第38話 秋月くん…。
翌日の昼休み、美咲は紗奈と琴音と一緒にいた。
「ひまり、今日どうする?」
紗奈が弁当箱を机へ置きながら聞く。
「どうするって?」
「一緒に食べる?」
「ああ。」
美咲は教室の後ろを見る。ひまりはまだ自分の席にいた。鞄の中を探りながら、何かを榊と話している。
「別にいいんじゃない?」
「じゃあ呼ぶ?」
琴音が立ち上がろうとする。
「私呼んでくる。」
「あ、いいよ。」
美咲が言った。
「ん?」
「ひまり、最近あっちで食べてるし。」
紗奈が少しだけ首を傾げる。
「でも聞くだけ聞けばよくない?」
「じゃあ聞けば。」
「何その言い方。」
「普通だけど。」
美咲は笑った。
紗奈もそれ以上は何も言わず、ひまりへ声を掛ける。
「ひまりー。」
「ん?」
「今日こっちで食べる?」
ひまりは一瞬だけ三人を見る。
机はすでに寄せられていた。
美咲がいる。紗奈がいる。琴音がいる。
「あー……。」
ひまりは少し迷った。
「ごめん、今日もあっちで食べる。」
「了解。」
紗奈はあっさり答えた。
「また今度ね。」
「うん!」
ひまりは笑う。
それから弁当箱を持って、遼たちの方へ歩いていった。
美咲は何も言わなかった。
「やっぱあっちだったね。」
琴音が言う。
「最近ずっとじゃない?」
「まあ、いいんじゃない。」
美咲は弁当箱を開ける。
「本人があっちで食べたいなら。」
紗奈が美咲を見る。
「まだ気にしてる?」
「何を?」
「昨日の話。」
「気にしてないよ。」
「ならいいけど。」
「ほんとに。」
美咲は笑った。
教室の後ろでは、ひまりが榊の机を借りていた。
「今日卵焼きないじゃん。」
「第一声それ?」
「期待してたのに。」
「知らないよ。」
「昨日まであったじゃん。」
「毎日入ってると思うなよ。」
「じゃあ明日入れてきて。」
「俺が作ってるんじゃないって言っただろ。」
「お母さんに頼んで。」
「何て言うんだよ。」
「夏川さんが食べたがってますって。」
「絶対言わない。」
「何で。」
「何で俺がお前のために母親へ卵焼き発注するんだよ。」
「友達だから?」
「疑問形じゃん。」
榊がパンを食べながら二人を見る。
「お前ら最近ずっとそれやってるな。」
「何を?」
ひまりが聞く。
「知らん。夫婦漫才みたいなやつ。」
「え。」
ひまりが止まる。
遼も一瞬黙った。
「……榊くん。」
「何。」
「そういうこと言う人だった?」
「何で俺が怒られてんだよ。」
「今のは榊が悪いだろ。」
「秋月まで?」
「普通に気持ち悪い。」
「ひどくね?」
榊が笑う。
ひまりも遅れて笑った。
「榊くん、セクハラ。」
「どこがだよ。」
教室の前でも笑い声が起きる。
美咲たちだった。
別々の場所で、別々の話をして、同じように笑っている。
それだけだった。
五時間目は数学だった。
教師が黒板へ数式を書き続ける中、遼は窓の外を眺めていた。曇り空だった。朝から気温が低く、窓も閉め切られている。
「じゃあ、ここ。」
教師が教科書を閉じる。
「隣同士で答え確認して。」
教室が一斉にざわついた。
机が動く。
椅子が擦れる。
誰かが後ろを向く。
「紗奈、見せて。」
「嫌だよ。」
「お願い。」
「琴音に見せてもらえば?」
「琴音も分かってない。」
「巻き込まないでよ。」
笑い声が上がる。
その少し後ろで、男子が声を上げた。
「お前だけ入れてもらえてないじゃん。」
「うるせえ。」
「仲間外れじゃん。」
「やめろって。」
笑いながら肩を叩く。
誰も本気ではなかった。
言われた男子自身も笑っている。
「先生、こいつら俺だけ答え見せてくれません。」
「自分で解け。」
「先生まで仲間外れにしてくる。」
また笑いが起きた。
遼も何となくそちらを見る。
その途中で、視線が止まった。
ひまりだった。
笑っていなかった。
シャープペンシルを持ったまま、机を見ている。
「ひまり?」
隣の女子が声を掛ける。
返事がない。
遼はひまりを見る。
指先が震えていた。
「ひまり。」
もう一度呼ばれる。
ひまりが小さく息を吸った。
速い。
一度。
二度。
肩が上下する。
「先生。」
女子の声で、教室の空気が少し変わった。
「夏川さん、なんか……。」
教師が黒板から振り返る。
「夏川?」
ひまりは答えない。
美咲が立ち上がった。
「ひまり。」
すぐに隣まで行く。
「大丈夫?」
ひまりの肩へ手を伸ばす。
「ひまり、私分かる?」
その瞬間、ひまりが椅子を引いた。
美咲の手が止まる。
「……ごめ。」
「いいから。」
「違……。」
ひまりが立とうとする。
足に力が入らない。
「無理に立たなくていいよ。」
美咲が腕を支えようとした。
ひまりはまた一歩下がった。
「ひまり?」
教室が静かになっていた。
教師も近付いてくる。
「夏川、保健室行けるか?」
返事はない。
ひまりの視線が教室を彷徨う。
美咲。
教師。
紗奈。
琴音。
神谷。
榊。
そして。
「……秋月くん。」
小さな声だった。
遼は立ち上がっていた。
「うん。」
ひまりがこちらを見る。
焦点の合わなかった目が、そこで止まった。
「秋月くん……。」
「いるよ。」
遼はひまりのところまで歩いた。
「大丈夫。」
何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。
ひまりの手が伸びる。
遼の制服の袖を掴んだ。
強かった。
指先が白くなるくらい、強く握っている。
「夏川。」
「……。」
「保健室行こう。」
ひまりが小さく頷く。
遼は教師を見る。
「連れていきます。」
「ああ。頼む。」
「俺も行こうか?」
神谷が立ち上がる。
教師が首を振った。
「秋月がいるなら大丈夫だろ。お前は授業戻れ。」
「分かりました。」
神谷は素直に座った。
榊も遼を見る。
「秋月。」
「何。」
「鞄持ってく?」
「いや、いい。」
「じゃあ後で持ってくわ。」
「ありがと。」
ひまりはまだ袖を離さない。
遼はそのまま教室の外へ歩き始めた。
廊下へ出る。
ひまりもついてくる。
ゆっくり。
一歩ずつ。
教室のドアが閉まった。
美咲は自分の席へ戻った。
「藤沢さん、大丈夫?」
教師が聞く。
「え?」
「いや。夏川さんのこと。」
「あ……はい。」
美咲は笑った。
「いつものことなので。」
席に座る。
「じゃあ授業戻るぞ。」
教師が黒板へ戻る。
少しずつ教室にも声が戻ってきた。
「びっくりした。」
「前にもあったよね。」
「大丈夫かな。」
そんな声が聞こえる。
「美咲。」
紗奈が小さく呼んだ。
「何?」
「大丈夫?」
「だから大丈夫だって。」
「いや、ひまりじゃなくて。」
美咲は紗奈を見る。
「私?」
「うん。」
「何で?」
紗奈は答えなかった。
美咲も、それ以上聞かなかった。
教科書へ目を落とす。
数式が並んでいる。
何も頭に入ってこなかった。
「……私が最初に行ったのに。」
「美咲。」
「何でもない。」
琴音が少し心配そうにこちらを見る。
美咲はシャープペンシルを持ち直した。
「授業聞こ。」
それで終わった。
廊下では、ひまりが遼の袖を握ったまま歩いていた。
「夏川。」
「……うん。」
「もう少しで保健室。」
「うん。」
「歩ける?」
「歩ける。」
声は震えていた。
それでも、さっきより呼吸は少し落ち着いている。
保健室の前まで来たところで、ひまりが足を止めた。
「どうした?」
「……ごめん。」
「何が。」
「また。」
「別にいいよ。」
「授業中なのに。」
「数学嫌いだからちょうどいい。」
ひまりがほんの少し笑った。
「怒られるよ。」
「夏川のせいにする。」
「最低。」
「笑えるなら大丈夫そうじゃん。」
「……うん。」
ひまりは袖を離した。
遼は自分の腕を見る。
制服の布に皺が残っていた。
「秋月くん。」
「何。」
「いてくれてよかった。」
「うん。」
それだけだった。
遼は保健室のドアを開けた。
その日の放課後。
「秋月。」
榊が隣を歩きながら言った。
「今日の夏川、結構やばかったな。」
「うん。」
「でもさ。」
「何。」
「お前のこと呼んだら、ちょっと落ち着いたじゃん。」
遼は黙って歩く。
「やっぱお前が一緒にいた方がいいのかもな。」
「……そうかな。」
「だろ。」
榊は何でもないことのように言った。
「藤沢も心配してるけどさ。こういうのって相性あるじゃん。」
「相性。」
「知らんけど。」
「適当だな。」
「俺、専門家じゃねえし。」
榊が笑う。
遼も少しだけ笑った。
「まあでも。」
榊が前を向いたまま言う。
「頼られてんじゃん、お前。」
「……うん。」
その言葉が、妙に残った。
頼られている。
嬉しいと思ってはいけないような気がした。
ひまりが苦しんでいるのだから。
今日だって、本当なら何も起きない方がよかった。
美咲の手を取っていたとしても、それで落ち着くならその方がよかったはずだった。
そう思う。
ちゃんと思う。
それでも遼は、帰宅して制服を脱ぐとき。
袖に残った皺を見た。
ひまりが掴んでいた場所だった。
無意識に、指でそこへ触れた。
ほんの少しだけ。
胸が高鳴った。




