第55話
二月に入って最初の日曜日、美咲は駅前の喫茶店にいた。
約束の時間までは、まだ十分ほどある。
テーブルの上には、ほとんど手をつけていないミルクティーが置かれていた。窓の外では、厚手のコートを着た人たちが足早に行き交っている。
美咲はスマートフォンを確認した。
『十二時半で大丈夫。駅前のお店、分かるよ』
水野紗季から届いたメッセージだった。
前に会ったとき、紗季はひまりの過去について話してくれた。
鈴木真琴という女の子のこと。
ひまりが、その子を仲間外れにしていたこと。
そして、真琴がもうこの世にいないこと。
あのときの美咲は、ひまりが何をしたのか知りたかった。
今日は違う。
自分が何をしたのか、話さなければならなかった。
「……藤沢さん?」
顔を上げると、紗季が立っていた。
「あ、水野さん。こんにちは。」
「こんにちは。」
紗季は向かいの席に座った。以前会ったときと同じ、落ち着いた雰囲気だった。黒い髪を肩の辺りで揃えていて、鞄には小さな猫のキーホルダーがついている。
紗季はココアを注文した。
店員が離れると、二人の間に沈黙が落ちた。
「……夏川、学校休んでるんだって?」
先に口を開いたのは紗季だった。
「はい。一週間くらい。」
「そっか。」
紗季はテーブルに視線を落とした。
「それで、ひどいこと言ったって。」
「……はい。」
「何て言ったの?」
美咲は膝の上で手を握った。
「……フラバちゃんって。」
紗季の表情が変わった。
それまで美咲を見ていた目が、少しだけ細くなった。
「……そう。」
紗季はそれ以上、何も言わなかった。
美咲は続けた。
「ひまりと喧嘩して。私、ずっとひまりに嫉妬してたんです。」
「嫉妬?」
「同じクラスの秋月くんに。」
美咲は、これまでのことを話した。
ひまりが苦しいとき、自分ではなく秋月を頼るようになったこと。夜に何度も電話していたこと。それを知って傷ついたこと。
ひまりの過去を聞いてからも、どう接していいか分からなかったこと。
仲直りしたかったのに、ひまりが秋月と一緒にいるところを見ると、腹が立ってしまったこと。
そして、一緒に帰った日のこと。
「……私、ひまりに嫌われたくなかったんです。」
美咲は言った。
「でも、ひまりが私を必要としてくれないのも嫌で。」
紗季は黙って聞いていた。
「だから、あの子が一番嫌がる言葉を使いました。」
「……。」
「傷つくって、分かってたのに。」
美咲は俯いた。
「本当に、最低なことをしたと思います。」
紗季はココアを一口飲んだ。
「……で、夏川は何て?」
「何も。」
「何も?」
「……『そっか』って。それだけ言って、帰っちゃいました。」
紗季の手が止まった。
「……そう。」
しばらく、二人とも黙っていた。
美咲は恐る恐る顔を上げた。
「……水野さん。」
「何?」
「私、ひまりに謝りました。」
「うん。」
「電話で。ちゃんと、わざと傷つけたってことも話しました。」
紗季は頷いた。
「それで、夏川は許したの?」
「……分かりません。」
美咲は首を振った。
「また友達になりたいって言ってくれました。でも、許してくれたかどうかは、聞いてません。」
「何で?」
「……聞いちゃいけない気がして。」
紗季は少し考えた。
「まあ、謝ったから許してって言われても困るしね。」
「……はい。」
「で、今日は私に何を聞きたいの?」
美咲は言葉に詰まった。
何を聞きたいのだろう。
紗季なら、ひまりのことを知っている。
真琴のことも知っている。
だから、何か答えをくれると思っていた。
でも、何の答えだろう。
「……分からないです。」
美咲は正直に言った。
「ただ、ひまりとまた友達になりたいって思ったときに、真琴さんのことを忘れちゃいけない気がして。」
「……。」
「でも、私がひまりを許していいのかも、分からなくて。」
紗季は顔を上げた。
「それ、私に聞いてどうするの?」
美咲は目を瞬いた。
「……え?」
「私が許さないって言ったら、夏川と友達やめるの?」
「それは……。」
「逆に、私が許すって言ったら、全部なかったことになる?」
美咲は答えられなかった。
紗季は小さく息を吐いた。
「……ごめん。ちょっと意地悪だった。」
「いえ。」
美咲は首を振った。
「その通りだと思います。」
紗季は窓の外を見た。
「……私、夏川のこと、今でも嫌いだと思うときあるよ。」
美咲は顔を上げた。
「真琴のこと、思い出すから。」
「……はい。」
「中学のとき、私と真琴は本当に夏川と仲よかったんだ。」
紗季はゆっくり話し始めた。
「三人で帰ったり、休みの日に遊んだり。真琴、夏川の話ばっかりしてた。」
美咲は黙って聞いていた。
「喧嘩したときも、最初はすぐ仲直りすると思ってた。真琴が夏川の秘密を別の子に話したって聞いて、私も、それは怒られて当然だと思ったし。」
「……。」
「でも、そのうち、誰も真琴と話さなくなって。」
紗季はカップを見つめた。
「真琴が教室に入ってきても、みんな別の話を始めるんだよ。真琴が近づくと、急に静かになったり。」
美咲は唇を噛んだ。
「私も、そうしてた。」
紗季はすぐに答えた。
「最初は普通に話してた。でも、だんだん周りの目が気になって。」
「……。」
「真琴と話してると、今度は自分が何か言われるんじゃないかって。」
紗季は小さく笑った。
「真琴の親友だったのにね。」
その声には、笑いがなかった。
「私、真琴に何度も言われたんだ。『紗季だけは普通にしててね』って。」
美咲は息を止めた。
「でも、できなかった。」
紗季は俯いた。
「……最後の方、真琴が何考えてたのか、私にも分かんない。」
美咲は何も言わなかった。
「夏川がいじめてたのは本当。私も、それに加わってた。でも、真琴が亡くなった理由を、全部知ってるわけじゃない。」
「……はい。」
「それなのに、私はずっと夏川を責めてた。」
紗季は顔を上げた。
「その方が、自分のこと考えなくて済んだから。」
美咲は膝の上の手を見つめた。
自分にも、思い当たることがあった。
ひまりの過去を知ってから、美咲は何度も考えた。
ひまりはひどいことをした。
真琴を傷つけた。
だから、ひまりのことを簡単には許せない。
それは本心だった。
けれど、その言葉の陰に、自分の嫉妬を隠していなかっただろうか。
秋月を頼るひまりが嫌だった。
自分より秋月を選ぶひまりが嫌だった。
そんな気持ちまで、真琴のためだと言い換えていなかっただろうか。
「……私も、同じかもしれません。」
美咲は呟いた。
紗季が顔を上げた。
「ひまりがしたことを、許せないって思ってました。」
「……。」
「でも、私が一番嫌だったのは、ひまりが私を選んでくれないことだったんです。」
美咲は苦笑した。
「真琴さんのこと、ちゃんと考えてたつもりだったのに。」
紗季はしばらく黙っていた。
「……別にさ。」
「はい。」
「真琴のために、夏川を嫌いになる必要はないでしょ。」
美咲は顔を上げた。
「……え?」
「藤沢さんが夏川と友達でいたいなら、いればいいじゃん。」
「……。」
「私が決めることじゃないし。」
紗季は少し考えた。
「ただ、真琴がされたことまで、なかったことにはしないでほしい。」
「……はい。」
「夏川が今、優しくしてくれるからって、昔のことが消えるわけじゃないから。」
「……分かってます。」
美咲は頷いた。
「それは、忘れたくないです。」
紗季は小さく頷き返した。
店内に、食器の触れ合う音が響いた。
窓の外では、小さな子どもが母親の手を引いて歩いていた。
しばらくして、美咲は口を開いた。
「……水野さんは、ひまりに会いたいですか?」
紗季は少し驚いたようだった。
「夏川に?」
「はい。」
「……別に。」
紗季は困ったように笑った。
「会って何話すのって感じだし。」
「……そうですよね。」
「謝ってほしいこともあるけど、謝られても困るかもしれない。」
紗季はカップを両手で包んだ。
「私も謝らなきゃいけないことあるし。」
「……。」
「でも、今は会いたくない。」
美咲は頷いた。
「……分かりました。」
紗季は小さく頷いた。
会計を済ませて、二人は店を出た。
外は冷え込んでいた。美咲はマフラーに顔を埋めた。
駅の改札前で、紗季が立ち止まった。
「藤沢さん。」
「はい。」
「……夏川、学校戻れそうなの?」
「まだ分からないです。でも、本人は戻りたいって言ってました。」
「そっか。」
紗季は頷いた。
「よかった。」
美咲は驚いた。
「……よかった、ですか?」
「何で?」
「だって、ひまりのこと嫌いだって……。」
「嫌いだよ。」
紗季はあっさり言った。
「でも、学校来なくなってほしいとは言ってないじゃん。」
「……。」
「真琴のときも、そうだったから。」
紗季は少し黙った。
「……もう、ああいうのは見たくない。」
美咲は何も言えなかった。
「……藤沢さん。」
「はい。」
「夏川が戻ってきたら、普通に話してあげて。」
紗季は言った。
「無理に仲よくしなくてもいいけど。話しかけられたら、返事くらいはしてあげてほしい。」
美咲はゆっくり頷いた。
「……はい。」
紗季は少し笑った。
「じゃあ。」
「今日は、ありがとうございました。」
「うん。」
紗季は改札を通り、人混みの中へ消えていった。
美咲はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
帰りの電車で、ひまりからメッセージが届いた。
『美咲、今日何してる?』
美咲は少し考えた。
『友達と会ってたよ』
すぐに返信が来た。
『そっか! 楽しかった?』
『うん。いろいろ話せた』
『よかったね!』
美咲は画面を見つめた。
水野さんと会っていたことを、ひまりに話すべきだろうか。
隠す必要はない。
けれど、今すぐ話さなければならないことでもない気がした。
美咲は別の文章を打った。
『ひまり、学校どうする?』
少しして、返事が届いた。
『明日、行ってみようかなって思ってる』
美咲は思わず顔を上げた。
『ほんと?』
『うん! ずっと休んでるのも嫌だし』
『そっか。待ってるね』
送信してから、少し迷った。
それから、もう一通。
『でも、私のところに来なくても大丈夫だからね。ひまりの好きなようにして』
既読がついた。
返事が来るまで、少し時間がかかった。
『ありがとう、美咲』
続けて。
『でも、明日は美咲にもおはようって言いたいな』
美咲は笑った。
『うん。私も』
翌朝。
遼が教室に入ると、ひまりが自分の席に座っていた。
久しぶりに見るツインテールだった。
ひまりは琴音と話していた。紗奈も近くにいて、何かを言って笑っている。
その少し向こうに、美咲がいた。
美咲はひまりの机に寄りかかり、穏やかな顔で話を聞いていた。
遼は足を止めた。
ひまりが笑っていた。
電話の向こうではなく、教室で。
美咲たちと一緒に。
「あっ。」
ひまりが遼に気づいた。
「秋月くん!」
ぱっと顔が明るくなる。
ひまりは椅子から立ち上がり、遼のところへ駆け寄ってきた。
「おはよう!」
「……おう。来たんだな。」
「うん! 久しぶり!」
「体調、大丈夫か?」
「もう平気だよ。」
「そっか。」
遼は笑った。
「よかったじゃん。」
「えへへ。心配かけてごめんね。」
「別にいいって。」
ひまりは嬉しそうに笑った。
それから、少しだけ振り返った。
「ねえ、秋月くん。」
「ん?」
「今日のお昼、美咲たちと食べてもいいかな?」
遼は一瞬、言葉を失った。
ひまりは続けた。
「久しぶりだし、みんなと話したくて。」
「……。」
「あ、でも、秋月くんが嫌だったら……。」
「何で俺が嫌なんだよ。」
遼は笑った。
「好きにすればいいだろ。」
ひまりの顔が明るくなった。
「ほんと?」
「ああ。」
「ありがとう!」
ひまりは笑った。
「じゃあ、お昼は美咲たちと食べるね!」
「おう。」
ひまりは自分の席へ戻っていった。
美咲が何かを言った。
ひまりが笑う。
琴音も笑った。
紗奈が呆れたように肩をすくめた。
四人の声が、教室の中に混ざっていく。
遼は鞄を机に置いた。
よかった。
ひまりが学校に戻ってきた。
美咲とも、また話せるようになった。
ずっと望んでいたことだった。
「おー、夏川来てんじゃん。」
榊が教室に入ってきた。
「よかったな、秋月。」
「……ああ。」
「お前もこれで一安心だろ。」
遼はひまりたちを見た。
ひまりは笑っていた。
あんなふうに笑うところを、久しぶりに見た。
遼は少しだけ目を伏せた。
「……そうだな。」
榊は気づかなかった。
遼自身も、自分の気持ちをうまく説明できなかった。
ただ、ひまりが笑っているのを見ていると、胸の奥が落ち着かなかった。
昨夜まで、あの笑い声は電話の向こうにあった。
自分だけが聞いていた。
それが今は、教室のあちこちに届いている。
遼は椅子に座った。
ひまりが戻ってきたのだから、もう毎晩電話する必要はないのかもしれない。
そう考えたとき、最初に浮かんだのは安心ではなかった。
遼は机の中にスマートフォンをしまった。
まだ朝のホームルームも始まっていない。
それなのに、今夜の電話のことを考えていた。




