第43話 真琴
ひまりが三人の輪から完全に離れたわけではなかった。
朝は普通に話す。
休み時間になれば琴音がひまりの席へ来ることもあったし、紗奈と一緒に購買へ行くこともある。美咲とも、授業のプリントを見せ合ったり、教師の愚痴を言ったりした。
ただ、昼休みだけは別になった。
チャイムが鳴る。
美咲、紗奈、琴音。
遼、榊、ひまり。
誰も相談していないのに、毎日同じ三人に分かれた。
その状態が二週間も続く頃には、クラスの誰も気にしなくなっていた。
「夏川、今日購買?」
「うん。寝坊した。」
「また?」
「また。」
榊が呆れた顔をする。
「よく遅刻しないな。」
「そこは才能。」
「何のだよ。」
「秋月くん、パンちょうだい。」
「嫌だ。」
「一口。」
「自分の買ってきただろ。」
「違う味食べたい。」
「榊にもらえよ。」
「俺を巻き込むな。」
いつもの昼休みだった。
ひまりは笑っていた。
教室の前でも、美咲たちが笑っていた。
それでよかった。
少なくとも、ひまりはそう思うことにしていた。
変化があったのは、十二月に入ってすぐだった。
期末試験が近づき、放課後に残る生徒が増えていた。
「もう無理。」
琴音が机へ突っ伏す。
「まだ一問目じゃん。」
「一問目が分からないから無理なの。」
「諦めるの早すぎ。」
紗奈が問題集を引き寄せる。
「美咲、ここ分かる?」
「どこ?」
三人が一冊の問題集を覗き込む。
少し離れた席で、ひまりは鞄を整理していた。
「何してるの?」
美咲が聞く。
「帰る準備。」
「勉強してかないの?」
「え?」
「期末。」
「ああ。」
ひまりは三人の机を見る。
「今日やるの?」
「うん。」
「聞いてない。」
言ってから、しまったと思った。
美咲の表情が少しだけ変わる。
「昨日決めたから。」
「そっか。」
「ひまり、昨日先に帰ったじゃん。」
「うん。」
「来る?」
紗奈が聞いた。
「いいの?」
「勉強するだけだよ。」
「じゃあやる。」
ひまりは笑って鞄から問題集を出した。
机を一つ運ぶ。
四人で問題集を開いた。
最初の十分ほどは、普通だった。
「これ何で3になるの?」
「2。」
「え?」
「答え2だよ。」
「嘘。」
「ほら。」
「私ずっと3で計算してた。」
「最初からやり直しじゃん。」
「帰りたい。」
琴音の声に笑いが起きる。
ひまりも笑った。
美咲も笑った。
「そういえばさ。」
琴音が問題集へ書き込みながら言う。
「土曜どうする?」
「十時でいいんじゃない?」
紗奈が答える。
「美咲は?」
「いいよ。」
「……何が?」
ひまりが聞いた。
三人が止まった。
「勉強。」
琴音が答える。
「土曜もやるの?」
「うん。」
「どこで?」
「駅前。」
「へえ。」
ひまりは少し待った。
誰も続きを言わない。
「私も行っていい?」
自分から聞いた。
「もちろん。」
琴音がすぐに答えた。
「ね?」
「うん。」
紗奈も頷く。
美咲は問題集を見たまま、
「来たいなら。」
と言った。
「じゃあ行く。」
ひまりは笑った。
土曜日。
ひまりは待ち合わせの十分前に駅へ着いた。
まだ誰もいなかった。
スマートフォンを見る。
三人のグループではなく、四人のグループを開く。
何も来ていない。
五分待つ。
琴音からメッセージが来た。
『ごめん少し遅れる!』
ひまりが返す。
『了解!』
その直後。
「あれ。」
聞き覚えのある声がした。
ひまりが顔を上げる。
女の子が一人、こちらを見ていた。同じくらいの年齢だった。黒いコートに、肩まで伸びた髪。
目が合う。
相手の顔が、少しずつ変わっていった。
「……夏川?」
その瞬間。
ひまりの顔から笑顔が消えた。
「え。」
女の子が一歩近付く。
「やっぱり夏川だ。」
「……。」
「久しぶり。」
ひまりは動かなかった。
雑踏の音が遠くなる。
改札の電子音。誰かの笑い声。電車の到着を知らせる放送。
全部が遠ざかっていく。
「元気そうじゃん。」
「……うん。」
ひまりは笑おうとした。
口元だけが少し動いた。
「そっちも。」
「まあね。」
それきり、会話が止まる。
「高校、楽しい?」
「……うん。」
「友達できた?」
「うん。」
「そっか。」
女の子が頷く。
それだけの質問なのに、ひまりの指が震え始めた。
「そっちは……。」
「私?」
「今、どこ?」
「隣の市。」
「そっか。」
「うん。」
また沈黙する。
ひまりはスマートフォンを握り直した。
駅前の信号が青になる。
向かい側から、人の波がこちらへ渡ってくる。
その中に、美咲たちがいた。
琴音と紗奈が並んで歩き、その少し後ろを美咲がついてくる。
琴音がひまりに気付いた。
「あ、ひまり――」
呼びかけようとして、やめた。
ひまりが誰かと話している。
三人はそのまま、こちらへ歩いてくる。
ひまりはまだ気付いていなかった。
「……夏川。」
女の子がもう一度呼んだ。
ひまりが顔を上げる。
「私のこと、覚えてる?」
その顔を見た瞬間だった。
ひまりの唇がわずかに動いた
「……真琴。」
数メートル後ろで、美咲の足がわずかに遅くなった。
真琴。
聞いたことのない名前だった。
「ひまりー!」
琴音の声がした。
ひまりが振り返る。
琴音が手を振っている。その隣に紗奈。少し後ろに美咲。
「あ。」
ひまりの表情が少しだけ緩む。
「ごめん、待った?」
琴音が駆け寄ってくる。
「全然。」
「その人、知り合い?」
ひまりが答えるより先に、女の子が三人を見た。
「中学の同級生。」
「へえ。」
琴音が女の子を見る。
「ひまりの前の学校?」
「うん。」
女の子が答えた。
美咲の表情がわずかに変わる。
ひまりはそれに気付いた。
「じゃあ。」
ひまりが急いで言う。
「私たち行くから。」
「うん。」
女の子はひまりを見る。
「じゃあね。」
「……うん。」
ひまりは歩き出そうとした。
「夏川。」
呼び止められる。
足が止まる。
振り返る。
女の子はしばらく何も言わなかった。
その視線が、ひまりから美咲へ移る。
紗奈。
琴音。
そして、またひまり。
「……いや。」
「何?」
「何でもない。」
女の子はそれだけ言って歩いていった。
四人はしばらく、その背中を見ていた。
「誰?」
最初に聞いたのは美咲だった。
「言ってたじゃん。中学の同級生。」
「名前。」
ひまりが美咲を見る。
「……何で?」
「さっき真琴って呼んでたじゃん。」
一瞬。
ひまりの目が揺れた。
「聞こえてたんだ。」
「うん。」
「……そっか。」
「名字は?」
「何でそんなこと聞くの。」
「別に。気になっただけ。」
「同じ学校だっただけだよ。」
「仲よかったの?」
「普通。」
「普通?」
「うん。」
美咲は少しだけひまりを見ていた。
「ふうん。」
それ以上は聞かなかった。
「ほら、行こうよ。」
紗奈が言う。
「席なくなるよ。」
「そうだね。」
琴音も歩き出す。
ひまりはその後を追った。
美咲も歩き出す。
真琴。
その名前だけが、頭に残った。
勉強はほとんど頭に入らなかった。
問題集を開いても、ひまりは同じ行を何度も読んだ。
「ひまり。」
「ん?」
「そこ違うよ。」
紗奈が指差す。
「あ。」
「大丈夫?」
「大丈夫。」
「今日変じゃない?」
「眠いだけ。」
ひまりは笑った。
美咲は何も言わなかった。
ただ、ときどきひまりを見ていた。
その日の夜、電話はいつもより早かった。
十時を過ぎた頃だった。
「もしもし。」
『秋月くん。』
「早いね。」
『うん。』
「どうした?」
返事がない。
「夏川?」
『今日ね。』
「うん。」
『昔の友達に会った。』
遼はベッドへ腰を下ろした。
「前の学校?」
『うん。』
「この前言ってた?」
『言ってない。』
「そっか。」
『たまたま会っただけ。』
「うん。」
『……嫌だった。』
遼は黙って聞いた。
『顔見た瞬間、逃げたくなった。』
「何かされた?」
『違う。』
「じゃあ何。」
『言えない。』
「そっか。」
それ以上、遼は聞かなかった。
電話の向こうから、ひまりの呼吸だけが聞こえる。
『ねえ。』
「何。」
『やっぱり聞かないんだね。』
「言えないんだろ。」
『うん。』
「じゃあいいよ。」
『……うん。』
その声は、少しだけ震えていた。




