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第56話 おやすみ

月曜日。ひまりが学校に戻ってきた日の昼休みは、思っていたよりも普通だった。


「ちょっと待って。ひまり、それ本気で言ってる?」


「え、何が?」


「休んでる間、数学のワーク1ページもやってないって。」


「……1ページはやったよ?」


「1ページしかやってないんじゃん!」


琴音が声を上げると、ひまりは困ったように笑った。


「だって、どこまで進んでるか分かんなかったんだもん。」


「聞けばよかったでしょ。」


「……秋月くんには聞いたんだけど。」


「また秋月くん!」


琴音が大げさに天を仰ぐ。紗奈が呆れたように笑い、美咲もつられて笑った。


ひまりは少しだけ身構えた。


秋月の名前を出すと、美咲が嫌な顔をする。


いつの間にか、そう思うようになっていた。


けれど、美咲はいつもと変わらない顔で弁当を食べていた。


「数学なら私のノート貸すよ。」


「えっ、いいの?」


「いいけど、字汚いよ。」


「美咲の字、綺麗じゃん!」


「そういうこと言ってもワークは代わりにやらないからね。」


「えへへ。」


ひまりは笑った。


美咲も笑った。


それだけのことだった。


四人で机を寄せて、昼ご飯を食べる。誰かが話して、誰かが笑う。話題が変われば、さっきまでのことは忘れてしまう。


ひまりは久しぶりに、その中にいた。


ただ、前とまったく同じではなかった。


美咲はひまりに必要以上に話しかけなかった。ひまりが黙っているときは、無理に会話へ引っ張り込まない。琴音と話したいときは琴音と話し、紗奈に聞きたいことがあれば紗奈に聞いた。


ひまりも、無理に笑わなくていい時間があった。


それが少し、不思議だった。


「そういえば、ひまり。」


紗奈が言った。


「午後の英語、小テストあるよ。」


「えっ。」


「範囲、先週配られたプリント。」


「ええっ!?」


「秋月くんから聞いてない?」


「聞いてない!」


琴音が吹き出した。


「秋月くん、肝心なこと教えてくれないじゃん!」


「ちょっと、今から覚える!」


ひまりは慌てて鞄を開けた。


美咲が自分のプリントを差し出す。


「ほら、これ。」


「ありがとう!」


「五分で覚えられる?」


「……頑張る。」


「無理そう。」


「美咲まで!」


また笑い声が上がった。


教室の反対側で、遼はその声を聞いていた。


「おい、秋月。」


榊が購買のパンをかじりながら言った。


「お前、英語の小テスト夏川に教えた?」


「……いや。」


「やっぱり。さっき大騒ぎしてたぞ。」


「そうなのか。」


「お前がプリント渡すって言ってたんじゃねえの?」


「渡したのは先週の分だけ。小テストの話は忘れてた。」


「まあ、休んでたんだし仕方ねえか。」


榊はパンの袋を丸めた。


「でも、よかったな。普通に戻ってきて。」


「ああ。」


「藤沢とも仲直りしたんだろ?」


「……多分な。」


「何だよ、多分って。」


「詳しくは聞いてない。」


「ふーん。」


榊は四人の方を見た。


「まあ、いいじゃん。あんな感じなら。」


遼も目を向けた。


ひまりが美咲のプリントを覗き込んでいる。美咲が何かを指さすと、ひまりは何度も頷いた。


少し前まで、ひまりの学校での居場所は遼の隣だった。


昼休みも、放課後も。


今は違う。


「……そうだな。」


遼は弁当の蓋を閉じた。


まだ少し残っていたが、食べる気がしなかった。


その日の放課後、ひまりは美咲に借りたノートを返しに行った。


「ありがとう! すっごく助かった!」


「もう写したの?」


「うん。休み時間に頑張った!」


「じゃあ、今度は自分で解いてみなよ。」


「……それはまた今度。」


「こら。」


二人は笑った。


美咲が鞄を肩にかける。


「じゃ、私帰るね。」


「あ、うん!」


ひまりは少し迷った。


「……美咲。」


「ん?」


「また、二人で一緒に帰ってもいい?」


美咲はひまりを見た。


あの日、二人で帰った道。


言わなくていいことを言ってしまった場所。


ひまりも、きっと覚えている。


「……いいよ。」


美咲は答えた。


「でも今日は他の子と約束してるんだ。明日でもいい?」


「あ、うん! もちろん!」


「じゃ、明日ね。」


美咲は手を振った。


ひまりも手を振り返した。


美咲が教室を出ていく。


ひまりはその後ろ姿を見送ってから、自分の席に戻った。


断られた。


けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


明日、一緒に帰ろう。


美咲はそう言ってくれた。


それで十分だった。


「夏川。」


振り返ると、遼が立っていた。


「あ、秋月くん!」


「帰るのか?」


「うん。今、準備してたところ。」


「じゃ、一緒に帰るか。」


「いいの?」


「別に。俺も帰るところだし。」


「やった!」


ひまりは鞄を持った。


二人で教室を出る。


廊下は帰宅する生徒で混み合っていた。階段の踊り場には、部活へ向かう一年生が集まっている。


「今日、どうだった?」


遼が聞いた。


「何が?」


「久しぶりの学校。」


「楽しかったよ!」


「そっか。」


「でも、めっちゃ疲れた。久しぶりに六時間授業受けたから。」


「そりゃそうだろ。」


「あと、数学が全然分かんなかった!」


「休んでた分、取り戻さないとな。」


「うう……。」


ひまりは肩を落とした。


遼は笑った。


学校の門を出る頃には、二人の会話はいつもの調子に戻っていた。


コンビニの新商品。担任の妙な言い間違い。小テストでひまりが一問だけ書けなかった単語。


遼は、ひまりが楽しそうに話すのを聞いていた。


そのうち、ひまりが言った。


「ねえ、秋月くん。」


「ん?」


「明日、美咲と一緒に帰ることになったんだ。」


遼は前を見たまま頷いた。


「へえ。」


「今日誘ったら、明日ならいいよって。」


「よかったじゃん。」


「うん!」


ひまりは嬉しそうだった。


「まだ、ちょっと緊張するけどね。」


「何で?」


「だって、あんなことあったし。」


「……まあな。」


「でも、ちゃんと話せてよかった。」


ひまりは少し笑った。


「秋月くんのおかげだよ。」


「俺、別に何もしてないだろ。」


「そんなことないよ。美咲が謝りたいって言ってたの、教えてくれたじゃん。」


「それだけだって。」


「それが嬉しかったの。」


遼は何も言わなかった。


ひまりが美咲と話せるようになった。


自分が間に入ったからだ。


それは、嬉しいことのはずだった。


「……あのさ。」


遼は口を開いた。


「今日、電話する?」


ひまりが顔を上げた。


「電話?」


「ああ。久しぶりの学校だったし、疲れてるなら無理しなくていいけど。」


「……うーん。」


ひまりは少し考えた。


「今日は早く寝ようかな。」


「……そっか。」


「明日も学校あるし。まだちょっと疲れてるから。」


「そうだな。無理すんなよ。」


「うん!」


ひまりは笑った。


「でも、また電話しようね!」


「……ああ。」


遼も笑った。


駅前の交差点で、二人は別れた。


ひまりは何度も振り返って手を振った。


遼も手を上げた。


ひまりが人混みに消えるまで、その場に立っていた。


それから、ポケットの中のスマートフォンを取り出した。


午後四時三十二分。


いつもなら、夜十一時頃から電話をしていた。


ひまりが学校を休んでいた一週間、ほとんど毎晩。


ひまりが眠くなるまで、何でもない話をした。


途中で黙ってしまうこともあった。


それでも、電話は繋がっていた。


今夜は、その時間がない。


遼はスマートフォンをしまった。


別に、いい。


ひまりが元気になったのだから。


それでいいはずだった。


夜九時。


遼は自分の部屋で、数学の問題集を開いていた。


シャープペンシルを動かして、途中で止める。


スマートフォンを見る。


通知はなかった。


午後十時十五分。


榊からゲームの誘いが来た。


『今からできる?』


遼は少し迷ってから返した。


『今日はやめとく』


『珍し』


『勉強してる』


『お前が?』


『うるせえ』


榊から笑っているスタンプが送られてきた。


遼はスマートフォンを伏せた。


問題集に戻る。


五分ほどして、また画面を確認した。


ひまりからは何も来ていなかった。


当然だった。


今日は早く寝ると言っていた。


電話もしないと決めた。


それなのに、遼は何度もスマートフォンを見てしまった。


午後十時四十三分。


ひまりからメッセージが届いた。


『秋月くん!』


遼はすぐに画面を開いた。


『今日もありがとう!』


『久しぶりの学校だったけど楽しかったよ!』


遼は少し笑った。


『よかったな』


返信する。


すぐに既読がついた。


『うん!』


『じゃあ今日は寝るね!』


『おやすみ!』


遼は画面を見つめた。


指が動いた。


『ちょっとだけ話さない?』


そこまで打って、止めた。


ひまりは疲れている。


明日も学校がある。


今夜は早く寝ると言っていた。


そんなことは分かっていた。


遼は文章を消した。


『おやすみ』


送信する。


ひまりから、月の絵文字が返ってきた。


それで会話は終わった。


遼はスマートフォンを置いた。


部屋が静かだった。


時計の針の音が聞こえる。


少し前まで、この時間にはひまりの声があった。


今日あったこと。


明日したいこと。


どうでもいい話。


ときどき、真琴のこと。


ひまりは遼に、何度も「ありがとう」と言った。


自分がいてよかった。


そう思えた。


今夜は違う。


ひまりは学校へ行った。


美咲たちと笑った。


明日は美咲と一緒に帰る。


そして、もう眠っている。


遼は椅子の背もたれに身体を預けた。


よかったじゃん。


昼間、榊が言っていた。


その通りだった。


ひまりが元気になって、友達とも話せるようになった。


もう、自分が毎晩話を聞かなくても大丈夫なのかもしれない。


遼は目を閉じた。


その考えが、どうしても好きになれなかった。


翌日。


昼休み、ひまりはまた美咲たちと弁当を食べていた。


遼は榊と話しながら、ときどきそちらを見た。


「……お前さ。」


榊が言った。


「最近、夏川のこと見すぎじゃね?」


「は?」


「いや、さっきから何回見てんだよ。」


「別に見てねえよ。」


「嘘つけ。」


榊は笑った。


「好きなんじゃね?」


遼は一瞬、黙った。


「……何だよ、急に。」


「いや、普通にそう見えるけど。」


「違うって。」


「ふーん。」


榊はそれ以上追及しなかった。


けれど、遼はその言葉が気になった。


好き。


ひまりのことが。


確かに、ひまりと一緒にいるのは楽しかった。


頼られるのも嬉しかった。


笑ってくれると安心した。


それは、好きということなのだろうか。


遼はもう一度、ひまりの方を見た。


ひまりが美咲の話に笑っていた。


その顔を見て、胸の奥が少しだけ苦しくなった。


好きだから。


そう考えれば、説明がつく気がした。


その日の放課後。


ひまりは美咲と並んで教室を出ていった。


「秋月くん、また明日ね!」


「ああ。またな。」


ひまりは笑って手を振った。


遼も手を振り返した。


二人の後ろ姿が廊下の向こうへ消える。


榊が鞄を持ち上げた。


「秋月、帰ろうぜ。」


「……おう。」


遼は立ち上がった。


廊下を歩きながら、榊がくだらない話をしていた。


遼は適当に相槌を打った。


階段を下りる途中、スマートフォンが震えた。


ひまりからだった。


『秋月くん!』


遼は立ち止まった。


『今日、美咲と一緒に帰るよ!』


『またあとで話すね!』


遼は画面を見つめた。


またあとで。


その五文字を、何度も読み返した。


「おい、どうした?」


榊が振り返る。


「……何でもない。」


遼はスマートフォンをしまった。


少しだけ、気持ちが軽くなっていた。


ひまりはまだ、自分に話したいことがある。


今日のことを、あとで教えてくれる。


それだけで、嬉しかった。


遼は榊の後を追った。


夕方、ひまりから電話が来た。


午後六時十二分。


いつもより、ずっと早い時間だった。


『もしもし、秋月くん?』


「おう。どうした?」


『今ね、美咲と別れたところ!』


「そっか。」


『今日、いっぱい話したんだよ!』


ひまりは楽しそうだった。


学校のこと。


冬休みのこと。


休んでいた間にあったこと。


美咲が最近見ているドラマのこと。


ひまりは次々と話した。


遼はそれを聞いていた。


『それでね、美咲が言ったの。前みたいに戻ろうとしなくてもいいんじゃないって。』


「……へえ。」


『今の私たちで、また友達になればいいって。』


「いいじゃん。」


『うん! 私もそう思った!』


ひまりは笑った。


『だからね、秋月くん。』


「ん?」


『本当にありがとう。』


「……またそれかよ。」


『だって、本当に感謝してるんだもん。』


遼は少し笑った。


「別に、俺が何かしたわけじゃないだろ。」


『そんなことないよ。秋月くんがいなかったら、私、きっと学校戻れなかった。』


遼は黙った。


『ずっと一緒にいてくれて、ありがとう。』


「……ああ。」


胸の奥が温かくなった。


やっぱり、ひまりは自分を必要としている。


そう思った。


『あ、そろそろ家着く!』


「おう。」


『じゃあ、またね!』


「……なあ、夏川。」


『ん?』


遼は少し迷った。


「今日の夜は?」


『夜?』


「電話。疲れてなかったら。」


ひまりは少し考えた。


『……今日はいいかな。』


「……そっか。」


『今いっぱい話したし、宿題もあるから。』


「ああ、そうだな。」


『でも、また電話しようね!』


「……おう。」


『じゃあね!』


通話が切れた。


遼はスマートフォンを耳から離した。


通話時間、十二分四十八秒。


少し前までは、一時間も二時間も話していた。


ひまりが泣いている日は、もっと長かった。


今日は、十二分だった。


遼は画面を消した。


ひまりは元気になった。


だから、もう長い電話は必要ない。


分かっている。


それでも、遼は思った。


もう少しだけ、話したかった。


夜になって、ひまりからメッセージが届いた。


『おやすみ!』


遼はすぐに返した。


『おやすみ』


既読がつく。


それで終わりだった。


遼はスマートフォンを握ったまま、しばらく動かなかった。


何か話題を作れば、もう少し会話できるかもしれない。


明日の小テスト。


授業のプリント。


ひまりが休んでいた間の話。


何でもよかった。


ただ、もう少しだけ、自分の方を向いてほしかった。


遼はトーク画面を開いた。


最後のメッセージ。


『おやすみ!』


その下に、自分の返信。


『おやすみ』


ひまりはもう、眠っているかもしれない。


遼は文字を打ち始めた。


『そういえば、明日の数学なんだけど』


途中で止める。


数学の話なんて、明日学校ですればいい。


それでも、送ろうと思った。


ひまりが返信してくれるかもしれないから。


遼は送信ボタンに指を近づけた。


少し迷って、文章を消した。


スマートフォンを置く。


数分後、また手に取った。


ひまりのトーク画面を開く。


最後のメッセージは変わっていなかった。


遼はベッドに横になった。


天井を見つめる。


ひまりは、もう大丈夫なのだろう。


自分がいなくても、笑える。


友達と話せる。


学校に行ける。


それは、いいことだった。


遼は目を閉じた。


明日、ひまりに何を話そう。


そんなことを考えながら、眠りについた。



翌朝。


ひまりは教室で、美咲たちと笑っていた。


遼が入ってくると、いつものように手を振った。


「秋月くん、おはよう!」


「……おはよう。」


ひまりは笑った。


遼も笑った。


そして、遼は思った。


今日こそ、何か話そう。


ひまりがまた、自分に電話したくなるような話を。

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