悪くないと思えた。


窓際の席に座り、教科書を開く。


冬の日差しが机の端に落ちていた。


ひまりはシャープペンシルを動かした。


三十分ほど経った頃、ようやく課題が終わった。


「……できた。」


小さく呟いて、背伸びをする。


誰かに報告したくなった。


美咲には朝、数学を教えてもらった。


琴音には昼休みにパンをもらった。


紗奈にも、休んでいた間のプリントを見せてもらった。


みんなにありがとうと言いたい。


そう思ってスマートフォンを取り出したとき、最初に開いたのは遼とのトーク画面だった。


『秋月くん!』


送信する。


『英語の課題も終わった!』


すぐには既読がつかなかった。


ひまりはスマートフォンを机に伏せ、教科書を片づけた。


数分後、画面が震えた。


『おお、すげえじゃん』


『頑張ったな』


ひまりは思わず笑った。


『でしょ!』


『今日は頑張ったからご褒美ほしい!』


送ってから、少し恥ずかしくなった。


何を言っているんだろう。


けれど、遼からはすぐに返事が来た。


『何がほしいんだよ笑』


ひまりは考えた。


別に、何かが欲しいわけではなかった。


ただ、遼に褒めてもらえたのが嬉しかった。


『じゃあ、今度なんか奢って!』


『調子乗んな笑』


『えー!』


『コンビニのアイスくらいならいいけど』


『やった!』


ひまりはスマートフォンを胸元に引き寄せた。


図書室にいることを思い出して、慌てて姿勢を正す。


隣の席の生徒は、こちらを見ていなかった。


ひまりは小さく息を吐いた。


何だろう。


今日一日、楽しいことはたくさんあった。


美咲と話したことも、琴音と笑ったことも、授業についていけたことも。


でも、遼に「頑張ったな」と言われた瞬間、全部が一つにまとまったような気がした。


今日という日が、ちゃんといい日になった。


そんな感じがした。


ひまりはもう一度、画面を見た。


『じゃあ今度な』


遼からの最後のメッセージ。


ひまりはその文字を見つめて、また笑った。


その頃、遼は榊と駅前のゲームショップにいた。


「お前、何ニヤニヤしてんの?」


榊が言った。


「別に。」


「いや、絶対ニヤニヤしてたって。」


「してねえよ。」


「夏川?」


「……何で分かるんだよ。」


「分かりやすすぎだろ。」


榊は笑った。


「お前、もう付き合っちゃえば?」


「は?」


「いや、普通に仲いいじゃん。」


「そういうんじゃねえって。」


「そういうんじゃねえって言う奴、大体そういうやつなんだよな。」


「うるせえ。」


遼はスマートフォンをしまった。


榊はゲームソフトの棚に向き直った。


「まあ、別にいいけどさ。」


「何が。」


「最近、夏川も元気そうだし。」


「……ああ。」


「お前も前より楽しそうじゃん。」


遼は少し考えた。


「……そう見える?」


「見える見える。」


榊は適当に頷いた。


「ただ、付き合うならちゃんと言えよ。変に曖昧なままだと面倒くさそうだし。」


「何でお前に報告しなきゃいけねえんだよ。」


「親友だから?」


「自分で言うな。」


二人は笑った。


その日の夜、ひまりは夕食を終えたあと、自分の部屋でベッドに寝転がっていた。


スマートフォンを手に取る。


遼とのトーク画面を開いた。


最後のメッセージから、もう四時間ほど経っている。


今日は電話しようとは言っていない。


昨日も、一昨日も、電話はしなかった。


ひまりは少し考えてから、メッセージを打った。


『秋月くん、今何してる?』


送信する。


すぐに既読がついた。


『ゲーム』


『榊くんと?』


『いや、今日は一人』


『そっか!』


ひまりは画面を見つめた。


それから、もう一度文字を打つ。


『ちょっと電話してもいい?』


送信したあと、急に緊張した。


何を話そう。


課題のことはもう話した。


学校のことも、特に新しい話題はない。


ただ、声が聞きたかった。


しばらくして、返事が来た。


『いいよ』


ひまりはすぐに通話ボタンを押した。


『もしもし。』


「おう。」


『えへへ。』


「何だよ、いきなり笑って。」


『何でもない!』


「変な奴。」


『ひどい!』


遼も笑った。


ひまりは枕を抱き寄せた。


『ゲーム、邪魔しちゃった?』


「いや、ちょうど終わったところ。」


『ほんと?』


「ほんとだって。」


『よかった。』


少し沈黙があった。


以前なら、ひまりが何も話さなくなると、遼は心配して声をかけていた。


泣いているのではないか。


何かを思い出しているのではないか。


けれど、今夜のひまりは違った。


『ねえ、秋月くん。』


「ん?」


『今日ね、すっごく楽しかった。』


「学校?」


『うん。美咲ともいっぱい話せたし、琴音とも笑ったし。数学も英語も終わったし!』


「最後のは偉いな。」


『でしょ!』


ひまりは笑った。


『でもね。』


「うん。」


『今日あったこと、秋月くんに話したかったんだ。』


遼は黙った。


『別に、嫌なことがあったわけじゃないんだけど。』


「……ああ。」


『何か、話したくなっちゃった。』


ひまりは少し恥ずかしくなった。


『変かな?』


「……いや。」


遼は答えた。


「全然、変じゃないだろ。」


『そっか。』


「俺も、夏川と話すの楽しいし。」


ひまりは枕に顔を埋めた。


『……えへへ。』


「だから何なんだよ、その笑い方。」


『何でもないってば!』


遼は笑った。


その笑い声を聞いて、ひまりも笑った。


しばらく、二人は何でもない話をした。


今日の授業。


榊がゲームショップで買ったソフト。


琴音が持ってきた菓子パン。


学年末試験まで、あとどれくらいあるか。


話題は次々に変わった。


どれも、今すぐ話さなければならないことではなかった。


それでも、電話を切ろうとは思わなかった。


ひまりは時計を見た。


十二時二分。


『……あ、もうこんな時間。』


「ほんとだ。」


『そろそろ寝なきゃ。』


「明日も学校だしな。」


『うん。』


ひまりは少し黙った。


『……ねえ。』


「ん?」


『明日も電話していい?』


遼はすぐには答えなかった。


ひまりの胸が、ほんの少しだけざわついた。


『……忙しい?』


「いや、違う。」


『そっか。』


「明日も別に予定ないし、いいよ。」


『ほんと?』


「ああ。」


ひまりは安心した。


『やった。』


遼は笑った。


「そんな喜ぶことか?」


『喜ぶよ!』


「そっか。」


『……うん。』


ひまりは枕を抱き直した。


『じゃあ、おやすみ。』


「おやすみ。」


通話が切れた。


ひまりはしばらく、暗くなった画面を見つめていた。


今日も楽しかった。


明日も学校に行きたい。


美咲たちと話したい。


数学も頑張りたい。


それから、夜になったら秋月くんと電話したい。


ひまりは目を閉じた。


以前は、眠るのが怖くて電話をしていた。


今は違う。


眠る前に、好きな声を聞きたかった。


その違いが、ひまりには少し嬉しかった。


一方、遼は通話を終えたあとも、スマートフォンを手にしていた。


今日は、ひまりから電話をかけてきた。


何か嫌なことがあったわけではない。


泣いていたわけでもない。


ただ、自分と話したかった。


遼はそのことを、何度も考えた。


少し前まで、ひまりが元気になることを怖がっていた。


元気になれば、自分は必要なくなると思っていた。


けれど、そうではなかった。


ひまりは笑っていた。


学校も楽しいと言っていた。


それでも、自分に電話をかけてきた。


遼はベッドに横になった。


スマートフォンの画面を開く。


ひまりからメッセージが届いていた。


『今日はありがとう!』


『明日も頑張ろうね!』


遼は返信した。


『おう。おやすみ』


すぐに既読がつく。


『おやすみ!』


遼は笑った。


明日も電話できる。


その約束が、思っていた以上に嬉しかった。


ひまりが自分を必要としてくれる理由は、もう苦しさだけではない。


そのことに気づいて、遼は安心した。


そして、安心した自分に少し驚いた。


翌日の昼休み。


ひまりは美咲と並んで、廊下を歩いていた。


「そういえば、ひまり。」


「ん?」


「最近、夜はちゃんと寝られてる?」


「うん! もう全然平気!」


「そっか。よかった。」


美咲は笑った。


「秋月くんとの電話も、最近は減った?」


ひまりは少し考えた。


「うーん。一昨日まではしてなかったけど、昨日はしたよ。」


「そうなんだ。」


「今日もする予定!」


「へえ。」


美咲はそれ以上聞かなかった。


ひまりは少し歩いてから、ぽつりと言った。


「……美咲。」


「ん?」


「私、最近ちょっと変かもしれない。」


美咲が横を見る。


「どうしたの?」


「何かね、秋月くんと話してると、すっごく楽しいんだ。」


「うん。」


「前から楽しかったんだけど、最近はもっと。」


「……そっか。」


「昨日も、別に何かあったわけじゃないのに、電話しちゃった。」


ひまりは少し笑った。


「何でだろうね。」


美咲は足を止めた。


「……ひまり。」


「ん?」


「それって、秋月くんのこと好きなんじゃない?」


ひまりも立ち止まった。


「……え?」


「いや、普通に。」


「……えっ?」


美咲は笑った。


「何でそんな驚くの。」


「だ、だって……。」


ひまりは視線を泳がせた。


好き。


秋月くんのことが。


考えたことがなかったわけではない。


でも、考えないようにしていた。


遼は自分を助けてくれた人だった。


ずっとそばにいてくれた人だった。


だから、自分が遼と話したいのは、安心するからだと思っていた。


けれど。


昨日、電話が繋がった瞬間の嬉しさ。


「俺も話すの楽しいし」と言われたときの、胸の奥が温かくなる感じ。


明日も電話できると分かったときの安心。


ひまりは、自分の頬が熱くなるのを感じた。


「……そ、そうなのかな。」


「私に聞かれても。」


「美咲!」


「だって、自分のことでしょ。」


美咲は笑った。


ひまりも、つられて笑った。


けれど、すぐに黙ってしまった。


「……ねえ、美咲。」


「ん?」


「もし、そうだったら……どうしよう。」


「どうしようって?」


「……分かんない。」


ひまりは俯いた。


「秋月くん、私のことどう思ってるんだろ。」


美咲は少し考えた。


「それは本人に聞かないと分かんないけど。」


「うん。」


「でも、嫌われてはないでしょ。」


「……そうかな。」


「当たり前じゃん。あんなに一緒にいるんだから。」


ひまりは小さく頷いた。


美咲は、ひまりの横顔を見た。


少し前なら、こんな話を聞くのは嫌だったと思う。


ひまりが遼のことを嬉しそうに話すたびに、自分が遠くへ追いやられていく気がしていた。


けれど今は、違った。


寂しくないわけではない。


ただ、その寂しさを理由に、ひまりを傷つけたくなかった。


「……いいじゃん。」


美咲は言った。


「好きなら、好きで。」


ひまりが顔を上げた。


「……いいの?」


「何で私に聞くの。」


「……だって。」


「ひまり。」


美咲は笑った。


「私に許可取らなくていいんだよ。」


ひまりは少し黙った。


それから、小さく笑った。


「……そっか。」


「うん。」


「……ありがとう、美咲。」


「どういたしまして。」


二人はまた歩き出した。


ひまりは胸の前で手を組んだ。


好き。


秋月くんが、好き。


そう考えると、昨日まで何でもなかったことが、急に特別な意味を持ち始めた。


朝、教室に入ってきたとき。


昼休みに目が合ったとき。


帰り道で隣を歩いたとき。


夜、電話が繋がったとき。


全部、少しずつ違って見えた。


ひまりは笑った。


そして、ふと考えた。


秋月くんにとって、私はどんな存在なんだろう。


大切な友達。


助けてあげたい人。


それとも。


ひまりは、そこから先を考えるのが少し怖くなった。


でも、同じくらい、知りたかった。


美咲が何かを話しかけてきたので、ひまりは顔を上げた。


「うん、何?」


いつものように笑う。


その笑顔は、今までより少しだけ落ち着かなかった。


けれど、ひまりはその理由を、もう知っていた。

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