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第54話 ごめんね

一月最後の金曜日。美咲は、夕食を終えてからずっとスマートフォンを握っていた。


ひまりとの電話は、午後九時からだった。


昨夜、ひまりから届いたメッセージは短かった。


『美咲、連絡ありがとう。明日なら電話できると思う』


その文章を、美咲は何度も読み返した。


ひまりから連絡が来たことが嬉しかった。自分の名前を呼んでくれたことも、電話を断られなかったことも。


けれど、嬉しいと思うたびに、あの日のひまりの顔を思い出した。


何かが抜け落ちたような、あの表情。


自分が言わせた「そっか」という声。


午後八時五十九分。美咲は一度スマートフォンを置いた。すぐに取り上げ、通話ボタンを押した。


呼び出し音は三回で止まった。


『……もしもし。』


「ひまり?」


『うん。美咲。』


「……久しぶり。」


『久しぶり。』


それきり、会話が途切れた。


美咲は膝の上で拳を握った。


「体調、どう?」


『もう大丈夫だよ。』


「そっか。よかった。」


『うん。』


「授業とか、大丈夫?」


『秋月くんがプリント持ってきてくれるって。』


「……そうなんだ。」


美咲は目を伏せた。


また秋月くん。


ほんの一瞬、そんな言葉が浮かんだ。


けれど、すぐに自分が何を考えたのか分かった。


ひまりが誰に頼ろうと、ひまりの自由だった。


「……よかったね。」


『うん。』


美咲は深く息を吸った。


「ひまり。今日、電話したかったのはね。」


『……うん。』


「謝りたかったから。」


ひまりは黙った。


「あの日、私が言ったこと。覚えてるよね。」


『……うん。』


「本当にごめんなさい。」


美咲は頭を下げた。


電話だから、ひまりには見えない。それでも、自然にそうしていた。


「ひまりがあの言葉を嫌がってるの、知ってた。知ってて言った。」


『……。』


「傷つけたかったんだと思う。」


声が震えた。


「ひまりが秋月くんばっかり頼るのが嫌で。私のことも見てほしくて。だから、ひまりが一番嫌がることを言った。」


『……うん。』


「でも、そんなの理由にならないよね。」


ひまりは何も言わなかった。


「ごめん。ほんとに。」


美咲はスマートフォンを耳に押し当てた。


しばらく、ひまりの呼吸だけが聞こえていた。


『……美咲。』


「うん。」


『私も、ごめんね。』


美咲は目を開けた。


「……何で?」


『ずっと、美咲のこと避けてたから。』


「それは……。」


『美咲が話そうとしてくれてたの、分かってたのに。』


「……。」


『怖くて、逃げちゃった。』


美咲は首を振った。


「ひまり、それは違うよ。」


『……え?』


「今、私に謝らなくていい。」


『でも。』


「私がひどいこと言ったんだから。ひまりが私と話したくなくなっても、仕方ないよ。」


『……。』


「だから、私のこと許してって言うつもりもない。」


ひまりが小さく息を吸った。


『……美咲は、私のこと嫌いになった?』


美咲は答える前に、少し考えた。


嫌いになった。


そう思った日もあった。


ひまりが秋月と笑っているのを見るだけで、腹が立った。自分がいないところで楽しそうにしていることが、許せなかった。


けれど、ひまりが学校に来なくなったとき、真っ先に思ったのは心配だった。


「……嫌いになりたかった。」


『……。』


「でも、なれなかった。」


美咲は笑おうとして、うまくいかなかった。


「私、ひまりのこと好きだよ。今も。」


『……美咲。』


「でも、好きだからって、何してもいいわけじゃないよね。」


ひまりは黙った。


「ひまりが秋月くんと仲よくするのも、私に話したくないことがあるのも、普通のことなのに。」


『……。』


「私、ずっと嫌だったんだ。」


美咲は膝を抱えた。


「ひまりが私の知らないところで、私の知らない顔してるのが。」


『……うん。』


「……変だよね。」


『そんなことないよ。』


「ううん。変だったと思う。」


美咲は小さく息を吐いた。


「だから、もうやめたい。」


『……え?』


「ひまりに、私を一番にしてほしいって思うの。」


向こうが静かになった。


「ひまりが私と話したいときに話してくれたら、それでいい。話したくないときは、無理しなくていい。」


『……。』


「私も、そうする。」


美咲は少し笑った。


「それじゃ、駄目かな。」


ひまりはしばらく答えなかった。


やがて、小さな声がした。


『……美咲。』


「うん。」


『私、また美咲と友達になれる?』


美咲の胸が痛んだ。


友達。


ひまりは、まだそう思ってくれているのだ。


「……なりたいよ。」


『ほんと?』


「うん。」


美咲は目元を拭った。


「でも、すぐ前みたいに戻れるかは分かんない。」


『……うん。』


「私、ひまりのこと、まだちゃんと分かってないし。」


『……。』


「ひまりも、私のこと分かんないところ、あると思う。」


『……うん。』


「だから、少しずつでいい?」


ひまりは小さく笑った。


『……うん。』


その声を聞いて、美咲も笑った。


久しぶりだった。


ひまりと話していて、胸の奥が苦しくならなかった。


電話は、それから十分ほど続いた。


学校の話をした。紗奈と琴音が心配していること。担任が授業のプリントをまとめていること。ひまりが休んでいる間に、教室の後ろの掲示物が新しくなったこと。


『えー、見たい。』


「別に大したものじゃないよ。」


『でも見たいもん。』


「じゃあ、学校来たら見なよ。」


美咲は言ってから、少し慌てた。


「あ、ごめん。急かしてるわけじゃなくて。」


『……ううん。』


ひまりは少し笑った。


『私も、そろそろ行こうかなって思ってた。』


「……そっか。」


『うん。』


「待ってるね。」


美咲は言った。


それから、付け足した。


「でも、無理はしないで。」


『……うん。ありがとう。』


午後九時四十七分。


二人は電話を切った。


美咲はしばらくスマートフォンを見つめていた。


仲直りできたのだろうか。


たぶん、まだ違う。


ひまりは自分の謝罪を聞いてくれた。でも、あの日のことを忘れたわけではないだろう。


自分だって、ひまりの過去を全部受け入れられたわけではなかった。


それでも、今日は話せた。


ひまりが笑ってくれた。


美咲はスマートフォンを置き、ベッドに横になった。


久しぶりに、少しだけ気持ちが軽かった。


翌朝、美咲は紗奈に電話した。


『もしもし? どうしたの、こんな朝から。』


「ごめん、起こした?」


『起きてたよ。』


「昨日ね、ひまりと電話した。」


『……えっ。』


紗奈の声が変わった。


『ほんと?』


「うん。」


『どうだった?』


「……謝った。」


『そっか。』


「ちゃんと謝れたと思う。」


紗奈は少し黙った。


『ひまり、何て?』


「また友達になれるかって。」


『……。』


「私も、なりたいって言った。」


電話の向こうで、紗奈が息を吐いた。


『……よかった。』


「うん。」


『美咲、よかったね。』


その言葉を聞いた途端、美咲の目に涙が浮かんだ。


「……うん。」


紗奈は少し笑った。


『泣いてる?』


「泣いてない。」


『絶対泣いてるじゃん。』


「うるさいなあ。」


二人は笑った。


しばらくして、美咲は言った。


「……ねえ、紗奈。」


『何?』


「私さ、ひまりに謝って、ちょっと楽になったんだ。」


『うん。』


「でも、それっていいのかな。」


『どういうこと?』


「ひまりは、まだ傷ついてるかもしれないのに。私だけ楽になって。」


紗奈は少し考えた。


『……いいんじゃない?』


「え?」


『美咲が楽になったからって、ひまりの傷がなくなるわけじゃないでしょ。』


「……うん。」


『逆に、美咲がずっと苦しんでたら、ひまりの傷が治るの?』


「……治らない。」


『だったら、いいと思う。』


美咲は黙った。


『ただ、謝ったから終わりってわけでもないし。これからどうするかじゃない?』


「……そうだね。」


『うん。』


紗奈は少し明るい声になった。


『とりあえず、琴音にも言ってあげなよ。あの子、ずっと気にしてたし。』


「うん。そうする。」


『あと、美咲。』


「何?」


『今度はちゃんと、ひまりの話も聞いてあげなよ。』


美咲は頷いた。


「……うん。」


電話を切ったあと、美咲は連絡先の一覧を開いた。


少し迷って、一つの名前を探した。


水野紗季。


以前、ひまりの過去について話を聞いた相手だった。


あの日から、一度も連絡を取っていない。


美咲はトーク画面を開いた。


『お久しぶりです。藤沢美咲です。突然すみません』


そこまで打って、指を止めた。


紗季に何を聞きたいのだろう。


ひまりの過去について、もっと知りたいのか。


真琴のことを聞きたいのか。


それとも、自分がひまりにしたことについて、誰かに何かを言ってほしいのか。


美咲はしばらく考えた。


そして、続きを打った。


『前にお話しした夏川ひまりのことで、もう一度お話しできませんか』


送信する。


すぐには既読がつかなかった。


美咲はスマートフォンを置いた。


ひまりと、もう一度友達になりたい。


それは本当だった。


けれど、真琴のことを知らないまま、何もなかったように笑うこともできなかった。


ひまりがしたこと。


自分がしたこと。


その両方を、ちゃんと考えたかった。


昼過ぎ、スマートフォンが震えた。


紗季からだった。


『お久しぶりです』


続けて、もう一通。


『夏川、何かあったんですか?』


美咲は画面を見つめた。


何と答えようか、少し迷った。


それから、ゆっくり文字を打ち始めた。


『私が、ひどいことを言ってしまいました』


送信したあと、美咲はスマートフォンを握ったまま、返事を待った。


今度は、誰かに自分の正しさを認めてほしいわけではなかった。


自分が間違えたことを、ちゃんと話そうと思っていた。

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