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第45話 とある出来事

 ひまりが教室を飛び出したあと、遼はすぐに追いついた。


「夏川。」


 階段の手前で呼ぶと、ひまりは足を止めた。


「……来ないで。」


「保健室行く?」


「行かない。」


「じゃあどこ行くの。」


「分かんない。」


 振り返ったひまりの顔は、泣いてはいなかった。


 ただ、ひどく青かった。


「美咲、紗季に聞いたんだ。」


「うん。」


「何で。」


 遼には答えられない。


「私が言いたくないって言ったのに。」


「うん。」


「何で勝手に聞くの。」


 ひまりは壁に背中を預けた。


「……真琴のことまで。」


 その名前を、遼は初めて聞いた。


「鈴木真琴?」


 ひまりが顔を上げる。


「聞いてた?」


「教室で。」


「そっか。」


 ひまりは俯いた。


「秋月くん。」


「何。」


「私、人殺したのかな。」


 遼は何も言えなかった。


 ひまりも答えを求めてはいないようだった。


「……保健室行こ。」


「うん。」


 その日は、それ以上聞かなかった。


 昼休みになっても、ひまりは教室へ戻ってこなかった。


 美咲は紗奈と琴音に、知っていることだけを話した。


「自殺……?」


 琴音の声が小さくなる。


「うん。」


「でも、それとひまりがどう関係あるの?」


「まだ分かんない。」


「水野さんは何て?」


「最初は仲よかったって。」


「誰と?」


「三人で。」


 美咲はスマートフォンを机に置く。


「ひまりと、水野さんと、鈴木真琴って子。」


 紗奈が眉を寄せた。


「その子が自殺したから、ひまりが転校したってこと?」


「それもまだ分かんない。」


「じゃあ。」


 紗奈は少し間を置いた。


「今のところ、何も分かってないじゃん。」


 美咲が顔を上げる。


「……うん。」


「なら、決めつけるのはやめた方がいいよ。」


「決めつけてない。」


「でも朝、ひまりに聞いたでしょ。」


「だって。」


「本人があんなになるくらい嫌がってたのに。」


 美咲は黙った。


 琴音が二人を見る。


「まあ……でも気にはなるよ。」


「それは私もなる。」


 紗奈は言った。


「でも、死んだ人がいるなら余計に。」


 三人とも黙った。


 いつもなら、ひまりの机もこちらへ運んでいた時期があった。


 今は離れた場所にある。


 そこに本人はいない。


「……私、悪かったかな。」


 美咲が呟いた。


 琴音がすぐに答える。


「朝のは、ちょっと。」


「そっか。」


「でも美咲が知りたかった気持ちは分かるよ。」


 美咲はスマートフォンを見る。


 真琴。


 自殺。


 ひまり。


 それだけでは何も分からない。


 分からないから、知りたかった。


 美咲は真琴との――違う。


 水野紗季とのトーク画面を開いた。


『昨日の話の続き、聞かせてもらえませんか』


 送信した。


 返事が来たのは放課後だった。


『夏川には?』


 美咲は少し迷う。


『聞きました』


『何て?』


『話してくれませんでした』


 しばらくして。


『そっか』


 続けて、もう一通。


『電話できる?』


 美咲は教室を出た。


 誰もいない階段の踊り場まで行き、通話ボタンを押す。


『もしもし。』


「藤沢です。」


『うん。』


「朝、ひまりに真琴さんのこと聞きました。」


『……そう。』


「すごく嫌がってました。」


『だろうね。』


「教えてください。」


 少し間があった。


「何があったんですか。」


『どこから話せばいいかな。』


 紗季が息を吐く。


『別に、最初からいじめてたわけじゃないよ。』


 美咲の指が止まった。


「いじめ?」


『うん。』


「ひまりが、いじめられてたんですか?」


 返事がなかった。


「水野さん?」


『逆。』


 美咲は聞き返せなかった。


『いじめられてたのは真琴。』


「……誰に?」


 分かっている。


 聞く前から、分かっていた。


 それでも聞いた。


『夏川たちに。』


 美咲は壁にもたれた。


「……嘘。」


『嘘だったらよかったけど。』


「でも。」


 言葉が出てこない。


 あのひまりが。


 いつも笑っていて、誰にでも話しかけて、誰かが一人でいれば自然に輪へ入れるようなひまりが。


「ひまりが、いじめてたんですか。」


『そう。』


「どんな。」


『最初は喧嘩だったよ。』


 紗季の声は淡々としていた。


『真琴も悪かった。夏川が怒ったのにも、ちゃんと理由があった。』


「理由?」


『真琴が、夏川から聞いた話を別の子に喋った。本人はそんな大事な話だと思ってなかったみたいだけど、夏川は本気で嫌だったんだと思う。』


「それで……。」


『夏川が真琴と話さなくなった。』


 美咲は黙って聞く。


『そこまでは別にいいと思う。怒るのも当然だし、距離置くのだって自由だから。』


「はい。」


『でも夏川って、昔から人気あったんだよ。』


 美咲の胸がざわついた。


『夏川が真琴と話さなくなったら、他の子も話さなくなった。』


「ひまりが、無視しろって言ったんですか。」


『言ってない。』


「じゃあ。」


『言わなくても分かるんだよ。』


 その言葉だけ、紗季の声が強くなった。


『夏川が笑わなくなるから。真琴が来ると空気変わるから。誰かが真琴を誘おうとすると、夏川が黙るから。』


 美咲は何も言えなかった。


『最初はみんな、夏川が怒ってるから気を遣ってただけ。』


 紗季が続ける。


『そのうち、真琴を誘わない方が普通になった。』


 美咲の頭に、三つの机が浮かんだ。


 自分と。


 紗奈と。


 琴音。


「……それで。」


『真琴も最初は謝ってたよ。』


「ひまりに?」


『何回も。』


「ひまりは?」


『許さなかった。』


「……。」


『いや。』


 紗季が言い直す。


『たぶん途中から、許すとか許さないとかじゃなくなってた。』


「どういうことですか。」


『真琴がいない方が、みんな楽しくなってた。』


 美咲は目を閉じた。


『グループも真琴抜きで作った。遊びにも誘わなくなった。写真撮るときも、真琴だけ入らないことがあった。』


「ひまりも?」


『いたよ。』


「止めなかったんですか。」


『最初は止めてた。』


「え?」


『誰かが真琴のこと笑ったら、「やめなって」って。』


 美咲は少しだけ息を吐いた。


『笑いながらね。』


 息が止まる。


『そのうち夏川も笑うようになった。』


 美咲は壁に背中をつけたまま、床を見ていた。


『でもね。』


 紗季の声が少し低くなる。


『私は、夏川が真琴に死んでほしかったとは思ってない。』


「……。」


『たぶん、そこまで考えてなかった。』


「じゃあ何で。」


『楽だったんじゃない。』


「楽?」


『自分が何もしなくても、みんな自分の味方だったから。』


 美咲の頭に、朝のひまりが浮かんだ。


 笑っている。


 みんなに囲まれている。


 誰かが話しかける。


 ひまりが笑う。


 周りも笑う。


『真琴が学校来なくなっても、しばらくそのままだった。』


「……水野さんは?」


 初めて聞いた。


『私?』


「真琴さんの親友だったんですよね。」


 長い沈黙があった。


『私も何もできなかったよ。』


「でも。」


『夏川のせいにしてるけど、私も同じ。』


 紗季の声が少しだけ震えた。


『真琴と一緒にいたら、今度は自分が外されると思った。』


 美咲は返事をしなかった。


『だから途中から、私も夏川たちといた。』


「……。」


『真琴が一人でご飯食べてるの見ながら。』


 美咲は唇を噛んだ。


『それで、二年の冬。』


 続きは聞きたくなかった。


 でも、切ることもできなかった。


『真琴が死んだ。』


 階段の踊り場は静かだった。


 遠くで運動部の声が聞こえる。


「遺書とか……。」


『なかった。少なくとも、私たちは見てない。』


「じゃあ、いじめが原因か分からないんじゃ。」


『分からないよ。』


 紗季はすぐに答えた。


『だから私は、夏川が真琴を殺したなんて言うつもりない。』


 美咲は黙った。


『でも。』


 紗季の声が続く。


『夏川は知ってた。』


「何を?」


『途中から、真琴が本当にしんどそうなの。』


「……。」


『知ってたよ。絶対。』


 美咲はスマートフォンを握り直した。


『一回だけ、真琴が泣いてるところで夏川と二人になったことがあった。』


「それで?」


『私は遠くから見てただけ。何話したかは知らない。』


 紗季はそこで止まった。


『でも次の日も、何も変わらなかった。』


 通話が終わったあとも、美咲はしばらく動けなかった。


 ひまりがいじめていた。


 真琴が死んだ。


 その二つを頭の中で並べる。


 うまく繋がらない。


 繋げてはいけない気もした。


 でも、離すこともできなかった。


 教室へ戻る。


 ひまりはもう帰ったらしい。


 遼の席も空いていた。


「美咲。」


 琴音が声を掛ける。


「聞けた?」


「うん。」


 紗奈もこちらを見る。


「どうだった?」


 美咲はすぐには答えなかった。


「……ひまりが。」


 喉が乾いていた。


「いじめてたんだって。」


 琴音の表情が固まる。


 紗奈は何も言わない。


「死んだ子を?」


「うん。」


「それ、本当なの?」


「水野さんはそう言ってた。」


 美咲は自分の席へ座った。


「でも、最初は喧嘩だったって。」


 聞いたことを、そのまま話した。


 ひまりが怒ったこと。


 周りが真琴から離れたこと。


 ひまりが止めなかったこと。


 そのうち自分も笑うようになったこと。


 真琴が一人になったこと。


 そして、死んだこと。


「……それ。」


 琴音が呟く。


「やばくない?」


「琴音。」


 紗奈が止める。


「だって。」


「自殺の理由は分からないって言ってたんでしょ。」


「でも。」


「そこは一緒にしちゃ駄目だよ。」


 紗奈はそう言った。


 けれど、声に以前ほどの強さはなかった。


「……私さ。」


 美咲が言う。


 二人が見る。


「昨日まで、ひまりとまた普通に仲よくしたいって思ってた。」


 琴音が黙る。


「今も。」


 美咲は自分でも驚いた。


 言葉にして初めて気付いた。


「今も思ってる。」


「美咲。」


「でも、分かんない。」


 目の奥が熱くなる。


「何で私には何も言わないの。」


「……。」


「こんなの聞いて、それでも私から普通に話しかけなきゃいけないの?」


 誰も答えなかった。


「秋月くんには毎晩電話して。」


 声が震えた。


「私が心配したら大丈夫って言って。」


 ずっと飲み込んでいたものが、一つずつ出てくる。


「私が近づいたら秋月くん呼んで。」


「美咲。」


「昔のことも、私には言わない。」


 琴音が美咲の肩に触れた。


「なのに朝になったら普通に『おはよ』って笑うんだよ。」


 美咲は俯いた。


「私、どうしたらいいの。」


 紗奈は答えられなかった。


 少し前なら言えた。


 ひまりにも事情がある。


 仲直りしたならいい。


 ちゃんと話せばいい。


 けれど今は、そのどれも簡単には言えなかった。


「……無理しなくていいんじゃない。」


 琴音が言った。


 美咲が顔を上げる。


「今すぐ仲よくしなくても。」


「琴音。」


「だって、美咲だって傷ついてるじゃん。」


 紗奈は何も言わなかった。


 否定もしなかった。


 その翌朝。


 ひまりはいつも通り教室へ入ってきた。


「おはよ。」


 何人かが返す。


「おはよう。」


 ひまりは自分の席へ鞄を置いた。


 美咲を見る。


 一瞬だけ迷ってから、近づいてきた。


「美咲。」


 美咲は顔を上げた。


「昨日、ごめん。」


「何が?」


「大きい声出したこと。」


「うん。」


「あと……。」


 ひまりは指を握る。


「真琴のこと。」


 美咲は待った。


 今度こそ話してくれる。


 そう思った。


「昨日は、急に聞かれてびっくりして。」


「うん。」


「ちゃんと話さなきゃとは思ってる。」


 美咲の胸が少しだけ軽くなる。


「じゃあ。」


「でも、まだ待ってほしい。」


 その軽さが消えた。


「……いつまで?」


「分かんない。」


「そっか。」


「ごめん。」


「うん。」


「美咲。」


「何?」


「怒ってる?」


 美咲はひまりを見た。


 困ったような顔。


 怖がっているようにも見える。


 以前なら、それだけで許していたかもしれない。


「怒ってないよ。」


 美咲は言った。


 ひまりの顔が少し緩む。


「よかった。」


 その瞬間。


 美咲の中で、何かが冷えた。


「でも。」


 ひまりが止まる。


「今は、ちょっと話したくない。」


 ひまりの表情が消えた。


「……そっか。」


「うん。」


「分かった。」


 ひまりは笑った。


 いつもの笑顔だった。


「じゃあ、またね。」


 自分の席へ戻っていく。


 美咲はその背中を見ていた。


 琴音が何も言わず、美咲の隣へ来た。


 少し遅れて紗奈も来る。


 三人で話し始める。


 ひまりは振り返らなかった。


 ただ、鞄から教科書を出す手だけが。


 少し震えていた。

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