第50話 味方 【追加】
ひまりについての噂が広まってから、教室の空気は少しずつ変わっていった。
誰かが露骨に無視するわけではなかった。授業中にひまりが発言すれば、周囲は普通に反応した。休み時間には話しかける生徒もいたし、ひまりが冗談を言えば笑いも起きた。ただ、ひまりがいなくなったあとにだけ、声が少し小さくなった。
「でもさ、実際どうなの?」
「何が?」
「夏川のこと。あれ本当なんでしょ?」
「知らない。」
「藤沢は知ってるんじゃない?」
美咲は顔を上げた。
「何?」
「夏川って、前の学校で人死なせたって。」
「……それ、違うから。」
思ったより強い声が出た。
相手が驚いたように目を丸くする。
「え、でもいじめてたんでしょ?」
「それと自殺の原因は別でしょ。」
「いや、そうかもしれないけど。」
「だったら、そんな言い方しないで。」
相手は少し不満そうに唇を尖らせた。
「別に私が言い出したわけじゃないし。」
「誰が言い出したかなんて関係ないじゃん。」
「……分かったよ。」
会話が終わる。
美咲は机に視線を戻した。胸がざわついていた。ひまりが昔いじめをしていたことは事実なのだろう。少なくとも、紗季の話とひまり自身の言葉は一致していた。だからといって、真琴を自殺させたと決めつけていいはずがない。
そんなことは、最初から分かっていた。
「美咲。」
紗奈が隣へ来た。
「今の、よかったと思う。」
「何が。」
「ちゃんと否定したこと。」
「……別に。」
「噂、結構ひどくなってるから。」
美咲は頷いた。
「知ってる。」
「先生に相談した方がいいかもね。」
「うん。」
紗奈は少し迷ってから言った。
「ひまりにも、何かできないかな。」
美咲は顔を上げた。
「何かって?」
「一人にしないとか。」
「秋月くんがいるじゃん。」
「そうだけど。」
「榊くんもいるし。」
紗奈は黙った。
美咲はその顔を見て、少しだけ後悔した。
「……分かってるよ。」
「うん。」
「ひまりがつらいのは。」
それだけ言って、美咲は教科書を開いた。
放課後、ひまりは教室に残っていた。
窓際の席で、スマートフォンを見ている。遼は先生に呼ばれて職員室へ行ったらしく、榊も部活でいなかった。
美咲は教室の入口で足を止めた。
今なら話せる。
そう思った。
「ひまり。」
呼ぶと、ひまりが顔を上げた。
「あ、美咲。」
笑った。
それだけで、胸が少し痛くなった。
「まだ帰らないの?」
「秋月くん待ってる。」
「そっか。」
「美咲は?」
「帰るところ。」
「琴音たちは?」
「先に帰った。」
「そっか。」
会話が途切れた。
美咲は近くの椅子を引いた。
「ちょっと座っていい?」
「うん。」
向かいに座る。
ひまりはスマートフォンを伏せた。
「……何?」
「噂のこと。」
ひまりの表情が少しだけ変わった。
「うん。」
「今日、変なこと言ってる子がいたから。」
「……。」
「違うって言った。」
ひまりは美咲を見た。
「何が?」
「ひまりが真琴を自殺させたって。」
笑顔が消えた。
美咲は続けた。
「そんなの分からないでしょって。勝手に決めつけないでって言った。」
ひまりはしばらく黙っていた。
「……ありがとう。」
「うん。」
「美咲、優しいね。」
美咲はその言葉が嫌だった。
優しい。
そんなことを言ってほしかったわけではない。
「普通のことだよ。」
「うん。」
「ひまりだって、言い返していいんだよ。」
「……何を?」
「違うことは違うって。」
ひまりは俯いた。
「でも。」
「でも?」
「いじめてたのは本当だから。」
「それは分かってる。」
「……。」
「でも、だからって何言われてもいいわけじゃないでしょ。」
ひまりは黙った。
美咲は机の上で手を組んだ。
「ひまり。」
「うん。」
「私、まだ全部許せたわけじゃないよ。」
ひまりが小さく頷く。
「うん。」
「でも、ひまりが傷ついていいとは思ってない。」
その言葉を口にすると、少しだけ楽になった。
美咲は続けた。
「だから、何かあったら言って。」
ひまりが顔を上げた。
「……美咲に?」
「うん。」
「いいの?」
「いいよ。」
「……。」
「私たち、友達でしょ。」
ひまりの目が揺れた。
美咲はその顔を見ていた。
今度こそ、何か変わるかもしれないと思った。
ひまりが少しだけ笑った。
「……ありがとう。」
「うん。」
「でも、大丈夫だよ。」
美咲は黙った。
ひまりは笑顔を作り直した。
「秋月くんもいるし。」
胸の奥が冷えた。
それでも、美咲は笑った。
「……そっか。」
「うん。」
「なら、よかった。」
教室の扉が開いた。
「夏川。」
遼だった。
「待たせた。」
「あ、秋月くん。」
ひまりの顔が明るくなった。
「遅い!」
「先生の話長かったんだよ。」
「もう帰ろ。」
「分かったって。」
ひまりが立ち上がる。
鞄を持って、美咲を見る。
「じゃあ、美咲。また明日。」
「うん。」
「今日はありがとう。」
「……うん。」
ひまりは遼のところへ駆け寄った。
二人が教室を出ていく。
美咲はその背中を見送った。
別に、ひまりが遼と帰ることが嫌なわけではなかった。
待ち合わせをしていたのだから、帰るのは当然だ。
ただ、ひまりが自分と話していたときよりも、ずっと自然に笑っているように見えた。
それが、少しだけ悲しかった。
廊下を歩きながら、ひまりは遼の袖を掴んだ。
「ねえ。」
「何。」
「今日、美咲が話しかけてくれた。」
「へえ。」
「噂のこと。」
「うん。」
「変なこと言ってる子に、違うって言ってくれたんだって。」
「よかったじゃん。」
「うん。」
ひまりは頷いた。
「……よかった。」
遼は横を見る。
ひまりは笑っていた。
けれど、袖を掴む指に力が入っていた。
「夏川。」
「ん?」
「美咲と仲直りしたの?」
「……分かんない。」
「そっか。」
「でも、友達だって言ってくれた。」
「うん。」
「嬉しかった。」
ひまりは少し黙った。
「……でも。」
「何。」
「怖かった。」
遼は足を緩めた。
「何が。」
「美咲、優しいから。」
「……。」
「私が何したか知ってるのに、まだ友達だって言ってくれるから。」
ひまりは袖を離した。
「だから、余計に怖い。」
「何で。」
「また傷つけるかもしれない。」
遼は答えなかった。
「私、真琴にも最初は優しかったんだよ。」
初めて、ひまりの方からその名前を口にした。
「普通に仲よかった。毎日一緒にいたし、何でも話してた。」
「うん。」
「でも、嫌なことされて。」
ひまりは前を向いた。
「許せなくて。」
「……。」
「そのうち、真琴がいない方が楽しくなっちゃった。」
遼は歩きながら聞いていた。
「私が何もしなくても、みんな私の方に来た。」
「……。」
「真琴が話しかけてきても、誰も返事しなくなって。」
声が小さくなった。
「最初は、そんなつもりじゃなかったの。」
遼は何も言わなかった。
「でも途中から、分かってた。」
ひまりは笑った。
ひどく不自然な笑顔だった。
「真琴が一人なの、分かってた。」
遼は足を止めた。
ひまりも止まる。
「……それで?」
「何もしなかった。」
風が吹いた。
ひまりの髪が揺れた。
「私が普通に話しかければ、たぶんみんなも話したと思う。」
「……。」
「でも、しなかった。」
ひまりは俯いた。
「楽しかったから。」
遼はその言葉を聞いた。
何も言えなかった。
「私が笑うと、みんな笑ってくれた。」
ひまりは続けた。
「真琴がいなくても、毎日楽しかった。」
少しだけ声が震えた。
「……だから。」
ひまりは口を閉じた。
遼は待った。
「だから、私が悪いんだよ。」
遼はようやく口を開いた。
「悪かったことは、あると思う。」
ひまりが顔を上げた。
「……うん。」
「でも、それと真琴が死んだことは、同じじゃないだろ。」
「……。」
「そこまで全部、自分のせいにしなくていい。」
ひまりは黙った。
遼は続けた。
「美咲も、そう思ってるんじゃない。」
ひまりの目が揺れた。
「……美咲。」
「うん。」
「優しいよね。」
「そうだな。」
ひまりは少し笑った。
「……私、美咲にちゃんと話した方がいいのかな。」
遼は答えるまでに少し時間がかかった。
「話したいなら、話せばいいと思う。」
「……。」
「無理して話すことでもないし。」
「うん。」
ひまりは頷いた。
「秋月くんには、話せるのにね。」
遼はひまりを見る。
ひまりは笑った。
「何でだろ。」
その言葉が、胸の奥に残った。
嬉しかった。
そう思ったことを、遼は誰にも言わなかった。
翌日の昼休み。
美咲は紗奈と琴音に、昨日のことを話した。
「ひまりと話したんだ。」
「どうだった?」
琴音が聞く。
「普通に話せた。」
「よかったじゃん。」
「うん。」
美咲は少し笑った。
「噂のことも、違うって言った。」
「ひまり、何て?」
「ありがとうって。」
「そっか。」
紗奈が頷いた。
「よかったね。」
「……うん。」
美咲は弁当を開けた。
少しだけ、前に進めた気がした。
そのとき、教室の後ろで笑い声が起きた。
「夏川ってさ。」
男子の声だった。
「何でそんなに笑ってんの?」
美咲が顔を上げる。
ひまりは遼の隣で弁当を食べていた。
「え?」
「いや、いつも笑ってるじゃん。」
「楽しいから?」
「へえ。」
男子が笑った。
「前の学校でも、そんな感じだったの?」
ひまりの手が止まった。
遼が顔を上げる。
「お前、何が言いたいの。」
「別に。」
「じゃあ黙ってろよ。」
「何で秋月がキレんの?」
「キレてない。」
「いや、キレてんじゃん。」
男子が笑った。
「夏川に何か言うと、秋月が飛んでくるんだな。」
榊が口を開いた。
「お前もうやめとけって。」
「冗談だろ。」
「面白くねえよ。」
男子は肩をすくめた。
「はいはい。」
それで終わるはずだった。
けれど、別の男子が笑いながら言った。
「でも、夏川って便利だよな。」
「何が?」
「何かあったら泣けば秋月が守ってくれるし。」
ひまりは俯いた。
美咲は立ち上がりかけた。
やめなよ。
そう言おうとした。
けれど、その前に遼が立ち上がった。
「いい加減にしろよ。」
声が教室に響いた。
男子が黙る。
遼はひまりの前に立った。
「本人の前でそんなこと言って、何が面白いんだよ。」
「……いや。」
「冗談で済むと思ってんの?」
ひまりが遼の袖を掴んだ。
「秋月くん。」
「……。」
「いいから。」
遼は振り返った。
ひまりは笑っていた。
「大丈夫。」
美咲はその光景を見ていた。
昨日、自分がひまりに言ったことを思い出す。
何かあったら言って。
友達でしょ。
ひまりは嬉しいと言ってくれた。
それなのに。
また、遼だった。
美咲はゆっくり座った。
「……美咲?」
琴音が呼んだ。
「何でもない。」
美咲は弁当を見た。
ひまりが悪いわけではない。
遼が悪いわけでもない。
それは分かっていた。
分かっていたから、余計に苦しかった。
自分も、ひまりを守りたかった。
今でも守りたいと思っている。
けれど、ひまりが怖がったとき、真っ先に名前を呼ぶのは自分ではない。
美咲は箸を置いた。
「……ずるい。」
小さく呟いた。
「え?」
琴音が聞き返す。
「何でもない。」
美咲は笑った。
教室の向こうでは、ひまりが遼に何か言っていた。
遼が頷く。
ひまりが笑う。
その笑顔を見て、美咲は初めて思った。
あの笑顔が、嫌いだ




