第36話 嘘じゃん
「夜に?」
美咲の声は、別に強くなかった。ただ、さっきまで笑っていた顔から少しだけ表情が消えていた。
「……うん。」
ひまりは小さく頷く。
「昨日だけ?」
「え?」
「電話。昨日だけ?」
ひまりは答えなかった。その沈黙だけで、美咲には十分だったらしい。
「前からしてたんだ。」
「……うん。」
「どれくらい前から?」
「美咲。」
「別に怒ってないよ。聞いただけ。」
そう言いながら、美咲は笑った。ただ、その笑い方がいつもより少し固い。
「結構前から?」
「……まあ。」
「毎日?」
「毎日じゃないけど。」
遼は自分の席から二人を見ていた。教室にはまだ生徒が少ない。榊も来ていない。聞こえていないふりをするには、あまりにも静かだった。
「ふーん。」
美咲はそれだけ言うと、自分の鞄から教科書を取り出した。
「仲いいんだね。」
「いや、そういうんじゃなくて。」
「そういうのって何?」
「だから……。」
ひまりが言葉に詰まる。
美咲は教科書を机へ置いた。
「私、前に秋月くんに聞いたんだけど。」
遼の身体がわずかに固くなる。
ひまりもこちらを見た。
「……何を?」
「ひまりと夜、連絡取ってるのって。」
遼は思い出した。
美咲に聞かれたことがある。
ひまりが夜に不安定になることを、美咲が心配していた頃だった。
そして自分は答えた。
取っていない、と。
「あのとき秋月くん、取ってないって言ったよね。」
「……言った。」
美咲が遼を見る。
「嘘だったの?」
「うん。」
短く答えた。
「何で?」
遼はひまりを見る。
ひまりは俯いていた。
「夏川が言わないでって言ったから。」
美咲の視線が、ゆっくりひまりへ戻る。
「ひまりが?」
「……うん。」
「何で?」
ひまりはすぐには答えなかった。
「何で私に言わないでって言ったの?」
「それは……。」
「私に知られたくなかった?」
「違う。」
「じゃあ何?」
「美咲が心配するから。」
美咲が一度だけ瞬きをした。
「心配するから?」
「うん。」
「だから嘘ついたの?」
「嘘っていうか。」
「嘘じゃん。」
ひまりが黙る。
美咲の声はまだ静かだった。
「私さ。」
「うん。」
「前にひまりに言ったよね。夜とか、一人でしんどくなってないか心配だって。」
「……うん。」
「そのとき、大丈夫って言ったよね。」
「言った。」
「でも秋月くんには電話してたんだ。」
「毎回そういう電話じゃないよ。」
「そういう電話もあったんでしょ?」
ひまりは答えなかった。
また沈黙が答えになった。
美咲は小さく息を吐いた。
「そっか。」
「美咲。」
「分かった。」
「待って。」
「何?」
「怒ってるじゃん。」
「怒ってないよ。」
「絶対怒ってる。」
「じゃあ何て言えばいいの?」
初めて、美咲の声が少しだけ大きくなった。
近くにいた生徒が一瞬こちらを見る。
美咲はそれに気付き、声を落とした。
「……ごめん。」
「美咲。」
「私、何だったんだろって思っただけ。」
ひまりの顔から笑顔が消えた。
「何だったって。」
「ずっと心配してたじゃん。」
「知ってる。」
「保健室行ったときも、朝礼で固まったときも、昨日だって課題教えて。」
「分かってるよ。」
「でも本当にしんどいときは秋月くんに電話するんでしょ?」
「それとこれは違う。」
「何が違うの?」
ひまりは答えようとして、止まった。
遼にはその理由が分かった。
数日前、電話で自分には言った。
美咲は美咲。
秋月くんは秋月くん。
同じじゃない。
でも、それを今ここで美咲に言えるはずがなかった。
「……分かんない。」
ひまりはそう答えた。
「でも、美咲が嫌だから言わなかったんじゃない。」
「うん。」
「ほんとに。」
「分かったって。」
「分かってないじゃん。」
「じゃあどうすればいいの?」
美咲がひまりを見る。
「電話するなって言えばいい?」
「そんなこと言ってない。」
「秋月くんと仲良くするなって?」
「言ってないじゃん!」
「じゃあ何。」
「だから。」
美咲が一度言葉を止めた。
「……何で私だけ知らなかったのって思っただけ。」
その声は、怒っているというより寂しそうだった。
ひまりも何も言えなくなった。
ちょうどそのとき、教室のドアが開く。
「おはよ。」
榊だった。
教室へ入ってきて、三人の空気を見て足を止める。
「……何。」
「何でもない。」
美咲が答えた。
「おはよ。」
「あ、うん。おはよ。」
榊は明らかに何かを感じ取っていたが、それ以上聞かなかった。
始業まであと十分ほどだった。少しずつ生徒が増え、教室が騒がしくなっていく。
美咲はそれ以上何も言わなかった。
ひまりも話しかけなかった。
朝のホームルームが始まる頃には、二人ともいつもの顔に戻っていた。
少なくとも、周りから見れば。
昼休み。
「美咲、購買行こ。」
ひまりが声を掛けた。
美咲は一瞬だけひまりを見る。
「あ、ごめん。」
「ん?」
「今日お弁当。」
机の横から弁当箱を取り出す。
「あ、そっか。」
「うん。」
「じゃあ私だけ行ってくる。」
「いってらっしゃい。」
それだけだった。
ひまりは財布を持って教室を出る。
遼はその様子を見ていた。
「秋月。」
「何。」
「朝、何かあった?」
榊が小声で聞く。
「何で。」
「何でって、空気すごかったじゃん。」
「ちょっとな。」
「喧嘩?」
「たぶん。」
「また?」
「……うん。」
榊は小さくため息をついた。
「女子って大変だな。」
「そういう問題かな。」
「知らんけど。」
榊はパンの袋を開ける。
「お前も関係ある?」
遼は少しだけ黙った。
「ある。」
「あるのかよ。」
「まあ。」
「何したんだよ。」
「何も。」
「一番信用できない答えじゃん。」
遼は苦笑した。
しばらくして、ひまりが購買から戻ってくる。
パンを二つ持っていた。
いつもなら、そのまま美咲のところへ行く。
今日は少し迷ってから、自分の席へ座った。
一人で袋を開ける。
美咲は少し離れた席で、別の女子と弁当を食べていた。
別に無視しているわけではない。
ひまりが話しかければ、きっと返事もするだろう。
ただ、隣にいない。
それだけだった。
「夏川。」
気付けば遼は声を掛けていた。
「ん?」
「こっち来れば。」
ひまりが遼を見る。
その隣には榊もいる。
「いいの?」
「別に。」
「じゃあ行く。」
ひまりはパンを持ってやって来た。
「榊くん、お邪魔します。」
「どうぞどうぞ。俺の机じゃないけど。」
「何食べてるの?」
「カレーパン。」
「一口ちょうだい。」
「嫌だよ。」
「けち。」
「お前ら女子、すぐ人の食い物狙うじゃん。」
「偏見。」
「この前藤沢にもポテト取られたぞ。」
「美咲ならやる。」
ひまりが笑った。
その名前が出た瞬間だけ、少し笑顔が弱くなった。
遼は気付いた。
榊は気付かなかったらしい。
「秋月は?」
「弁当。」
「何入ってる?」
「見る?」
「見る。」
ひまりが身を乗り出す。
「卵焼きある。」
「あるね。」
「一個ちょうだい。」
「……取れよ。」
「いいの?」
「一個だけ。」
「やった。」
ひまりは自分の箸を取り出し、遼の弁当箱から卵焼きを取った。
「うま。」
「俺が作ったわけじゃないけど。」
「じゃあ秋月くんのお母さんに伝えといて。」
「何て。」
「卵焼きおいしかったですって。」
「誰って聞かれるだろ。」
「クラスの可愛い女の子。」
「自分で言うな。」
「事実。」
「はいはい。」
榊が呆れた顔をする。
「お前ら、朝の空気どこ行ったんだよ。」
二人とも一瞬黙った。
「……榊くん。」
「何。」
「余計なこと言わない。」
「俺が悪いの?」
「今は。」
「理不尽じゃん。」
ひまりが笑う。
遼も笑った。
昼休みは、そのまま三人で過ごした。
美咲は一度もこちらへ来なかった。
放課後。
ひまりは帰り支度をしながら、何度か美咲の方を見ていた。
美咲は別の女子二人と話している。
「美咲。」
ひまりが呼ぶ。
「ん?」
「今日、一緒に帰る?」
「あー……。」
美咲は少しだけ困ったように笑った。
「ごめん。今日、紗奈たちと駅前寄る。」
「あ、そうなんだ。」
「うん。」
「じゃあまた明日。」
「また明日。」
美咲は普通に手を振った。
ひまりも手を振り返した。
それだけだった。
誰も怒鳴っていない。
無視もしていない。
悪口も言っていない。
美咲はただ、別の友達と帰った。
ひまりは少しだけその背中を見送ると、遼の方を向いた。
「秋月くん。」
「何。」
「帰ろ。」
遼は一瞬、美咲が出ていったドアを見る。
「うん。」
二人で教室を出た。
駅までの道で、ひまりはいつもよりよく喋った。数学の参考書を四ページやるとか、今日の授業が眠かったとか、購買のパンが微妙だったとか、本当にどうでもいいことばかりだった。
遼も普通に返した。
美咲の話は出なかった。
駅で別れるとき、ひまりはいつものように言った。
「またあとでね。」
「うん。」
笑っていた。
遼も手を振った。
その夜、十一時を少し過ぎた頃に電話が来た。
『もしもし。』
「もしもし。」
『何してた?』
「動画見てた。」
『また?』
「悪い?」
『勉強しなよ。』
「四十二点の友達がいるお前に言われたくない。」
『それ榊くんじゃん。』
「似たようなもんだろ。」
『失礼すぎ。』
ひまりが笑う。
少し話した。
いつものように。
十分ほど経った頃、電話の向こうが静かになった。
「夏川?」
『ん?』
「何。」
『何が?』
「急に黙ったじゃん。」
『……別に。』
「そっか。」
遼はそれ以上聞かなかった。
また少し沈黙する。
『秋月くん。』
「うん。」
『今日さ。』
「うん。」
『美咲と喧嘩したのかな。』
「……どうだろ。」
『喧嘩って、もっと怒るじゃん。』
「人によるだろ。」
『でも普通に喋ってくれたし。』
「うん。」
『無視もされてないし。』
「うん。」
『じゃあ喧嘩じゃないよね。』
遼は答えなかった。
『……ねえ。』
「何。」
『私、何か悪いことした?』
その声は、昼間とは違っていた。
教室ではずっと笑っていた。
帰り道でも笑っていた。
今は笑っていなかった。
遼は少し考える。
「嘘ついたこと?」
『うん。』
「それは謝った方がいいんじゃない。」
『やっぱそうだよね。』
「でも。」
『うん。』
「夏川が俺と電話すること自体は、悪いことじゃないだろ。」
向こうが静かになる。
『……うん。』
「誰と電話するかなんて自由じゃん。」
『うん。』
「美咲が嫌いだから黙ってたわけでもないんだろ。」
『違う。』
「じゃあ、それはちゃんと言えばいい。」
『言った。』
「もう一回言えば。」
『しつこくない?』
「知らない。」
『適当。』
「俺、美咲じゃないし。」
『それはそう。』
ひまりが少しだけ笑った。
遼はその笑い声を聞いて安心した。
『ありがと。』
「何が。」
『話聞いてくれて。』
「別に。」
『秋月くんってさ。』
「うん。」
『私の味方?』
遼は少し黙った。
難しい質問ではなかった。
「まあ。」
『まあって何。』
「味方だよ。」
『ほんと?』
「うん。」
『何があっても?』
遼は天井を見た。
「何があっても、は知らない。」
『そこは言ってよ。』
「重いだろ。」
『けち。』
「でも今は。」
『うん。』
「夏川の味方。」
電話の向こうから、小さく息を吐く音がした。
『……そっか。』
「うん。」
『よかった。』
その声を聞いた瞬間。
遼は、自分でも嫌になるくらい安心した。
美咲がひまりの隣に戻ればいいと思っている。
本当にそう思っている。
明日になれば二人で購買へ行って、くだらないことで笑っていてほしい。
それなのに。
今日一日、ひまりが何度も自分のところへ来たことを。
昼休みに自分の隣で食べたことを。
放課後に自分と帰ったことを。
夜になって、自分へ電話を掛けてきたことを。
嬉しいと思っていた。
そして、その気持ちを。
遼はまだ、誰にも言うつもりはなかった。




