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第37話 それはちょっと嫌かも

 翌朝、ひまりはいつもより少し早く教室へ来た。


「おはよー。」


 声はいつも通りだった。何人かが「おはよう」と返す。その中に美咲もいた。


「おはよ。」


「美咲。」


「ん?」


「昨日、ごめんね。」


 美咲は鞄から教科書を取り出す手を止めた。


「何が?」


「電話のこと。黙ってたの。」


「ああ。」


「言えばよかった。」


「……うん。」


 ひまりは少しだけ美咲の顔を窺う。


「怒ってる?」


「もう怒ってないよ。」


「ほんと?」


「ほんと。」


 美咲は笑った。ひまりも安心したように笑う。


「よかった。」


「でも次からは言ってよ。」


「うん。」


「別に秋月くんと電話するなって言ってるわけじゃないんだから。」


「分かってる。」


「ならいい。」


 それで話は終わった。


 少なくとも、ひまりにはそう見えた。


「美咲ー。」


 教室の前から女子生徒が声を掛ける。


「昨日の英語やった?」


「あ、紗奈。やったよ。」


「見せて。」


「自分でやれ。」


「お願い。」


「嫌。」


「琴音ー、美咲が冷たい。」


 その後ろにいた女子が笑う。


「紗奈が悪いでしょ。昨日やるって言ってたじゃん。」


「昨日の私は今日の私じゃないから。」


「何それ。」


 三人が笑った。


 ひまりもつられて笑う。


「紗奈、またやってないの?」


「ひまりまで敵?」


「昨日ちゃんとやりなって言ったじゃん。」


「四面楚歌。」


「三人しかいないよ。」


「細かい。」


 いつもの会話だった。


 紗奈も琴音も、ひまりが転校してきた頃から普通に話しているクラスメイトだった。美咲ほど一緒にいる時間が長いわけではないが、昼休みに同じ机を囲むこともある。


 だから、何も変わっていない。


 ホームルームが始まるまで四人で話し、担任が入ってくればそれぞれの席へ戻った。


 遼はその様子を後ろから見ていた。


「何だ。」


 前の席へ座った榊が振り返る。


「仲直りしたっぽいじゃん。」


「みたいだな。」


「昨日の今日で早いな。」


「いいことだろ。」


「まあな。」


 榊は前を向いた。


 遼も教科書を出す。


 少しだけ安心していた。


 昼休みになった。


「美咲。」


 ひまりが弁当箱を持って立ち上がる。


「食べよ。」


「あ、うん。」


 美咲も弁当箱を出す。


 そこへ紗奈がやって来た。


「今日そっちで食べていい?」


「いいよ。」


「琴音も来るって。」


「じゃあ机くっつけよ。」


 三人が机を動かし始める。


「ひまりも食べるでしょ?」


 紗奈が聞いた。


「うん。」


 ひまりは一度頷いた。


 そのとき、教室の後ろから声が飛んできた。


「夏川。」


「ん?」


 榊だった。


「秋月の弁当、今日も卵焼きあるぞ。」


「何でお前が勧めるんだよ。」


 遼が言う。


「昨日うまいって言ってたじゃん。」


「榊くん、それ私の卵焼きじゃないからね?」


「知ってるよ。」


 ひまりが笑う。


「今日もあるの?」


「あるけど。」


「一個。」


「自分の弁当食えよ。」


「一個だけ。」


「昨日も一個食っただろ。」


「今日の私は昨日の私じゃないから。」


「紗奈の真似すんな。」


 教室の前から紗奈が笑った。


「ひまり、それ私の!」


「借りた。」


「使用料、卵焼き半分。」


「秋月くん、二個。」


「増えてるじゃん。」


 また笑いが起きる。


 ほんの少しして、ひまりが自分の弁当箱を見た。それから美咲たちを見る。


「あ。」


「何?」


 美咲が聞く。


「いや。」


 ひまりは少し迷った。


「今日、あっちで食べてもいい?」


 美咲の表情は変わらなかった。


「いいよ。」


「ごめん。」


「何で謝るの。」


「いや、何となく。」


「別に好きなとこで食べればいいじゃん。」


「うん。」


 ひまりは笑って、遼たちの方へ向かった。


「お邪魔しまーす。」


「ほんとに来た。」


 榊が笑う。


「呼んだの榊くんじゃん。」


「卵焼きだけのつもりだったんだけど。」


「じゃあ帰る。」


「嘘嘘。」


 遼が前の机を少し動かす。


「そこ座れば。」


「ありがと。」


 ひまりが座る。


 それだけだった。


 教室の前では、美咲たちも弁当を開いていた。


「ひまり、あっちなんだ。」


 琴音が何気なく言う。


「最近よく食べてるよ。」


 美咲が答えた。


「へえ。」


 琴音はそれ以上何も言わない。


 紗奈が弁当箱を開けながら、ひまりたちを見る。


「楽しそうじゃん。」


「うん。」


 美咲も一度だけそちらを見た。


 ひまりが笑っている。


 榊が何かを言っている。


 遼も笑っている。


「……仲いいよね。」


 美咲が言った。


「秋月くんと?」


 琴音が聞く。


「うん。」


「まあ、転校してきた時から結構喋ってなかった?」


「そうだけど。」


 美咲は箸を動かす。


「昨日も二人で本屋行ってたし。」


「え、そうなの?」


「うん。」


「付き合ってんの?」


 紗奈が笑いながら聞く。


「知らない。」


「美咲が知らないなら誰も知らないじゃん。」


「私、何でも知ってるわけじゃないから。」


 その言い方だけが、少し硬かった。


 紗奈が顔を上げる。


「何かあった?」


「別に。」


「その別には何かあるやつじゃん。」


「ほんとに何もないよ。」


「ふーん。」


 紗奈は深く聞かなかった。


 琴音も何も言わない。


 しばらく三人で弁当を食べる。


「でもさ。」


 ことねが小さく言った。


「美咲、昨日もひまりと帰ってなかったよね。」


「うん。」


「喧嘩した?」


 美咲は少し黙った。


「……ちょっとだけ。」


「やっぱり。」


「もう仲直りしたよ。」


「ならいいじゃん。」


 紗奈が言う。


「うん。」


 美咲も頷いた。


 そこで終わればよかった。


 けれど少しして、美咲は自分から口を開いた。


「たださ。」


「ん?」


「私に黙ってたことがあって。」


 紗奈と琴音が美咲を見る。


「何を?」


「……秋月くんと、夜に電話してること。」


「へえ。」


 紗奈は思ったより薄い反応だった。


「それだけ?」


「それだけっていうか。」


「いや、付き合ってないなら別によくない?」


「私も電話すること自体は別にいいの。」


「じゃあ何?」


 美咲は箸を止める。


「前に聞いたことあるんだよね。」


「本人に?」


「秋月くんに。」


「何て?」


「夜、ひまりと連絡取ってるのって。」


「うん。」


「取ってないって言われた。」


 紗奈の表情が少し変わった。


「嘘つかれてたってこと?」


「ひまりに言わないでって言われてたんだって。」


「あー……。」


 今度は反応が違った。


「それはちょっと嫌かも。」


 琴音が言った。


 美咲はすぐに続ける。


「でしょ?」


 自分でも気付かないくらい、早い返事だった。


「別に電話はいいんだよ。本当に。」


「うん。」


「でも私、ひまりが夜とか一人で大丈夫なのかなって、ずっと心配してたの。」


 紗奈は黙って聞いている。


「本人に聞いても大丈夫って言うし。だから私も、それ以上聞かないようにしてた。」


「うん。」


「なのに秋月くんには電話してた。」


「そっか。」


「それがちょっと……。」


 美咲は言葉を探した。


「何なんだろって。」


 琴音が小さく頷く。


「それは嫌だと思う。」


「だよね。」


「うん。私でもちょっと寂しいかも。」


 美咲は少しだけ安心したような顔をした。


 紗奈はまだひまりたちの方を見ていた。


「でも、ひまりにも何か理由あったんじゃない?」


「心配させたくなかったって。」


「じゃあそれじゃない?」


「……うん。」


「仲直りしたんでしょ?」


「した。」


「ならまあ、いいじゃん。」


「そうだね。」


 美咲は笑った。


 話はそこで終わった。


 誰もひまりの悪口を言っていない。


 紗奈はむしろひまりを庇った。


 ことねも、美咲が寂しかったことに共感しただけだった。


 三人はそのあと、数学の教師の話をして笑った。


 教室の反対側では、ひまりが遼の弁当箱を覗き込んでいた。


「今日の卵焼き、昨日より甘い。」


「同じだろ。」


「違う。」


「作った人同じだぞ。」


「じゃあ気分。」


「適当だな。」


「秋月くんも食べてみて。」


「俺の弁当なんだけど。」


「確かに。」


 ひまりが笑う。


 遼も笑った。


 その日の午後、何かが変わったようには見えなかった。


 美咲とひまりは普通に話した。


 紗奈も琴音も、ひまりに話しかけた。


 放課後には四人で教師の悪口を言って笑っていた。


 だから、誰も気付かなかった。


 昼休みのあの短い会話が、初めてだったことに。


 ひまりのいないところで。


 ひまりとの関係について、美咲が誰かに話したのは。

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