第49話 広まる
最初に話が漏れたのは、木曜日の放課後だった。
「ねえ、琴音。」
帰り支度をしていた琴音が振り返ると、同じクラスの女子が立っていた。
「何?」
「最近、美咲とひまりって仲悪いの?」
「……何で?」
「いや、前はずっと一緒だったじゃん。最近全然喋ってないし。」
「普通に喋ってるよ。」
「でも昼とか別々じゃん。」
「それは前からでしょ。」
「美咲が避けてるの?」
琴音は鞄のファスナーを閉めた。
「違うよ。」
「じゃあひまり?」
「どっちでもないって。」
「えー、でも何かあったでしょ。」
琴音は少し迷った。
ひまりの過去について、美咲たち三人で話してから一か月以上が経っていた。あの日、美咲が泣きそうな顔で話していたことを、琴音はまだ覚えている。
真琴という女の子が死んだこと。ひまりが、その子をいじめていたこと。美咲が何度聞いても、ひまりは自分の口から話してくれなかったこと。
美咲は今も、ひまりを無視しているわけではない。朝は挨拶するし、話しかけられれば答える。四人で遊んだことだってあった。
それでも以前のように仲よくできないのは、美咲にだって理由があるからだった。
「……美咲が悪いわけじゃないよ。」
琴音は言った。
「え?」
「ひまりにも、色々あったんだって。」
「何が?」
「前の学校で。」
相手の表情が変わった。
「前の学校?」
「うん。」
「転校してきた理由?」
「そこまでは知らない。」
「何があったの?」
「……言えない。」
「えー、何それ。」
「ほんとに言えないから。」
琴音は笑ってごまかそうとした。
けれど相手は引かなかった。
「いじめとか?」
琴音は答えなかった。
「え、マジ?」
「……。」
「ひまり、いじめられてたの?」
「違う。」
反射的に答えてしまった。
相手が目を丸くする。
「違うって?」
琴音は口を閉じた。
もう遅かった。
「……ごめん。今の忘れて。」
「え、ひまりがいじめてたってこと?」
「まだ全部分かってるわけじゃないから。」
「そうなの?」
「だから、誰にも言わないで。」
相手はしばらく琴音を見ていた。
「……分かった。」
琴音は少し安心した。
翌日、その女子生徒は友達に話した。
「これ、絶対誰にも言わないでほしいんだけど。」
月曜日には、ひまりが前の学校でいじめをしていたという話が、クラスの一部に広まっていた。
火曜日には、亡くなった生徒がいたという話が加わった。
水曜日には、二つの話が一つになった。
「夏川って、前の学校でいじめてた子が自殺したらしいよ。」
誰も、はっきりした事情は知らなかった。
最初に聞いた生徒ですら、真琴という名前を知らない。いつ、どこで、何があったのかも分からない。ただ、ひまりがいじめをしていたことと、誰かが自殺したことだけが、何度も繰り返された。
そして、いつの間にか。
「夏川が自殺に追い込んだんだって。」
そういう話になっていた。
美咲が噂を知ったのは、その日の昼休みだった。
「ねえ、藤沢。」
隣の席の女子が声をかけてきた。
「何?」
「夏川の話って本当?」
美咲は顔を上げた。
「何の?」
「前の学校で、人死んだって。」
箸が止まった。
「……誰から聞いたの?」
「結構みんな知ってるよ。」
「何を?」
「いじめてた子が自殺したんでしょ?」
美咲は相手を見た。
「……それ、誰が言ったの。」
「だから、みんな。」
「誰。」
「え、怖いんだけど。」
相手が笑う。
「そんな怒らなくてもよくない?」
「怒ってない。」
「でも本当なんでしょ?」
美咲は答えなかった。
それが肯定だと受け取られたことに、すぐには気付かなかった。
「……やっぱり。」
相手は小さく呟いた。
「だから最近一緒にいないんだ。」
「違う。」
「え?」
「それだけじゃないから。」
美咲は言いかけて、やめた。
何を説明すればいいのだろう。
ひまりと美咲の間に何があったのか。真琴とひまりの間に何があったのか。紗季が何を見て、何を見なかったのか。
自分だって、全部を知っているわけではない。
「……とにかく、変なこと言わないで。」
「変なことって?」
「ひまりが自殺させたとか。」
「でも、いじめてたんでしょ?」
美咲は黙った。
相手はそれ以上聞かなかった。
放課後、美咲は琴音を問い詰めた。
「誰かに話した?」
琴音の顔が変わった。
「……何を?」
「ひまりのこと。」
「……。」
「琴音。」
「ごめん。」
紗奈が二人を見る。
「話したの?」
「一人だけ。」
「何で?」
「美咲がひまりを避けてるって言われて。」
琴音は俯いた。
「美咲が悪いみたいに言われたから、違うって言いたかったの。」
「だからって。」
紗奈の声が強くなった。
「ひまりの過去を勝手に話していいわけないじゃん。」
「分かってるよ。」
「分かってないでしょ。噂になってるんだよ。」
「……ごめん。」
美咲は二人の会話を聞いていた。
琴音が自分を庇おうとしたことは分かった。
でも、ひまりの過去を他人へ話してしまった。
それがどういうことなのか、美咲にはまだうまく考えられなかった。
「……ひまり、知ってるかな。」
美咲が呟いた。
紗奈は答えなかった。
翌朝、ひまりはいつも通り教室へ入ってきた。
「おはよー。」
何人かが返事をした。
琴音も、紗奈も、美咲も。
ひまりは自分の席へ向かう。
何も変わっていないように見えた。
ただ、休み時間に近くの女子へ話しかけると、相手が一瞬だけ困った顔をした。
「ねえ、昨日の数学の宿題ってさ。」
「……あ、うん。」
「最後の問題、何になった?」
「分かんない。」
「えー、そっか。」
ひまりは笑った。
相手も笑った。
それだけだった。
昼休み。
ひまりは弁当を持って遼の席へ行った。
「秋月くん、今日何?」
「何が。」
「おかず。」
「見れば分かるだろ。」
「見せて。」
「嫌だ。」
「一個ちょうだい。」
「毎日それじゃん。」
榊が笑う。
「秋月、もう自分の弁当作ってもらうとき夏川の好きなもん入れてもらえよ。」
「それいいね。」
「よくないだろ。」
ひまりが笑った。
そのとき、後ろから声が聞こえた。
「……でも、普通に怖くない?」
ひまりは気にしなかった。
「分かる。あんな明るいのに。」
「逆にそういう子の方が怖いんじゃない?」
箸が止まった。
「何かさ、いじめてた子が死んだんでしょ?」
ひまりは動かなかった。
遼が顔を上げる。
「……夏川?」
「ん?」
「どうした。」
「何でもない。」
ひまりは笑った。
けれど、後ろの会話は続いていた。
「転校したのもそれが理由なのかな。」
「知らない。でも自殺に追い込んだって。」
遼が振り返った。
「おい。」
声は大きくなかった。
それでも、後ろの二人が止まった。
「何?」
「今の、誰の話?」
「……別に。」
「夏川のこと?」
二人は顔を見合わせた。
「いや、聞いただけだし。」
「誰から。」
「みんな言ってるじゃん。」
「だから誰から聞いたんだよ。」
遼の声が少し強くなる。
ひまりが袖を掴んだ。
「秋月くん。」
「何。」
「いいよ。」
「よくないだろ。」
「いいから。」
ひまりは笑っていた。
「ご飯食べよ。」
榊も後ろを振り返っていた。
「いや、さすがにそれは駄目だろ。」
いつもなら冗談で済ませる榊が、真顔だった。
「本人の前で言うことじゃねえじゃん。」
女子の一人が目を伏せた。
「……ごめん。」
ひまりは頷いた。
「うん。」
それだけだった。
遼はまだ何か言いたそうだったが、ひまりが袖を離さなかった。
「秋月くん。」
「……何。」
「食べよ。」
ひまりは笑った。
遼はしばらくその顔を見ていた。
昼休みが終わる頃、美咲はひまりが教室を出ていくのを見た。
いつもなら遼と一緒だった。
今日は一人だった。
美咲は立ち上がった。
「美咲?」
琴音が呼ぶ。
「ちょっと行ってくる。」
廊下へ出る。
ひまりは階段の方へ歩いていた。
「ひまり。」
呼ぶと、足が止まった。
振り返る。
「……美咲。」
笑っていた。
いつも通りの顔だった。
「何?」
「ちょっと話せる?」
「うん。」
美咲は近づいた。
「……噂、聞いた?」
ひまりの笑顔が少しだけ固まった。
「何の?」
「前の学校の。」
「……ああ。」
ひまりは小さく頷いた。
「聞いたよ。」
「ごめん。」
美咲は言った。
ひまりが顔を上げる。
「……何で美咲が謝るの?」
「私が琴音たちに話したから。」
「……。」
「そこから、誰かに伝わったみたいで。」
ひまりはしばらく美咲を見ていた。
「……そっか。」
「ごめん。」
「いいよ。」
「でも、噂になってること、全部本当ってわけじゃないから。」
「……うん。」
「ひまりが自殺させたとか、そんなの分からないし。」
ひまりの目が揺れた。
「……美咲。」
「何?」
「私がいじめてたのは、本当だよ。」
美咲は黙った。
ひまりは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「だから、いいんだよ。」
「よくないでしょ。」
「……。」
「本当じゃないことまで言われていいわけないじゃん。」
ひまりは美咲を見た。
少しだけ、泣きそうな顔になった。
「……美咲。」
「うん。」
「私のこと、嫌い?」
美咲は答えられなかった。
嫌いではない。
それは分かっていた。
でも、好きだと答えるには、まだ苦しかった。
「……今、それ聞く?」
ひまりの表情が変わった。
「ごめん。」
「そういうことじゃなくて。」
「うん。」
「私だって、どうしたらいいか分かんないんだよ。」
美咲の声が震えた。
「ひまりが昔何したか知って、それでも普通にしようとして。でもひまりは何も話してくれなくて。」
「……。」
「なのに今度は、私がひまりを傷つけたみたいになって。」
「そんなこと思ってない。」
「じゃあ何で、そんな顔するの。」
ひまりは答えなかった。
美咲も黙った。
廊下の向こうで、誰かが笑っていた。
「……もういい。」
美咲が言った。
「ごめん。」
ひまりが言う。
「謝らなくていい。」
「でも。」
「謝らなくていいって。」
思ったより強い声が出た。
ひまりの肩が跳ねた。
美咲はすぐに後悔した。
「……ごめん。」
今度は美咲が謝った。
ひまりは首を振った。
「ううん。」
それから笑った。
「私、教室戻るね。」
「……うん。」
ひまりは歩き出した。
美咲はその背中を見ていた。
途中で、ひまりが一度だけ振り返った。
何か言いたそうだった。
美咲は待った。
けれど、ひまりは何も言わなかった。
小さく手を振って、角を曲がった。
美咲はその場に立ち尽くした。
嫌いじゃない。
まだ、嫌いじゃない。
そう思った。
でも、どうしてだろう。
ひまりが泣きそうな顔をするたびに、自分が悪いことをしているような気がした。
ひまりを傷つけたのは自分なのか。
それとも、自分はずっと傷つけられていたのか。
分からなかった。
ただ、一つだけ。
あの子は、いつも誰かに守られている。
そんな考えが浮かんでしまった。
美咲はそれを打ち消そうとした。
けれど、できなかった。




