第46話 離れる
それから三日、美咲はひまりとほとんど話さなかった。
喧嘩をしているわけではない。
朝、ひまりが「おはよ」と言えば、美咲も「おはよ」と返す。プリントを後ろへ回すときには普通に渡すし、移動教室で席が近ければ必要なことくらいは話した。
ただ、それだけだった。
以前なら休み時間になると、どちらからともなく話していた。昼休みになれば机を寄せていた。放課後になれば、今日はどうする、と聞いていた。
それがなくなった。
美咲がやめると、ひまりもやらなくなった。
最初の日、昼休みになると琴音が美咲の机へ来た。
「食べよ。」
「うん。」
紗奈も弁当を持ってくる。
三人で机を寄せた。
少し離れたところで、ひまりが鞄から弁当を出していた。
琴音がそちらを見る。
「ひまりも呼ぶ?」
美咲は一瞬、黙った。
「……別に。」
「別にって。」
「来たかったら来るでしょ。」
琴音はそれ以上何も言わなかった。
紗奈もひまりを見たが、すぐに視線を戻した。
「まあ、今日はいいんじゃない?」
「うん。」
それだけだった。
ひまりを呼ばないと決めたわけではない。
仲間外れにしようと相談したわけでもない。
ただ三人とも、自分から声をかけなかった。
ひまりはしばらく自分の席に座っていた。
それから弁当を持って立ち上がる。
「秋月くん。」
遼が顔を上げた。
「今日、そっちいい?」
「いいけど。」
「よかった。」
榊が自分の机をずらした。
「もうここ、お前の第二食堂じゃん。」
「何それ。」
「利用率高すぎだろ。」
「じゃあ使用料払う。」
「卵焼き一個。」
「高い。」
ひまりが笑った。
いつも通りの笑い声だった。
美咲は聞こえないふりをした。
二日目も同じだった。
三日目になると、誰も何も言わなくなった。
昼休みになれば、美咲と紗奈と琴音が机を寄せる。
ひまりは弁当を持って遼たちのところへ行く。
それが最初から決まっていたことのようになった。
「夏川、最近ずっとこっちじゃん。」
四日目の昼、榊が言った。
「嫌?」
「いや。別に。」
「じゃあいいじゃん。」
「俺の机なんだけど。」
「細かい男はモテないよ。」
「勝手に占領してるやつに言われたくねえ。」
ひまりが笑う。
遼も笑った。
その向こうで、美咲たちも何か話していた。
三人が同時に笑う。
ひまりの箸が止まった。
「夏川?」
「ん?」
「どうした。」
「何が?」
「いや。」
遼はそれ以上聞かなかった。
榊はスマートフォンを見ながらパンを食べている。
美咲たちの笑い声が、もう一度聞こえた。
何の話をしているのか分からない。
別に、自分の話をしているとは思わなかった。
琴音がスマートフォンの画面を二人に見せる。
紗奈が笑う。
美咲も笑った。
ただ、それだけ。
ひまりは弁当を見る。
卵焼き。
ミニトマト。
冷凍のグラタン。
朝、自分で詰めてきたものだった。
「……夏川。」
「ん?」
「それ食わないならもらうぞ。」
榊が卵焼きを指差していた。
「やだ。」
「じゃあ食えよ。」
「食べるし。」
「さっきから全然減ってねえじゃん。」
ひまりは卵焼きを口に入れた。
「ほら。」
「何がほらなんだよ。」
また笑った。
今度は少しだけ、うまく笑えた。
放課後。
ひまりが教科書を鞄に入れていると、美咲たち三人が教室を出ていくのが見えた。
琴音が何か言っている。
紗奈が返す。
美咲が笑う。
呼ばれなかった。
ひまりは鞄のファスナーを閉めた。
「夏川、帰んねえの?」
榊だった。
「帰るよ。」
「秋月、今日掃除当番だぞ。」
「あ、そっか。」
遼が教室の後ろで机を運んでいる。
「待ってよっかな。」
「秋月を?」
「うん。」
「ふーん。」
榊はそれだけ言った。
ひまりが笑う。
「何。」
「いや別に。」
「何か言いたそう。」
「別に何も。」
「絶対あるじゃん。」
「お前ら最近ずっと一緒にいるなと思っただけ。」
「そう?」
「そうだろ。」
ひまりは遼を見る。
遼は神谷と机を運んでいた。
「……そうかも。」
「付き合ってんの?」
「違うって。」
「じゃあいいけど。」
「何がいいの。」
「知らん。」
榊は鞄を肩にかけた。
「じゃ、お先。」
「ばいばい。」
「おう。」
榊が教室を出ていく。
ひまりは一人で待った。
窓の外はもう暗くなり始めていた。
十二月の日は短い。
少し前まで、美咲と一緒に帰っていた。
そんなことを思った。
それから。
もっと前のことを思い出した。
冬だった。
教室。
三つの机。
笑っている声。
近づいてきた女の子。
『ひまり、今日一緒に食べていい?』
誰かが黙った。
自分も黙った。
『……別にいいんじゃない?』
そう言った。
言っただけだった。
机は動かさなかった。
「夏川?」
声がした。
ひまりは顔を上げた。
遼が目の前に立っている。
「終わったけど。」
「……うん。」
「帰る?」
「帰る。」
立ち上がろうとして、足に力が入らなかった。
遼が眉を寄せる。
「大丈夫?」
「大丈夫。」
すぐに答えた。
遼は何も言わない。
「ほんとに。」
「分かった。」
その言い方に、ひまりは少しだけ安心した。
帰り道では、ほとんど学校の話をしなかった。
コンビニの新しい肉まんの話をして、期末試験の数学が難しかった話をして、榊の英語が壊滅的だった話をした。
駅で別れる。
「じゃあね。」
「うん。」
「また明日。」
「また明日。」
遼が改札へ向かう。
ひまりも反対側へ歩き出した。
三歩。
五歩。
「秋月くん。」
振り返る。
「何?」
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
「……何でもない。」
「何だよ。」
「呼んだだけ。」
「意味分かんない。」
「じゃあね。」
「おう。」
今度こそ別れた。
その夜、十一時を少し過ぎた頃。
遼のスマートフォンが鳴った。
『もしもし。』
「うん。」
『起きてた?』
「起きてた。」
『よかった。』
それから十分くらい、どうでもいい話をした。
今日の授業。
期末試験。
冬休み。
テレビで見た芸能人。
ひまりはよく喋った。
遼は聞いていた。
話が途切れる。
『……ねえ。』
「ん?」
『美咲たちとさ。』
「うん。」
『最近、全然一緒にいないじゃん。私。』
「そうだな。」
『これって、私が避けてるのかな。』
遼は少し考えた。
「向こうも話しかけてこないんだろ。」
『うん。』
「なら夏川だけじゃないじゃん。」
『そうなんだけど。』
しばらく、何も聞こえなくなる。
「夏川?」
『いる。』
「うん。」
『……私が行けばいいのかな。』
「美咲たちのところ?」
『うん。』
「行きたいなら。」
『行きたくないって言ったら?』
「行かなくていいんじゃない。」
ひまりは黙った。
「無理して一緒にいる必要ないだろ。」
『……そっか。』
「喧嘩してんのに、無理して仲いいふりしてもしょうがないじゃん。」
『喧嘩なのかな。』
「知らないけど。」
『榊くんみたい。』
「やめろ。」
ひまりが少し笑った。
その声を聞いて、遼も笑った。
『秋月くんはさ。』
「うん。」
『私が美咲と仲直りしなくても、いいの?』
遼は答えるまでに少し時間がかかった。
本当なら、仲直りした方がいい。
少し前まで、そう思っていた。
美咲と笑っているひまりを見れば安心した。自分には分からない話を二人でしていても、それが普通なのだと思っていた。
なのに最近は。
「夏川が決めればいいんじゃない。」
『そっか。』
「俺が決めることじゃないし。」
『うん。』
「ただ。」
『何?』
「しんどいなら、無理しなくていいと思う。」
また沈黙。
今度は長かった。
『……楽。』
「何が。」
『秋月くん。』
「またそれ?」
『だって本当に楽なんだもん。』
遼はベッドの上で天井を見た。
『何しても、いいじゃんって言ってくれる。』
「何してもは言ってない。」
『でも、だいたい。』
「夏川がいちいち気にしすぎなんだよ。」
『そうかな。』
「そうだろ。」
『じゃあ、気にしなくていい?』
「何を。」
『美咲のこと。』
遼は答えなかった。
数日前の美咲の顔を思い出した。
真琴という名前。
教室から逃げたひまり。
震えていた手。
保健室まで連れていったときの、ほとんど体重のない腕。
「……今は、いいんじゃない。」
『今は?』
「落ち着いてから考えれば。」
『うん。』
ひまりの声が少し柔らかくなる。
『ねえ、秋月くん。』
「ん?」
『一個だけお願いしていい?』
「何。」
また少し間があった。
『いなくならないで。』
遼は目を閉じた。
胸の奥で何かが動いた。
それが何なのかは、もう前ほど分からないふりができなかった。
「……いるよ。」
『ほんと?』
「うん。」
『ずっと?』
そこまで言われて、遼は笑った。
「ずっとは知らない。」
『えー。』
「そんな約束できるわけないだろ。」
『ケチ。』
「普通。」
『じゃあ明日は?』
「明日はいる。」
『明後日は?』
「いるんじゃない。」
『じゃあ、それでいい。』
ひまりが笑った。
安心したような声だった。
遼も安心していた。
美咲と仲直りできたわけではない。
何も解決していない。
むしろ悪くなっている。
それなのに。
ひまりが自分の声で安心した。
それだけで、今日は悪い日ではなかったような気がした。
翌日の昼休み。
美咲と紗奈と琴音が、三つの机を寄せる。
ひまりは一度だけそちらを見た。
美咲と目が合った。
どちらも、何も言わなかった。
「秋月くん。」
「ん?」
「今日もそっち行っていい?」
「もう聞かなくていいだろ。」
「じゃあ行く。」
ひまりが弁当を持ってくる。
榊が机をずらしながら言った。
「完全に定住したな。」
「住民票移す。」
「ここ秋月の机だけどな。」
「じゃあ秋月くんち。」
「言い方。」
「え?」
「何でもない。」
榊がパンの袋を開ける。
ひまりは笑った。
遼も笑った。
教室の反対側でも、三人が笑っていた。
六人とも、昨日とほとんど同じ昼休みを過ごした。
誰も誰かを追い出してはいない。
誰も、仲間外れにしようとは言っていない。
ただ。
ひまりはもう、向こうへ行かなかった。




