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第39話 久しぶり

 翌朝、ひまりはいつも通り登校してきた。


「おはよー。」


 昨日のことなどなかったような声だった。


「おはよ。」


「もう大丈夫?」


「昨日びっくりしたよ。」


 何人かに声を掛けられるたび、ひまりは「大丈夫大丈夫」と笑った。


「ごめんね、授業止めちゃって。」


「いや、先生も慣れてたじゃん。」


「それはそれで嫌なんだけど。」


 笑いが起きる。


 遼は自分の席からその様子を眺めていた。昨日と同じひまりだった。少なくとも、そう見えた。


「秋月くん。」


 ひまりがこちらへ来る。


「昨日ありがと。」


「うん。」


「保健室の先生にも言われた。秋月くんいなかったらもっと長引いてたかもねって。」


「そうなんだ。」


「うん。」


 ひまりは少しだけ照れたように笑う。


「あと、制服。」


「制服?」


「掴んじゃったから。」


「ああ。」


「伸びてない?」


「大丈夫。」


「ほんと?」


「洗えば戻るだろ。」


「洗濯で戻るものなの?」


「知らない。」


「適当じゃん。」


 ひまりが笑う。


「今度なんか奢る。」


「いいよ。」


「ポテト。」


「自分が食いたいだけだろ。」


「ばれた。」


 そのやり取りを、美咲は少し離れたところから聞いていた。


「美咲。」


 琴音が声を掛ける。


「英語の課題、今日だよね?」


「うん。」


「やば。」


「またやってないの?」


「途中。」


「見せないよ。」


「まだ何も言ってないじゃん。」


 琴音が笑う。


 美咲も笑った。


 紗奈もやって来る。


「おはよ。」


「おはよ。」


「昨日の数学、ノート途中なんだけど。」


「私も。」


「ひまりに見せてもらえば?」


 琴音が何気なく言った。


 美咲の視線が一瞬だけひまりへ向く。


 遼と話している。


「……あとで聞く。」


「私聞いてこようか?」


「いいって。」


 美咲は笑った。


「自分で聞くから。」


 結局、一時間目が始まるまで、美咲がひまりへ話しかけることはなかった。


 昼休み。


 昨日と同じように、紗奈と琴音が美咲の席へやって来た。


「今日どうする?」


「何が?」


「ご飯。」


「ここでいいんじゃない?」


「ひまりは?」


 紗奈が聞く。


 美咲は教室の後ろを見る。


 ひまりはまだ席に座っていた。


「……呼ぶ?」


「美咲が決めることじゃないでしょ。」


「それもそうか。」


 紗奈が笑う。


「ひまりー。」


「はーい。」


「今日こっち来る?」


 ひまりが三人を見る。


「あ。」


 一瞬だけ迷った。


 その視線が遼の方へ動く。


 遼はまだ弁当箱すら出していなかった。


「……今日はこっちで食べよっかな。」


「お。」


 紗奈が机を動かす。


「久しぶりじゃん。」


「二日くらいでしょ。」


「最近ずっと秋月くんたちと食べてたじゃん。」


 琴音が笑う。


「そんなに?」


「そんなに。」


「じゃあ今日は女子会。」


「何それ。」


 ひまりが椅子を持ってくる。


 美咲の隣へ座った。


「美咲。」


「ん?」


「昨日、ごめんね。」


 美咲は箸を止める。


「何が?」


「また心配かけた。」


「ああ。」


「大丈夫だった?」


「私?」


「うん。」


「何で私が聞かれるの。」


「いや……。」


 ひまりは少し困ったように笑った。


「美咲、いつも心配してくれるから。」


「大丈夫だよ。」


「そっか。」


「ひまりこそ大丈夫なの?」


「うん。」


「ならいい。」


 会話が止まる。


 紗奈が二人を交互に見る。


「昨日さ。」


「ん?」


 紗奈がひまりへ言う。


「何がきっかけだったの?」


 美咲が顔を上げた。


「紗奈。」


「え、聞いちゃ駄目だった?」


「いや……。」


 ひまりは少し考えた。


「自分でもよく分かんない。」


「急になるの?」


「うん。」


「怖いね。」


「慣れたけどね。」


 ひまりは笑った。


 紗奈はそれ以上聞かなかった。


 琴音も黙っていた。


「でも。」


 美咲が言った。


「昨日、仲間外れって聞いたときだったよね。」


 ひまりの手が止まった。


 ほんの一瞬だった。


「……そうだっけ。」


「うん。」


「覚えてないや。」


「そっか。」


 美咲はそれ以上追及しなかった。


 ひまりもすぐに別の話を始めた。


「そういえば琴音、英語やった?」


「今それ言う?」


「朝、美咲に泣きついてたじゃん。」


「泣きついてない。」


「見てたよ。」


「ひまり最近、秋月くんばっか見てるのかと思ってた。」


 琴音は冗談のつもりだった。


「ちょっと。」


 ひまりが笑う。


「何それ。」


「だって最近ずっと一緒じゃん。」


「別に普通だよ。」


「夜も電話してるんでしょ?」


 ひまりの笑顔が止まった。


 琴音も言ってから気付いたらしい。


「あ。」


 美咲が琴音を見る。


「……琴音。」


「ごめん。」


 ひまりが美咲を見る。


「話したの?」


「……うん。」


「そっか。」


「ごめん。」


「別に。」


 ひまりは笑った。


「隠すようなことでもないし。」


 そう言って弁当を食べる。


 紗奈が美咲を見る。


 美咲は何も言わなかった。


 少しして、ひまりが立ち上がった。


「飲み物買ってくる。」


「私も行く?」


 紗奈が聞く。


「大丈夫。」


 ひまりは財布だけ持って教室を出た。


 ドアが閉まる。


 三人の間に、短い沈黙が落ちた。


「……ごめん。」


 琴音が小さく言う。


「私、言っちゃ駄目なやつだと思ってなかった。」


「私も言ってなかった。」


 美咲が答える。


「別にいいよ。」


「でも。」


「ひまりも隠すようなことじゃないって言ってたじゃん。」


「うん。」


 琴音は少し気まずそうに弁当へ目を落とした。


 紗奈だけが教室のドアを見る。


「美咲。」


「何?」


「昨日のこと、ひまりと話した?」


「昨日のこと?」


「秋月くん呼んだやつ。」


「話してない。」


「いいの?」


「何を話すの?」


 紗奈は少し考える。


「いや。」


「本人が秋月くんの方がいいなら、それでいいじゃん。」


 美咲は笑った。


「私が無理に行っても仕方ないし。」


「……そっか。」


「うん。」


 それ以上、誰も何も言わなかった。


 ひまりが戻ってきたのは数分後だった。


「ただいま。」


「おかえり。」


 いつも通りだった。


 午後の授業が終わり、放課後になる。


 ひまりは美咲の席へ行った。


「今日、一緒に帰る?」


 美咲は少し驚いた顔をした。


「いいの?」


「何が?」


「秋月くんは?」


「何で秋月くんが出てくるの。」


「いや、最近一緒だったから。」


「毎日じゃないよ。」


「そっか。」


 美咲は少し笑った。


「じゃあ帰ろ。」


「うん。」


「紗奈は?」


「今日は部活。」


「琴音は?」


「委員会だって。」


「じゃあ二人だ。」


 ひまりが嬉しそうに笑った。


 久しぶりに、二人だけで校門を出た。


「なんか久しぶりだね。」


 ひまりが言う。


「そう?」


「うん。」


「数日じゃん。」


「数日でも久しぶり。」


 駅へ向かう道を歩く。


 最初は学校の話をした。琴音が英語の課題を忘れたこと。紗奈が授業中に寝て教師に当てられたこと。榊が体育で転んだこと。


 どれもいつもの話だった。


 駅前が見えてきた頃、美咲が口を開いた。


「ひまり。」


「ん?」


「昨日さ。」


「うん。」


「私が最初に行ったの、覚えてる?」


 ひまりの歩く速度が少し落ちる。


「……うん。」


「覚えてるんだ。」


「それくらいは。」


「そっか。」


「ごめん。」


「何で謝るの。」


「だって。」


「別に怒ってないよ。」


「でも。」


「秋月くんの方が安心するんでしょ?」


 ひまりは答えなかった。


「いいじゃん。」


 美咲は前を向いたまま言う。


「そういう人がいるなら。」


「美咲。」


「何?」


「違うよ。」


「何が?」


「美咲じゃ駄目とかじゃない。」


「うん。」


「ほんとに。」


「知ってる。」


 美咲は笑った。


「でも、秋月くんなんでしょ?」


 ひまりはまた答えられなかった。


「ほら。」


「……ごめん。」


「だから謝らないでって。」


 美咲は少しだけ歩く速度を上げた。


 ひまりも追いつく。


「美咲。」


「何。」


「怒ってる?」


「怒ってない。」


「最近そればっかじゃん。」


「ひまりもそればっかじゃん。」


 二人とも黙った。


 信号が赤になる。


 横断歩道の前で立ち止まる。


 車が目の前を何台も通り過ぎていった。


「私さ。」


 美咲が言う。


「ひまりのこと、結構知ってるつもりだった。」


 ひまりは黙って聞いている。


「好きな食べ物も知ってるし、嫌いな先生も知ってるし、朝弱いのも知ってるし。」


「うん。」


「フラバしたときどうすればいいかも、分かってきたつもりだった。」


「……うん。」


「でも全然知らなかった。」


 信号が青になる。


 周りの人たちが歩き始める。


 二人だけが一瞬その場に残った。


「美咲。」


「行こ。」


 美咲が歩き出す。


 ひまりもその隣を歩く。


「何が知りたい?」


 美咲が足を止めた。


「え?」


「私のこと。」


 ひまりが美咲を見る。


「聞いてよ。」


「……何でも?」


「うん。」


「じゃあ。」


 美咲は少し考えた。


「前の学校で、何があったの?」


 ひまりの顔から。


 笑顔が消えた。


「転校した理由。」


 美咲は続ける。


「まだ聞いたことなかったじゃん。」


「……。」


「聞いていい?」


 ひまりは答えなかった。


 駅前を歩く人たちが、二人の横を通り過ぎていく。


「……ごめん。」


 やっと出てきた言葉は、それだった。


「それは、まだ。」


 美咲はひまりを見た。


「そっか。」


「ごめん。」


「うん。」


 美咲は笑った。


「分かった。」


 また歩き始める。


 ひまりもそのあとを追った。


 二人は駅まで一緒に帰った。


 改札の前では、いつものように手を振った。


「また明日。」


「うん。また明日。」


 美咲は笑っていた。


 ひまりも笑った。


 その夜。


 遼のスマートフォンが鳴った。


『もしもし。』


「うん。」


『今日、美咲と帰った。』


「よかったじゃん。」


『うん。』


「仲直りした?」


『分かんない。』


「何それ。」


『前の学校のこと聞かれた。』


 遼は黙った。


『転校した理由。』


「言ったの?」


『言えなかった。』


「そっか。」


『……秋月くん。』


「何。」


『聞かないの?』


「何を。」


『前の学校のこと。』


 遼は少し考えた。


「夏川が言いたくないなら、いいよ。」


 電話の向こうが静かになる。


『……何で?』


「何でって。」


『普通、気になるじゃん。』


「気にはなる。」


『じゃあ聞いてよ。』


「言いたくないんだろ。」


『……うん。』


「ならいいじゃん。」


 また沈黙した。


『秋月くんって、変だね。』


「夏川に言われたくない。」


『それ初めて会ったときも言った。』


「覚えてる。」


『私も。』


 少しだけ、ひまりが笑った。


 その夜、美咲が聞いても教えてもらえなかったことを。


 遼も知らなかった。


 けれど遼は、それを知らなくてもいいと言った。


 そしてひまりは。


 そのことに、ひどく安心していた。

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