第51話 フラバちゃん 【追加】
美咲がひまりの笑顔を嫌いだと思った翌日、ひまりはいつも通り美咲に話しかけてきた。
「美咲、おはよー。」
「……おはよう。」
「今日寒くない?」
「寒いね。」
「朝、布団から出られなくてさ。危うく遅刻するところだった。」
「そっか。」
「目覚まし三つかけたのに、全部止めちゃって。」
ひまりは笑った。
美咲も少しだけ笑った。
「それ、意味ないじゃん。」
「でしょー?」
普通だった。
ひまりは昨日のことを気にしていないように見えた。教室で嫌なことを言われて、遼に庇われて、それでも翌朝には笑っている。
美咲はその笑顔を見ていた。
昨日は嫌いだと思った。
でも、目の前で笑われると、やっぱり可愛いと思ってしまう。
それが、嫌だった。
「ねえ、美咲。」
「何?」
「今日の放課後って暇?」
美咲は顔を上げた。
「……何で?」
「久しぶりに、一緒に帰らない?」
心臓が少し跳ねた。
「……いいけど。」
「ほんと?」
「うん。」
「やった。」
ひまりが笑う。
美咲は思わず笑い返した。
何だ。
ちゃんと誘ってくれるじゃん。
そう思った。
その日の授業は、少しだけ気分がよかった。
昼休み、ひまりはいつも通り遼と榊のところへ行った。それでも美咲は、以前ほど気にならなかった。
放課後には一緒に帰れる。
それだけで、少し違った。
六時間目が終わり、美咲は帰り支度を始めた。
琴音が隣へ来る。
「今日、一緒に帰る?」
「ごめん。ひまりと帰る約束してる。」
「え、そうなの?」
「うん。」
「よかったじゃん。」
「……まあね。」
美咲は笑った。
琴音も嬉しそうだった。
「じゃあ、また明日ね。」
「うん。」
紗奈と琴音が教室を出ていく。
美咲は鞄を持って、ひまりの席へ向かった。
「ひまり。」
「あ、美咲。」
「帰ろ。」
ひまりが少し困った顔をした。
「あー……。」
美咲は足を止めた。
「……何?」
「ごめん。」
「え?」
「秋月くんが、ちょっと用事あるから待っててって。」
美咲は黙った。
「……そう。」
「うん。」
「でも、帰る約束してたよね。」
「そうなんだけど。」
ひまりはスマートフォンを見た。
「すぐ終わると思うから、三人で帰らない?」
美咲はひまりを見た。
「……三人?」
「うん。」
「秋月くんと?」
「そう。」
ひまりは笑った。
「美咲も秋月くんと普通に話せるでしょ?」
美咲は答えなかった。
普通に話せる。
もちろん、話せる。
遼のことが嫌いなわけではない。むしろ、ひまりが発作を起こしたときに助けてくれることには感謝している。
でも、そういう話ではなかった。
「……二人で帰りたかったんだけど。」
ひまりの笑顔が止まった。
「え?」
「久しぶりだし。」
「あ……。」
ひまりは少し考えた。
「じゃあ、秋月くんに言ってくる。」
美咲は顔を上げた。
「……いいの?」
「うん。約束してたもんね。」
ひまりはスマートフォンを操作した。
しばらくして、画面に返事が届く。
「あ、いいって。」
「……そっか。」
「じゃあ帰ろ。」
ひまりが鞄を持った。
美咲は少しだけ嬉しくなった。
今度は自分を選んでくれた。
たったそれだけのことだった。
昇降口で靴を履き替え、二人で校門を出た。
「久しぶりだね。」
ひまりが言った。
「そうだね。」
「最近、全然一緒に帰ってなかったもんね。」
「うん。」
「何か懐かしい。」
美咲は笑った。
「大げさじゃない?」
「そう?」
「まだ数か月しか経ってないし。」
「でも、色々あったから。」
ひまりはそう言って、少しだけ俯いた。
美咲は横顔を見た。
「……ひまり。」
「ん?」
「最近、大丈夫?」
「何が?」
「噂のこと。」
「ああ。」
ひまりは笑った。
「大丈夫だよ。」
美咲はその言葉を聞いて、少しだけ眉を寄せた。
「……本当に?」
「うん。」
「昨日も、変なこと言われてたじゃん。」
「まあ、でも。」
ひまりは少し考えた。
「秋月くんが怒ってくれたし。」
美咲は前を向いた。
「……そうだね。」
「榊くんも。」
「うん。」
「二人とも優しいよね。」
「……うん。」
ひまりは笑った。
「私、恵まれてるなあ。」
美咲は何も言わなかった。
しばらく歩いた。
駅前の通りに出ると、夕方の人通りが増えていた。制服姿の高校生が何組も歩いている。
「ねえ、美咲。」
「何?」
「この前、噂のこと否定してくれたでしょ。」
「……うん。」
「本当に嬉しかった。」
美咲はひまりを見た。
「……そう。」
「ありがとう。」
「いいよ、別に。」
「美咲って、やっぱり優しいよね。」
また、その言葉だった。
美咲は小さく息を吐いた。
「……ひまりさ。」
「うん?」
「私のこと、どう思ってる?」
ひまりが目を丸くした。
「え?」
「どう思ってるの。」
「……友達。」
「それだけ?」
「え?」
ひまりは困ったように笑った。
「えっと……大好きな友達?」
美咲の胸が痛んだ。
嬉しかった。
ちゃんと嬉しかった。
なのに、同時に腹が立った。
「……そっか。」
「美咲?」
「じゃあ、何で。」
美咲は足を止めた。
ひまりも止まる。
「何で、いつも秋月くんなの。」
ひまりの表情が変わった。
「……え?」
「私のこと大好きなんでしょ。」
「うん。」
「じゃあ何で、困ったときに私を呼んでくれないの。」
「……。」
「何で、私じゃ駄目なの。」
ひまりは答えなかった。
美咲は続けた。
「昨日だってそう。」
「昨日?」
「教室で変なこと言われたとき。」
「……。」
「私だって、何か言おうとしたんだよ。」
ひまりが顔を上げる。
「……そうなの?」
「うん。」
「ありがとう。」
美咲は唇を噛んだ。
「だから、ありがとうじゃなくて。」
「……。」
「私だって、ひまりの味方なんだよ。」
ひまりは黙った。
「それなのに、ひまりはいつも秋月くんのところに行く。」
「……。」
「私には何も話してくれない。」
「美咲。」
「昔のことも、発作のことも。」
ひまりの顔色が変わった。
「……ごめん。」
「また謝る。」
「……。」
「何で謝るの。」
「だって。」
「私、謝ってほしいわけじゃないんだよ。」
美咲の声が震えた。
ひまりは俯いた。
「……分かってる。」
「分かってないよ。」
「……。」
「分かってたら、こんなことになってない。」
ひまりは何も言わなかった。
美咲は少しだけ息を整えた。
こんな話をするつもりではなかった。
今日は、ただ一緒に帰りたかった。
久しぶりに二人で話して、笑って、少しずつ元に戻れればよかった。
なのに。
「……私、ひまりのこと好きだったんだよ。」
ひまりが顔を上げた。
「……うん。」
「すごく好きだった。」
「……。」
「今も、好きだよ。」
ひまりの目が揺れた。
「……美咲。」
「でも、もう疲れた。」
美咲は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「ひまりのこと心配して、何かあったら助けようとして。でも、ひまりは私には何も言ってくれなくて。」
「……。」
「私が聞いたら嫌がるのに、秋月くんには話すんでしょ。」
ひまりは黙った。
「そうなんでしょ?」
「……うん。」
その返事が、思った以上に痛かった。
美咲は俯いた。
「……何で。」
ひまりが小さく言った。
「秋月くんには、話しやすいの。」
「……。」
「美咲には、嫌われたくないから。」
美咲は顔を上げた。
「……え?」
「美咲に知られたら、嫌われると思った。」
「……。」
「だから、言えなかった。」
ひまりは目を伏せた。
「秋月くんは、私のこと知らないから。」
美咲は黙った。
「昔の私のことも、真琴のことも。」
「でも、今は知ってるじゃん。」
「……うん。」
「それでも秋月くんがいいんでしょ。」
ひまりは答えなかった。
その沈黙が答えだった。
「……そっか。」
美咲は笑った。
今度は、ちゃんと笑えた。
「私じゃ駄目なんだ。」
「違う。」
「何が違うの。」
「美咲が嫌なわけじゃない。」
「じゃあ何?」
ひまりは言葉に詰まった。
美咲は待った。
ひまりは何度か口を開きかけた。
それでも、何も言わなかった。
「……もういい。」
美咲は言った。
「ごめん。」
ひまりが答える。
美咲は顔を上げた。
「だから。」
声が強くなった。
「何でいつも謝るの。」
「……。」
「謝って、笑って、また秋月くんのところに行くんでしょ。」
「そんなこと。」
「違う?」
ひまりは黙った。
美咲の胸の奥で、何かが切れた。
「何でいつもそうなの。」
「……。」
「私たちが悪いみたいじゃん。」
「違う。」
「じゃあ何?」
ひまりの目に涙が浮かんだ。
美咲はそれを見た。
まただ。
そう思った。
ひまりが泣きそうになる。
自分が悪いことをしたみたいになる。
誰かがひまりを守りに来る。
そして、自分だけが取り残される。
「……また泣くの?」
ひまりの顔が強張った。
「美咲。」
「そうやって、また秋月くん呼ぶんでしょ。」
「……違う。」
「じゃあ、呼ばないでよ。」
ひまりは何も言わなかった。
「今は私と話してるんだから。」
「……うん。」
「私から逃げないでよ。」
ひまりは俯いた。
肩が小さく震え始めた。
美咲はそれを見ていた。
昔、ひまりが発作を起こしたときのことを思い出した。
ひまりが震えて、呼吸が乱れて、何度も謝っていた。
自分が真っ先に駆け寄った。
でも、ひまりが呼んだのは遼だった。
あのとき、ひまりは自分を見ていなかった。
今も、見ていない。
「……もういいよ。」
美咲は言った。
ひまりが顔を上げる。
「美咲……。」
「もういい。」
そして。
「フラバちゃん。」
言ってしまった。
ひまりの表情が消えた。
美咲も動かなかった。
周囲の音が遠くなった気がした。
今、自分が何を言ったのか。
分かっていた。
分かっていたから、何も言えなかった。
ひまりの唇が小さく動いた。
「……え?」
美咲は口を開いた。
謝らなければ。
今すぐ。
そんなつもりじゃなかった。
そう言わなければ。
でも、声が出なかった。
ひまりは美咲を見ていた。
泣いていなかった。
ただ、目を大きく開いていた。
「……美咲。」
名前を呼ばれた。
美咲は何も言えなかった。
ひまりが一歩下がった。
「……そっか。」
小さな声だった。
「そう、だよね。」
「……ひまり。」
「ごめん。」
ひまりは笑おうとした。
口元だけが、少し動いた。
「私、帰るね。」
美咲は手を伸ばしかけた。
ひまりはもう歩き出していた。
「待って。」
声が出た。
ひまりは止まらなかった。
「ひまり。」
振り返らない。
「……ごめん。」
その声が届いたのかは、分からなかった。
美咲は一人で立っていた。
周囲には、いつも通り人が歩いていた。
誰も二人を見ていなかった。
美咲はスマートフォンを取り出した。
ひまりとのトーク画面を開く。
最後のやり取りは、昨日だった。
『明日一緒に帰らない?』
『いいよー!』
美咲は画面を見つめた。
文字を打つ。
『ごめん』
消した。
『さっきのは違う』
それも消した。
何が違うのだろう。
自分は、ひまりを傷つけようとして言った。
少なくとも、あの瞬間は。
ひまりが傷つくと分かっていて、あの名前で呼んだ。
美咲はスマートフォンを握った。
ずっと守りたかった。
笑っていてほしかった。
自分の隣で笑っていてほしかった。
その笑顔を、今、自分が消した。
美咲はトーク画面を閉じた。
駅前の信号が青に変わる。
人が動き出す。
美咲はしばらく動けなかった。
ひまりから連絡が来るかもしれないと思った。
いつものように。
何もなかったみたいに。
『美咲、ごめんね』
そんなメッセージが来たら、今度こそちゃんと謝ろうと思った。
けれど、スマートフォンは鳴らなかった。
その夜、ひまりは遼に電話をかけなかった。
遼からの着信にも、出なかった。




