第47話 美咲と
それから一週間が過ぎた。
昼休みの教室は、すっかり二つに分かれていた。美咲と紗奈と琴音。遼と榊とひまり。最初の頃は誰かが「今日はそっちなんだ」と言ったり、ひまりが「明日は美咲たちと食べるかも」と言ったりしていたが、そういう会話もなくなった。昼休みのチャイムが鳴れば、それぞれが弁当を出して、それぞれの場所へ行く。それだけだった。
「冬休み、どっか行く?」
琴音が聞いた。
「まだ何も決めてない。」
美咲が答える。
「紗奈は?」
「家族で実家行くかも。二十八とか二十九なら空いてる。」
「じゃあその辺で遊ぼうよ。」
「いいよ。」
三人の会話が聞こえた。ひまりは聞いていないふりをして、弁当箱の蓋を開けた。
「夏川、冬休み何すんの。」
榊が聞く。
「んー。特にない。」
「じゃあ暇じゃん。」
「暇じゃないし。」
「何すんの。」
「寝る。」
「暇じゃん。」
「忙しいよ。いっぱい寝なきゃいけないから。」
「それを暇って言うんだよ。」
ひまりが笑う。遼は横でペットボトルの蓋を開けながら聞いていた。
「秋月くんは?」
「俺?」
「冬休み。」
「別に。家いるんじゃない。」
「榊くんと遊ばないの?」
「何で俺と秋月が冬休みに遊ばなきゃいけないんだよ。」
「仲悪いの?」
「学校で毎日会ってんだから十分だろ。」
「男子ってそんな感じなんだ。」
「知らん。秋月は?」
「俺に聞くなよ。」
そんな話をしているうちに、向こうから琴音の笑い声が聞こえた。ひまりは一度だけそちらを見る。美咲がスマートフォンを持っていて、紗奈がその画面を覗き込んでいた。
「じゃあ二十八にする?」
「私は大丈夫。」
「美咲も?」
「うん。」
ひまりは箸を止めた。
声をかければいいだけだった。
何するの、と聞けばいい。私も行っていい、と言えば、たぶん琴音はいいよと言う。紗奈も断らないと思う。美咲だって、来るなとは言わないはずだった。
でも、言えなかった。
「夏川。」
「ん?」
「唐揚げ落ちるぞ。」
遼に言われて、ひまりは自分の箸を見る。つまんだ唐揚げが斜めになっていた。
「あぶな。」
「何見てたの。」
「別に。」
唐揚げを口に入れる。
向こうでは、もう別の話になっていた。
その日の放課後、ひまりは美咲と二人きりになった。
偶然だった。紗奈は部活、琴音は先生に呼ばれ、榊はさっさと帰った。遼は購買へ行っていて、教室には数人しか残っていなかった。美咲が鞄を持って立ち上がる。その横を通るとき、ひまりが声をかけた。
「美咲。」
「何?」
「今日、一緒に帰らない?」
美咲が止まった。
「……いいけど。」
「ほんと?」
「うん。」
ひまりは少し笑った。
「じゃあ帰ろ。」
二人で教室を出た。廊下を歩き、階段を下りる。前なら黙っていても気にならなかったのに、今日は何か話さなければいけない気がした。
「今日寒くない?」
「十二月だし。」
「明日雪降るかもって。」
「降らないでしょ。」
「でも天気予報で言ってたよ。」
「どうせ雨じゃない?」
「夢ないなあ。」
「雪に夢見てる方がおかしいでしょ。」
ひまりが笑う。
美咲も少しだけ笑った。
それだけで、ひまりは嬉しくなった。
校門を出て、駅へ向かう。いつも通っていた道だった。少し前まで何度も二人で歩いた道で、話すことなんて探さなくてもいくらでもあった。
「ねえ。」
「ん?」
「二十八日、どっか行くの?」
美咲の足がほんの少し遅くなった。
「聞いてたんだ。」
「聞こえただけ。」
「琴音が買い物行きたいって。」
「三人で?」
「うん。」
「そっか。」
ひまりは前を向いた。
「……私も行っていい?」
美咲はすぐには答えなかった。
「別にいいけど。」
「ほんと?」
「琴音に聞いてみれば。」
「美咲は?」
「私は別に。」
またそれだった。
ひまりは笑おうとして、やめた。
「美咲って最近、そればっかりだね。」
「何が。」
「別に、って。」
「だって別にいいから。」
「来てほしくないなら、そう言えばいいじゃん。」
美咲がひまりを見る。
「何でそうなるの?」
「だって。」
「来たいなら来ればいいじゃん。私、来るななんて言ってないよ。」
「そうだけど。」
「前もそうだったじゃん。」
「前?」
「ひまりが秋月くんたちのところで食べるようになったとき。」
ひまりは黙った。
「私、一回も行くなって言ってないよね。」
「うん。」
「好きなところで食べればって言っただけ。」
「……うん。」
「なのに今度は、私たちが三人でいると嫌なの?」
「嫌って言ってない。」
「じゃあ何?」
声は荒くなかった。
美咲は怒鳴ってもいない。ただ、本当に分からないという顔をしていた。
「私、ひまりが秋月くんといるの嫌だったよ。」
「……。」
「でも我慢した。」
「美咲。」
「毎晩電話してるって知ったときも嫌だったし、私が最初に助けに行ったのに秋月くん呼ばれたときも嫌だった。それでも、ひまりが秋月くんと話すなとか、一緒にいるなとか言ってないじゃん。」
「うん。」
「だったら私が紗奈と琴音と一緒にいてもいいでしょ。」
「いいよ。」
「じゃあいいじゃん。」
ひまりは何も言えなくなった。
美咲の言っていることは間違っていなかった。
「……ごめん。」
「何で謝るの。」
「分かんない。」
「謝ってほしいわけじゃない。」
「うん。」
二人は歩いた。駅が近づくにつれて、人が増えていく。制服姿の高校生も、仕事帰りの大人も、二人の横を普通に通り過ぎていった。
「私さ。」
美咲が言った。
「まだ、ちょっと無理なんだと思う。」
「……何が?」
「ひまりと前みたいにするの。」
ひまりは歩きながら美咲を見た。
「真琴のこと?」
美咲は答えなかった。
それが答えだった。
「水野さんから、何聞いたの。」
「それは。」
「私のこと聞いたんでしょ。」
「聞いた。」
「どこまで?」
「……全部じゃない。」
「じゃあ何。」
美咲は前を向いたままだった。
「ひまりが、真琴を仲間外れにしたって。」
足が止まりそうになった。
「それだけ?」
「それだけじゃない。」
「何聞いたの。」
「ひまり。」
「何。」
「ここで話したくない。」
数日前、自分が言った言葉だった。
ひまりは口を閉じた。
「……そっか。」
「うん。」
「じゃあいい。」
駅に着いた。
二人の使う改札は同じだったが、その先でホームが分かれる。
「じゃあ。」
美咲が言う。
「うん。」
「また明日。」
「また明日。」
美咲が歩き出す。
ひまりはその背中を見ていた。
「美咲。」
呼ぶと、美咲が振り返った。
「何?」
「……二十八日。」
「うん。」
「やっぱいいや。」
「そう。」
「三人で行ってきて。」
「分かった。」
美咲はそれ以上何も言わなかった。
ひまりも笑って手を振った。
改札を抜けて、美咲の姿が見えなくなってから、ひまりはホームへ向かった。
その日の夜、遼に電話はしなかった。
十一時を過ぎても、スマートフォンは机の上に置いたままだった。ベッドに入って、目を閉じる。眠れない。何度も寝返りを打った。
美咲の言葉が残っていた。
『私が紗奈と琴音と一緒にいてもいいでしょ。』
当たり前だった。
美咲には美咲の友達がいる。
自分が遼と一緒にいるのと同じだ。
何もおかしくない。
何も悪くない。
なのに。
別の教室が浮かんだ。
今より少し狭い教室。
窓際に三人。
机を寄せて弁当を食べている。
近づいてくる真琴。
『今日、一緒に食べていい?』
誰かが自分を見る。
自分は真琴を見ない。
『別にいいんじゃない?』
そう言った。
来るなとは言わなかった。
仲間外れにしようとも言わなかった。
好きなところで食べればいい。
来たいなら来ればいい。
ひまりは目を開けた。
暗い部屋の天井が見えた。
スマートフォンを取る。
時刻は十一時四十七分。
遼とのトーク画面を開いた。
『起きてる?』
送信する前に指が止まった。
今電話したら。
また美咲の言った通りになる。
秋月くん。
毎晩。
私じゃなくて。
画面を閉じた。
スマートフォンを伏せる。
数秒後、震えた。
驚いて手に取る。
遼からだった。
『今日電話しないの?』
ひまりは画面を見つめた。
それから、少しだけ笑った。
『しないつもりだった』
『何で』
『なんとなく』
『ふーん』
それで終わると思った。
続けて着信が来た。
ひまりは一度だけ迷って、通話ボタンを押した。
「……もしもし。」
『何してた?』
「寝ようとしてた。」
『寝れば。』
「じゃあ何で電話したの。」
『知らん。』
「榊くんみたいになってる。」
『うるさい。』
ひまりは布団を鼻まで引き上げた。
「ねえ。」
『ん?』
「今日、美咲と一緒に帰った。」
『へえ。』
「二十八日、三人で遊ぶんだって。」
『美咲たち?』
「うん。」
『夏川は?』
「行かない。」
『誘われなかったの。』
「私から行っていいって聞いた。」
『じゃあ行けばいいじゃん。』
「やめた。」
『何で。』
「分かんない。」
遼は少し黙った。
『喧嘩した?』
「してない。」
『ならいいじゃん。』
「……よくない。」
自分でも意外なほど、すぐに言葉が出た。
『何が?』
「分かんない。」
『分かんないばっかじゃん。』
「分かんないんだもん。」
声が震えた。
遼が黙る。
「美咲、何も悪くないの。」
『うん。』
「紗奈も琴音も悪くない。」
『うん。』
「私がそっち行かなかっただけだから。」
『うん。』
「なのに。」
息を吸う。
「怖い。」
『何が。』
「同じだから。」
遼は答えなかった。
「全部、同じ。」
『夏川?』
「私、あのときも。」
そこで言葉が止まった。
真琴。
名前を口にしたら、続きまで全部出てしまいそうだった。
『あのときって?』
「……何でもない。」
『何でもなくないだろ。』
「言いたくない。」
『そっか。』
それ以上、遼は聞かなかった。
ひまりは目を閉じた。
少し安心した。
だから、そのまま口が動いた。
「秋月くん。」
『うん。』
「明日も一緒にお昼食べていい?」
『いいよ。』
「明後日も?」
『好きにすれば。』
「冬休み終わっても?」
『何でいちいち許可取るんだよ。』
「……取っときたい。」
遼は笑った。
『いいって。』
「ほんと?」
『うん。』
「ずっと?」
一瞬、向こうが静かになった。
前なら、そこで遼は「ずっとは知らない」と言った。
『……いいよ。』
ひまりは目を開けた。
「ほんとに?」
『夏川が来たいなら。』
「うん。」
『別に追い出さないし。』
「……うん。」
胸の奥がゆっくり緩んでいく。
「ありがとう。」
電話の向こうで、遼が何か言った。
ひまりにはよく聞こえなかった。
でも、聞き返さなかった。
その夜は、それで眠れた。
翌日の昼休み、美咲と紗奈と琴音はいつものように机を寄せた。ひまりはそちらを見なかった。弁当を持って立ち上がり、遼のところへ行く。
「お邪魔します。」
「昨日許可取っただろ。」
「一応。」
「毎日確認すんの?」
「するかも。」
「めんど。」
榊が言った。
「夏川もう自分の机持ってくれば?」
「ここに?」
「毎回俺らがずらすの面倒じゃん。」
「あ、それいいね。」
「いや定住すんなよ。」
遼が言う。
「昨日いいって言ったじゃん。」
「昼飯の話だろ。」
「同じじゃん。」
「違うだろ。」
ひまりが笑った。
榊も笑った。
遼も笑った。
少し離れたところで、美咲がその声を聞いていた。
琴音が何か話している。
紗奈も笑っている。
美咲も笑おうとした。
でも、一度だけひまりの方を見た。
楽しそうだった。
昨日、自分にはあんな顔をしなかった。
「美咲?」
「ん?」
「聞いてた?」
琴音が言う。
「ごめん。何?」
「二十八日。映画も見る?」
「ああ。」
美咲はひまりから目を離した。
「見る。」
「何見る?」
「何でもいいよ。」
紗奈がスマートフォンを出す。
「じゃあ調べよ。」
三人で画面を覗き込む。
美咲は、もう一度だけ考えた。
ひまりも誘う?
昨日は来たいと言っていた。
自分が「琴音に聞けば」と言ったから、やめたのかもしれない。
なら、今からでも声をかければいい。
そう思った。
けれど。
「美咲、これどう?」
琴音が画面を見せる。
「面白そう。」
「じゃあこれにしよっか。」
「うん。」
美咲はひまりを呼ばなかった。
呼ばない理由なら、いくらでもあった。
昨日、本人が行かないと言ったから。
秋月くんたちと楽しそうにしているから。
今はまだ、真琴のことを知ったばかりだから。
少し距離を置きたいと、ちゃんと本人にも伝えたから。
どれも嘘ではなかった。
だから美咲は、自分が何か悪いことをしたとは思わなかった。




