第53話 待っている
ひまりが学校を休み始めて、一週間が経った。
最初の三日間は、担任も体調不良だと説明していた。四日目からは理由を言わなくなった。朝のホームルームで「夏川は今日も欠席です」と告げ、それ以上は触れなかった。
教室では、ひまりの噂をする生徒が減っていた。
飽きたのだろう、と榊は言った。
「まあ、本人いないしな。話すこともなくなったんじゃね。」
「……そうかもな。」
遼はひまりの席を見た。
机の横に掛けられていた小さなキーホルダーは、もうなかった。欠席が続くようになってから、担任がひまりの荷物をまとめたらしい。
「夏川、いつ来るんだろうな。」
「さあ。」
「お前も知らないの?」
「まだ分かんないって。」
「そっか。」
榊はそれ以上聞かなかった。
遼はスマートフォンを取り出した。昨夜の通話履歴には、ひまりの名前が残っている。午後九時十二分から、一時間四十七分。
その前の日は二時間十分。その前は一時間二十三分。
ひまりは学校に来なくなってから、毎晩電話をかけてくるようになった。
最初は泣いてばかりだった。美咲の名前を出すと黙り込み、真琴のことを思い出すと何度も謝った。
最近は、少し変わった。
テレビで見た番組の話。昼に食べたものの話。家で何をしていたか。そんな、どうでもいい話が増えた。
昨日は、冷蔵庫に入っていたプリンを家族に食べられたと怒っていた。
『絶対名前書いてたのに!』
「そんなに食いたかったのかよ。」
『限定のやつだったんだよ?』
「知らねえよ。」
『ひどーい。』
ひまりは笑っていた。
電話の向こうで、普通に笑っていた。
遼はそれが嬉しかった。
学校では、あんなふうに笑えなくなっていたから。
昼休み、美咲が遼の席へ来た。
「秋月くん。」
「ん?」
「ひまり、最近どう?」
「前よりは元気そう。」
美咲の顔が少し明るくなった。
「ほんと?」
「ああ。電話でも普通に喋ってる。」
「……そっか。」
美咲は頷いた。
「よかった。」
遼は弁当を開けた。
美咲はまだ立っていた。
「……何かある?」
「うん。」
美咲は少し迷ってから言った。
「ひまりに、謝りたいんだ。」
「……。」
「ずっと考えてた。あのとき言ったこと。」
遼は箸を止めた。
「うん。」
「ひまりが嫌がるの分かってて、わざと言った。だから、ちゃんと謝りたい。」
「……そうか。」
「でも、連絡してもいいのか分かんなくて。」
美咲はスマートフォンを握った。
「秋月くん、ひまりに聞いてもらえないかな。」
「何を?」
「私から連絡してもいいか。」
遼は美咲を見た。
「……自分で送ればいいんじゃないか?」
「そうなんだけど。」
「既読つかないの?」
「送ってない。」
「……。」
「ひまりが今、私の名前も聞きたくないなら、無理に送るのも違うかなって。」
遼は少し考えた。
「……分かった。聞いてみる。」
美咲の表情が緩んだ。
「ありがとう。」
「別に。」
「お願いね。」
美咲は自分の席へ戻っていった。
遼はスマートフォンを見た。
ひまりに聞く。
それだけのことだった。
美咲が謝りたいと言っている。
ひまりが嫌なら断ればいい。話したければ話せばいい。
遼が決めることではなかった。
分かっていた。
それでも、少しだけ気が重かった。
その夜、ひまりから電話がかかってきた。
『もしもしー。』
「おう。」
『秋月くん、今何してた?』
「宿題。」
『えらい。』
「お前もやれよ。」
『やってるもん。』
「ほんとか?」
『ちょっとだけ。』
「だろうな。」
ひまりが笑った。
『今日ね、お母さんがケーキ買ってきてくれたんだ。』
「へえ。」
『でも私、昼にお菓子食べすぎちゃって。』
「何やってんだよ。」
『だって暇なんだもん。』
「……まあ、そうだろうな。」
『学校行ってたときって、意外と忙しかったんだね。』
遼は少し黙った。
「……学校、どうする?」
向こうの声が止まった。
『……まだ、ちょっと。』
「そっか。」
『ごめん。』
「謝んなくていいって。」
『……うん。』
ひまりは少し黙った。
『でも、そろそろ行かなきゃだよね。』
遼は答えなかった。
『授業も進んじゃうし。』
「……プリントとか、持っていこうか。」
『え?』
「先生に聞いてみる。配られたやつ、まとめてもらえるだろ。」
『ほんと?』
「ああ。」
『……ありがとう。』
「別に。」
ひまりは嬉しそうだった。
『秋月くん、優しいね。』
遼は笑った。
「だから普通だって。」
少しして、遼は昼休みのことを思い出した。
「そういや。」
『ん?』
「今日、藤沢が来た。」
向こうが静かになった。
「お前に謝りたいって。」
『……。』
「連絡してもいいか、聞いてほしいってさ。」
ひまりは何も言わなかった。
遼は待った。
『……美咲が?』
「ああ。」
『……そっか。』
「どうする?」
ひまりの呼吸が少し速くなった。
『……分かんない。』
「……。」
『美咲、まだ怒ってるかな。』
「怒ってるっていうより、謝りたいんだろ。」
『……うん。』
「無理に話さなくてもいいけど。」
ひまりは黙った。
『……秋月くん。』
「何?」
『私、美咲と話した方がいいのかな。』
遼はスマートフォンを握り直した。
美咲は謝りたいと言っていた。
ひまりも、以前は美咲と仲直りしたがっていた。
だったら、話した方がいい。
そう思った。
でも。
「……お前が決めることだろ。」
ひまりは少し黙った。
『……そうだよね。』
「ああ。」
『……。』
「嫌なら断ってもいいし。」
『……うん。』
「今すぐ決めなくてもいいんじゃないか。」
『……そっか。』
遼は天井を見た。
間違ったことは言っていない。
ひまりが嫌がるなら、無理に話す必要はない。
それだけだった。
『……でも。』
「ん?」
『美咲、待ってくれてるんだよね。』
「……まあ、そうだな。」
『……。』
「どうした?」
『私、ずっと待ってもらってばっかりだなって。』
遼は黙った。
『美咲にも、秋月くんにも。』
「俺は別に。」
『うん。』
ひまりは小さく笑った。
『秋月くんは、待ってくれるもんね。』
遼は答えなかった。
『……ねえ。』
「何?」
『美咲に、連絡してみようかな。』
胸の奥が、少しだけ重くなった。
「……いいんじゃないか。」
遼は言った。
『うん。』
「話したいんだろ?」
『……うん。』
「だったら、話せばいいだろ。」
『……ありがとう。』
ひまりは少し明るい声になった。
『何て送ろうかな。』
「自分で考えろよ。」
『えー、手伝ってよ。』
「俺、藤沢じゃねえし。」
『それはそう。』
ひまりが笑った。
遼も笑った。
その夜、電話はいつもより早く終わった。
『じゃあ、ちょっとメッセージ送ってみる。』
「ああ。」
『秋月くん、ありがとね。』
「おう。」
『おやすみ。』
「おやすみ。」
通話が切れた。
遼はスマートフォンを置いた。
午後十時三十八分。
いつもなら、まだ電話している時間だった。
ひまりは今、美咲にメッセージを送っているのだろう。
何を書いているのか。
美咲が何と返すのか。
遼には分からなかった。
しばらくして、スマートフォンが震えた。
ひまりからだった。
『送れた!』
遼はすぐに返信した。
『よかったな』
既読がつく。
『うん!』
続けて、もう一通。
『美咲、明日電話できるって』
遼は画面を見た。
よかった。
そう思った。
ひまりが美咲と話せる。
ずっと気にしていたことだった。
これで、少しは学校に戻りやすくなるかもしれない。
遼は返信を打った。
『よかったじゃん』
送信する。
ひまりから笑顔のスタンプが届いた。
遼はスマートフォンを伏せた。
明日は、美咲と電話するらしい。
ということは、明日の夜は自分に電話が来ないかもしれない。
そんなことを考えた。
別に、毎日電話しなければいけないわけではない。
ひまりが元気になれば、それでいい。
美咲と仲直りできるなら、なおさらだ。
遼は宿題の続きを始めた。
十分ほどして、スマートフォンを確認した。
何も届いていなかった。
また机に置いた。
少しして、もう一度確認した。
やはり何もなかった。
遼はシャープペンシルを置いた。
ひまりが美咲と仲直りしたら、どうなるのだろう。
また四人で昼を食べるのだろうか。
放課後も、一緒に帰るのだろうか。
そうなれば、夜に電話する必要もなくなるかもしれない。
遼は椅子にもたれた。
それは、いいことだった。
ずっと、そうなるようにしてきたはずだった。
ひまりが一人にならないように。
学校で笑えるように。
誰かに頼れるように。
だから。
「……何だよ。」
遼は小さく呟いた。
ひまりが元気になろうとしている。
美咲と仲直りしようとしている。
それなのに、自分は何を考えているのだろう。
遼はスマートフォンを手に取った。
ひまりとのトーク画面を開く。
『明日も電話できる?』
そこまで打って、指が止まった。
明日は美咲と電話する。
分かっている。
それでも、送ればひまりは返事をくれるだろう。
美咲との電話が終わったあとでも、少しだけなら話せると言ってくれるかもしれない。
遼は画面を見つめた。
それから、文字を消した。
スマートフォンを置く。
宿題に戻る。
しばらくして、また手に取った。
今度は何も打たなかった。
ただ、ひまりとのトーク画面を開いたまま、しばらく眺めていた。
明日の夜、ひまりから電話が来るかどうか。
それが、気になって仕方なかった。




