第35話 放課後のポテト
本屋は駅前の商業ビルの三階にあった。学校から歩いて十五分ほど。ひまりと二人で来るのは初めてだった。
「参考書ってどこ?」
「知らない。」
「秋月くん頭いいんだから案内してよ。」
「本屋の店員じゃないんだけど。」
「八十一点。」
「それもう忘れろよ。」
「私より十三点も高い。」
「計算はできるんだな。」
「馬鹿にしてる?」
「してない。」
「今したじゃん。」
ひまりは少し頬を膨らませながら、店内の案内板を見上げた。
「あ、あっち。」
「自分で見つけられるじゃん。」
「秋月くん必要なかった。」
「帰るぞ。」
「待って待って。」
制服姿の二人で参考書売り場へ向かう。放課後だからか、同じような高校生が何人か棚の前に立っていた。ひまりは数学の棚へ着くなり、並んだ参考書を眺めて眉をひそめる。
「多くない?」
「そりゃあるだろ。」
「どれ買えばいいの。」
「自分に合うやつ。」
「それが分かんないから聞いてるの。」
遼は何冊か手に取って中を見る。ひまりも横から覗き込んできた。
「これ。」
「分厚い。」
「じゃあこっち。」
「字が多い。」
「帰れ。」
「選ぶ気ある?」
「お前が買う気ないだろ。」
「あるよ。」
ひまりが笑う。結局、基礎問題が多く解説も比較的短い一冊を選んだ。
「これなら期末生き残れる?」
「やれば。」
「買っただけじゃ駄目?」
「駄目。」
「厳しい世界だ。」
ひまりは参考書を抱えたままレジへ向かおうとして、途中で漫画売り場へ吸い込まれていった。
「おい。」
「見るだけ。」
「美咲に証拠写真送るんだろ。」
「参考書も買うからセーフ。」
「漫画だけ買って帰るなって言われてたじゃん。」
「漫画“だけ”じゃないもん。」
「そういう問題か?」
ひまりは新刊を一冊手に取る。
「これ欲しかったんだよね。」
「じゃあ買えば。」
「でも今月お金ない。」
「戻せ。」
「冷たい。」
「どうしろっていうんだよ。」
「買って。」
「嫌だよ。」
「誕生日プレゼント。」
「誕生日いつ。」
「六月。」
「終わってるじゃん。」
「来年分。」
「早すぎるだろ。」
ひまりは笑いながら本を棚へ戻した。
「我慢する。」
「偉い。」
「褒めて。」
「偉い偉い。」
「雑。」
二人でレジへ向かう。会計を終えると、ひまりはすぐに袋から参考書を取り出した。
「写真撮る。」
「美咲?」
「うん。」
表紙をスマートフォンで撮り、その場で送る。
「これで怒られない。」
「保護者かよ。」
「最近ちょっとうるさいんだよね。」
何気ない言い方だった。
遼はひまりを見る。
「美咲?」
「うん。でも私が勉強しないのが悪いから。」
ひまりは笑ってスマートフォンを鞄へしまった。
「昨日も課題教えてくれたし。」
「仲直りしてよかったじゃん。」
「うん。」
その返事に迷いはなかった。
本屋を出ると、外はもう薄暗くなり始めていた。駅前には仕事帰りの人が増え、店の看板にも明かりが灯っている。
「帰る?」
遼が聞く。
「んー。」
ひまりは少し考えた。
「お腹すいた。」
「知らないよ。」
「何か食べたい。」
「家帰れば。」
「せっかく来たのに。」
「本買いに来ただけだろ。」
「寄り道しようよ。」
ひまりが駅前を見回す。
「あ。」
「何。」
「あそこ。」
指差した先にファストフード店があった。
「ポテト食べたい。」
「太るぞ。」
「美咲にも言われる。」
「じゃあやめれば。」
「二人してうるさい。」
結局、二人で店へ入った。
ひまりはポテトとジュース。遼はコーヒーだけを頼んだ。窓際の二人席へ座ると、ひまりはすぐにポテトを一本口へ運ぶ。
「幸せ。」
「安い幸せだな。」
「こういうのでいいの。」
「参考書買いに来た人とは思えない。」
「買ったから今日の目的は達成。」
「勉強するまでが目的だろ。」
「明日から。」
「出た。」
「今日はもう疲れた。」
「本屋行っただけじゃん。」
「学校行った。」
「俺も行ったよ。」
「実行委員やってた頃よりは楽だけどさ。」
遼は一瞬ひまりを見る。
文化祭が終わってから、放課後にこうして時間が空くようになった。少し前までなら、ひまりは神谷たちと最後まで学校に残っていた。
「文化祭、結構前みたいに感じるな。」
「分かる。」
ひまりはポテトを一本つまむ。
「毎日残ってたもんね。」
「神谷とずっと何かやってた。」
「神谷くん働きすぎなんだよ。」
「夏川もだろ。」
「私は普通。」
「どこが。」
「神谷くんはもっとすごかった。」
ひまりが笑う。
「でも楽しかったな。」
「終わるとそんなもんか。」
「うん。」
少しだけ沈黙が落ちた。店内には高校生の笑い声と、トレーの触れ合う音が響いている。
「秋月くん。」
「何。」
「今日さ。」
「うん。」
「美咲も誘った方がよかった?」
遼は少し意外に思った。
「何で俺に聞くの。」
「何となく。」
「夏川が決めればいいだろ。」
「そうなんだけど。」
ひまりはポテトの箱を指先でいじる。
「仲直りしたばっかじゃん。」
「うん。」
「なのに、断って秋月くんと来たから。」
「気になるなら誘えばよかったじゃん。」
「でも。」
ひまりは少し考えてから笑った。
「今日は秋月くんと来たかった。」
遼はコーヒーへ手を伸ばした。
「そっか。」
「何その反応。」
「何て言えばいいんだよ。」
「嬉しいとか。」
「自分で要求するなよ。」
「じゃあ嬉しくない?」
遼は少し黙った。
「……嬉しいけど。」
「素直。」
「聞いたのお前だろ。」
「ふふ。」
ひまりは満足そうにポテトを食べる。
遼も笑った。
それからしばらく、学校の話をした。期末の話。榊の点数。教師の話。文化祭で神谷が最後まで片付けをしていた話。どれも大した内容ではなかった。
店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「寒くなってきたね。」
「もう秋だし。」
「転校してきた時、まだ暑かったのに。」
「そうだな。」
「早いなぁ。」
ひまりが少し前を歩く。駅前の明かりが金色の髪に反射する。
改札の手前で足を止めた。
「じゃ、私こっち。」
「うん。」
「今日はありがと。」
「何が。」
「付き合ってくれて。」
「参考書買っただけじゃん。」
「ポテトも。」
「それ俺何もしてないだろ。」
「一人よりおいしいじゃん。」
「そういうもん?」
「そういうもん。」
ひまりは笑った。
「じゃあ、またあとで。」
「あとで?」
「電話。」
「ああ。」
「忘れないでよ。」
「忘れないよ。」
「ほんと?」
「たぶん。」
「最低。」
笑いながら手を振り、ひまりは改札へ入っていった。
遼はその姿が人混みに消えるまで見ていた。
家へ着いたのは七時を少し過ぎた頃だった。
十一時になる。
約束通り、ひまりから電話が来た。
『参考書開いた。』
「偉いじゃん。」
『三ページやった。』
「少な。」
『三ページ“も”。』
「言い方変えても三ページだよ。」
『明日四ページやる。』
「一ページ増えた。」
『成長。』
「期末までに終わらないだろ。」
ひまりが笑う。
その夜も、電話は長く続いた。
翌朝。
「ひまり。」
教室へ入ってきたひまりを、美咲が呼び止めた。
「ん?」
「昨日ちゃんと買ったんだね。」
「買ったよ。写真送ったじゃん。」
「偉い偉い。」
「子ども扱いしないで。」
「で、勉強した?」
「した。」
「何ページ?」
「三。」
「少なっ。」
「秋月くんと同じこと言わないでよ。」
美咲の動きが、ほんの少しだけ止まった。
「……秋月くん?」
「うん。」
ひまりは何も気にせず鞄を机へ置く。
「昨日一緒に本屋行ったから。」
「それは知ってるけど。」
「帰ってから電話して、勉強したって言ったの。」
遼は少し離れた席で、その言葉を聞いた。
ひまりも、そこで気付いたらしい。
「あ。」
美咲がひまりを見る。
「電話?」
「……うん。」
「昨日?」
「うん。」
「夜に?」
ひまりの笑顔が、少しだけ固くなった。
ほんの数秒前まで、何でもない朝だった。




