第52話 喧嘩のあと
遼が電話をかけたのは、十一時を少し過ぎた頃だった。
いつもなら、ひまりから連絡が来る時間だった。最近は毎晩というわけではなかったが、学校で嫌なことがあった日には、決まって電話がかかってきた。
今日は、かかってこなかった。
美咲と一緒に帰ると言っていた。
そのことを思い出して、遼はスマートフォンを手に取った。
通話ボタンを押す。
呼び出し音が続いた。
十秒。二十秒。
やがて、通話が終了した。
「……寝てんのかな。」
遼はスマートフォンを置いた。
少しして、もう一度手に取った。
『大丈夫?』
送信する。
既読はつかなかった。
翌朝、ひまりは学校に来なかった。
担任が欠席を告げたとき、遼は思わず美咲を見た。美咲は机の上に視線を落としていた。
昼休みになっても、ひまりから返信はなかった。
「夏川、今日休みか。」
榊が弁当を持ってきた。
「うん。」
「風邪?」
「知らない。」
「聞いてないの?」
「返事来ない。」
「珍しいな。」
榊は椅子を引いた。
「まあ、体調悪いなら寝てんじゃね。」
「……そうだな。」
遼は弁当を開けた。
いつもひまりが座っている席は空いていた。
静かだった。
榊がくだらない話をして、遼も適当に返した。いつも通りの昼休みだった。
ただ、誰も遼の弁当を覗き込まなかった。
おかずを一つちょうだい、と言う声もなかった。
遼は少しだけ箸を止めた。
放課後、美咲が遼のところへ来た。
「秋月くん。」
「何?」
「ひまりから連絡来てる?」
遼は顔を上げた。
「来てない。」
「……そっか。」
「昨日、一緒に帰ったんだよね。」
美咲の表情が変わった。
「……うん。」
「何かあった?」
美咲は黙った。
遼はその顔を見た。
「藤沢?」
「……喧嘩した。」
「喧嘩?」
「うん。」
「何で。」
美咲は答えなかった。
遼は少し待った。
「夏川、昨日から連絡つかないんだけど。」
「……ごめん。」
「いや、謝られても。」
思ったより冷たい声が出た。
美咲が俯く。
遼は息を吐いた。
「……何があったの。」
「ひどいこと言った。」
「何を?」
美咲は唇を噛んだ。
「……フラバちゃんって。」
遼は聞き返した。
「何?」
「ひまりに、そう言った。」
「……。」
「喧嘩して、私が。」
遼は美咲を見ていた。
ひまりが発作を起こしたときの姿が浮かんだ。震えながら謝って、何度も息を詰まらせていた姿。
そのことを、美咲も知っている。
「……何でそんなこと言ったの。」
「……。」
「藤沢も、あれ見てただろ。」
「分かってる。」
「分かってて言ったのか?」
「……うん。」
遼は黙った。
美咲の目に涙が浮かんだ。
「ごめん。」
「俺に謝られても。」
「……うん。」
「夏川に言ってよ。」
「言いたい。」
「じゃあ。」
「でも、連絡つかないから。」
美咲はスマートフォンを握った。
「昨日から、何回も送ろうとして。」
「……。」
「でも、何て言えばいいか分かんなくて。」
遼はその手を見た。
「……とりあえず、今はそっとしといた方がいいんじゃない。」
美咲が顔を上げた。
「え?」
「連絡つかないなら、無理に追いかけても。」
「……そう、だよね。」
「うん。」
美咲は頷いた。
「……ありがとう。」
遼は答えなかった。
美咲が教室を出ていく。
遼はスマートフォンを取り出した。
ひまりからの返信は、まだなかった。
その夜、九時半を過ぎた頃。
ひまりからメッセージが届いた。
『ごめんね』
遼はすぐに返信した。
『大丈夫?』
しばらくして。
『うん』
『学校休んでたけど、体調悪い?』
『ちょっと』
『電話できる?』
既読がついた。
返事は来なかった。
遼は画面を見つめた。
いつもなら、ひまりの方から電話したいと言ってくる。
眠れない。
怖い。
声が聞きたい。
そんな言葉が届く。
今日は、何もなかった。
数分後。
『今日はやめとく』
遼は少し驚いた。
『分かった』
送信して、スマートフォンを置いた。
それからすぐに、もう一度手に取った。
『何かあったら言って』
ひまりから返事が来た。
『ありがとう』
それだけだった。
遼はベッドに横になった。
静かだった。
以前は、電話が長すぎて眠くなることもあった。ひまりがなかなか切ってくれなくて、明日も学校だろ、と言ったこともある。
今夜は、時間が余っていた。
遼は動画を見た。
途中で止めた。
ゲームを起動した。
すぐに閉じた。
スマートフォンを裏返して、目を閉じた。
しばらくして、また画面を確認した。
何も届いていなかった。
翌日も、ひまりは欠席した。
昼休み、美咲が遼に話しかけた。
「……ひまり、どう?」
「昨日、連絡来た。」
美咲の顔が上がった。
「ほんと?」
「うん。」
「何て?」
「体調悪いって。」
「……そっか。」
「電話はできないって。」
美咲は俯いた。
「……私のせいだよね。」
遼は答えなかった。
美咲は小さく頷いた。
「……そうだよね。」
「いや。」
遼は少し考えた。
「それは分かんないけど。」
「……。」
「でも、ああいうこと言われたら、普通に傷つくと思う。」
「……うん。」
美咲は何も言わなかった。
遼は少しだけ後悔した。
責めるつもりはなかった。
ただ、ひまりが傷ついたことは事実だった。
「……藤沢。」
「何?」
「夏川、今は誰とも話したくないのかもしれないし。」
「……うん。」
「少し待ってあげたら。」
美咲は頷いた。
「分かった。」
その日の放課後、遼は榊と一緒に帰った。
「夏川、二日連続か。」
「うん。」
「大丈夫なん?」
「連絡は来た。」
「ならよかったじゃん。」
「……まあ。」
榊は少し歩いてから言った。
「お前、最近ずっと夏川と一緒だったもんな。」
「そう?」
「そうだろ。昼も帰りも電話も。」
「電話は毎日じゃないけど。」
「いや、十分多いだろ。」
榊は笑った。
「もう付き合っちゃえば?」
「そういうのじゃないって。」
「はいはい。」
「ほんとに。」
「分かった分かった。」
榊は少し黙った。
「でもさ。」
「何。」
「夏川、藤沢と仲直りできるといいな。」
遼は顔を上げた。
「……何で?」
「何でって。」
榊は不思議そうな顔をした。
「元々仲よかったじゃん。」
「……うん。」
「お前といるのもいいけど、女子の友達もいた方が楽しいだろ。」
「……そうだな。」
榊は頷いた。
「それに、お前も毎日面倒見るの大変だろ。」
遼は笑った。
「別に、面倒見てるつもりないけど。」
「そう?」
「うん。」
「まあ、夏川も元気になったらまた来るだろ。」
遼は答えなかった。
元気になったら。
その言葉が、少し引っかかった。
ひまりが元気になれば、また美咲と仲よくするかもしれない。
紗奈や琴音と一緒に昼を食べるかもしれない。
自分のところへ来なくなるかもしれない。
遼は前を向いた。
別に、それでいいはずだった。
ひまりが元気になるなら。
それが一番いい。
そう思った。
三日目の夜。
ひまりから電話がかかってきた。
遼はすぐに出た。
「もしもし。」
『……秋月くん。』
「夏川。」
『うん。』
「大丈夫?」
『……うん。』
「学校、明日は来られそう?」
少し間があった。
『分かんない。』
「そっか。」
『……ごめんね。』
「何で謝るんだよ。」
『電話、出なくて。』
「別にいいって。」
『……。』
「無理すんなよ。」
ひまりは黙った。
遼はベッドに座り直した。
「……藤沢と何かあったんだって?」
向こうで、小さく息を吸う音がした。
『……うん。』
「聞いた。」
『……そっか。』
「ひどいこと言われたんだね。」
ひまりは答えなかった。
「……夏川?」
『……私も、ひどいことしたから。』
「昔のこと?」
『うん。』
「でも、それと藤沢があんなこと言ったのは別だろ。」
『……。』
「傷ついていい理由にはならないよ。」
ひまりは黙った。
遼は続けた。
「今は学校のこと考えなくていいから。」
『……うん。』
「休みたいなら休んでいいし。」
『……。』
「俺はいるから。」
ひまりの呼吸が少し乱れた。
『……秋月くん。』
「何。」
『……ありがとう。』
「うん。」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
遼はその沈黙が嫌ではなかった。
ひまりが電話の向こうにいる。
それだけで、少し安心した。
『……ねえ。』
「何?」
『私、学校行かなきゃ駄目だよね。』
遼は答えようとした。
行けるなら行った方がいい。
美咲とも、ちゃんと話した方がいい。
そう言うべきだった。
でも。
「……無理しなくていいんじゃない。」
口から出たのは、別の言葉だった。
『……そっか。』
「うん。」
『……じゃあ、もうちょっと休もうかな。』
「いいと思う。」
ひまりは小さく笑った。
『秋月くん、優しいね。』
遼も笑った。
「普通だよ。」
『……ありがとう。』
その夜、電話は一時間以上続いた。
ひまりは途中で少し泣いた。
遼は何度も、大丈夫だよ、と言った。
電話を切る頃には、ひまりの声は少し明るくなっていた。
『……明日も、電話していい?』
「もちろん。」
『……ありがとう。』
「おやすみ。」
『おやすみ。』
通話が終了した。
遼はスマートフォンを置いた。
ひまりは明日も学校を休むかもしれない。
美咲とは、しばらく話せないかもしれない。
それは、よくないことだった。
分かっていた。
それでも。
明日もひまりから電話がかかってくる。
そう思うと、少しだけ嬉しかった。
遼は部屋の電気を消した。
久しぶりに、よく眠れそうだった。




