第34話 怒った?
美咲とひまりが仲直りしてから数日が経った。
少なくとも教室で見る限り、二人の関係は元に戻っていた。
「ひまり、英語の課題やった?」
「……何それ。」
「今日提出。」
「聞いてない。」
「昨日言ったじゃん。」
「聞いてない。」
「寝てた?」
「起きてた。」
「じゃあ聞け。」
「見せて。」
「嫌。」
「美咲様。」
「気持ち悪い。」
「お願いします。」
「自分でやりな。」
朝からそんなやり取りをしている。
周りの女子も笑っていた。
遼も自分の席からその様子を眺めていた。
「秋月。」
「何。」
「英語やった?」
「やった。」
「見せて。」
「嫌。」
「お前もかよ。」
榊が机へ突っ伏す。
「友達だろ。」
「だから何だよ。」
「助け合いって大事じゃん。」
「それ助け合いじゃなくて一方的だろ。」
「じゃあ次は俺が助ける。」
「何で。」
「体育のサッカー。」
「いらない。」
「じゃあ何なら勝てるんだよ。」
「知らないよ。」
遼は笑いながらノートを鞄へしまった。
教室の前では、結局美咲がひまりの課題を手伝っている。
「ここ。」
「どこ?」
「三番。」
「分かんない。」
「授業聞いてた?」
「聞いてた。」
「絶対嘘じゃん。」
「先生の声は聞こえてた。」
「それ聞いてないのと同じだから。」
ひまりが笑う。
美咲も呆れながら笑っている。
本当に元通りだった。
昼休みも二人は一緒だった。
放課後も、用事がない日は並んで帰る。
美咲は以前ほど「大丈夫?」と聞かなくなった。
ひまりもフラバの話をしない。
互いに、少しだけ触れないようにしている。
それでうまくいっていた。
少なくとも、表面上は。
遼とひまりの夜の電話も変わらなかった。
十一時前後になると、どちらからともなく連絡する。
最初はひまりから掛けることが多かった。
最近は遼から掛けることもある。
『もしもし。』
「何してた?」
『髪乾かしてた。』
「じゃあ切る?」
『何で。』
「乾かしてるんだろ。」
『終わった。』
「早。」
『今終わったの。』
「ほんと?」
『ほんと。』
どうでもいい話だった。
フラバの話をしない夜の方が増えていた。
学校の話。
テレビの話。
テストの話。
誰と誰が付き合っているらしい、という噂。
教師の口癖。
美咲の寝癖。
榊の数学の点数。
『榊くん、数学何点だったの?』
「四十二。」
『やば。』
「夏川は?」
『六十八。』
「普通。」
『秋月くんは?』
「八十一。」
『うざ。』
「何で。」
『私より高いから。』
「勉強しろよ。」
『してるし。』
「英語の課題忘れてたじゃん。」
『何で知ってるの。』
「朝騒いでただろ。」
『見てたんだ。』
「聞こえるよ。」
『また見てたのかと思った。』
「自意識過剰。」
『秋月くんにだけは言われたくない。』
「何でだよ。」
『よく見てるじゃん。』
「誰を。」
『私。』
遼は少し黙った。
『ほら。』
「何が。」
『黙った。』
「面倒くさいな。」
『図星?』
「違う。」
『じゃあ何。』
「夏川が目立つだけだろ。」
『それ褒めてる?』
「知らない。」
『可愛いから?』
「自分で言うなよ。」
『違うの?』
「……まあ。」
『え。』
「何。」
『今、可愛いって言った?』
「言ってない。」
『言ったじゃん。』
「言ってない。」
『まあ、って言った。』
「何に対してかは言ってないだろ。」
『逃げた。』
「うるさい。」
電話の向こうで、ひまりが楽しそうに笑う。
遼も笑った。
こういう時間が増えていた。
以前なら、ひまりの呼吸が変わるたびに緊張した。
今は笑い声を聞くことの方が多い。
それは良いことのはずだった。
翌日。
昼休みになると、美咲がひまりの机へやって来た。
「今日、図書室行かない?」
「何で?」
「英語の課題。」
「昨日やったじゃん。」
「あれ先週の。」
「……嘘。」
「ほんと。」
「また?」
「また。」
ひまりが机へ突っ伏す。
「高校やめたい。」
「理由が弱すぎる。」
「義務教育に戻りたい。」
「戻れないよ。」
「中学生になりたい。」
その言葉だった。
遼は何となく顔を上げた。
ひまりはまだ机へ突っ伏している。
美咲が笑う。
「じゃあ中学の制服着れば?」
「無理。」
ひまりの返事が少しだけ早かった。
「何で。」
「もう捨てたし。」
「そうなの?」
「うん。」
美咲は特に気にしなかった。
「じゃ、諦めて高校生やりな。」
「嫌だぁ。」
「ほら、図書室行くよ。」
「美咲先生。」
「何。」
「課題やって。」
「自分でやれ。」
二人が教室を出ていく。
遼はその背中を見ていた。
「秋月。」
「何。」
「今度は何。」
榊だった。
「何が。」
「また夏川さん見てたじゃん。」
「見てない。」
「もうその言い訳無理あるだろ。」
「たまたま。」
「便利だな、たまたま。」
榊は笑いながらパンを開ける。
「でもまあ。」
「うん。」
「最近調子良さそうだよな。」
「夏川?」
「うん。」
「そうだな。」
「フラバだっけ。」
榊が声を少し落とす。
「最近ないじゃん。」
「見てる限りは。」
「このままなくなるといいな。」
「うん。」
遼はそう答えた。
本当にそう思った。
午後の授業が終わり、放課後になる。
ひまりは美咲と一緒に教室を出ていった。
「じゃあねー。」
「また明日。」
いつものように手を振る。
遼も榊と学校を出る。
何も起きない一日だった。
その夜。
十一時を過ぎても電話は来なかった。
十一時十分。
遼はスマートフォンを見る。
通知はない。
昨日は自分から掛けた。
今日はひまりからだろう。
そう決めたわけではない。
ただ何となく、そう思っていた。
十一時二十分。
来ない。
遼は動画を開く。
五分ほど見て閉じる。
もう一度通知を確認する。
何もない。
十一時三十分。
遼はトーク画面を開いた。
最後のやり取りは夕方だった。
『今日美咲と課題やる』
『頑張れ』
『無理』
『頑張れ』
『冷たい』
そこで終わっている。
寝たのかもしれない。
課題をやっているのかもしれない。
別に毎日電話すると決めたわけではない。
遼はスマートフォンを伏せた。
十一時四十分。
また手に取る。
何をしているんだろう。
自分でも少しおかしく思った。
電話したければ、自分から掛ければいい。
そう思って、通話ボタンへ指を伸ばす。
止めた。
何となく嫌だった。
今日はひまりから掛けてほしかった。
理由は分からない。
十一時五十二分。
スマートフォンが震えた。
遼は反射的に手を伸ばす。
ひまり。
すぐに出る。
「もしもし。」
『もしもし。』
「遅い。」
言ってから、自分でも少し驚いた。
『え?』
「……いや。」
『待ってた?』
「別に。」
『絶対待ってたじゃん。』
「待ってない。」
『じゃあ何で遅いって言ったの。』
「いつもより遅いから。」
『それ待ってる人の言い方じゃん。』
「うるさいな。」
ひまりが笑う。
『ごめんごめん。』
「何してたの。」
『美咲と電話してた。』
遼は黙った。
『課題分かんなくて。』
「……ああ。」
『写真送ってもらって、教えてもらってた。』
「そっか。」
『何。』
「何が。」
『急にテンション下がった。』
「下がってない。」
『下がったじゃん。』
「眠いだけ。」
『ほんと?』
「うん。」
嘘だった。
自分でも理由は分かっていた。
美咲と電話していた。
ただそれだけ。
昼間あれだけ一緒にいるのだから、夜に電話することだってある。
何もおかしくない。
『秋月くん。』
「何。」
『もしかして。』
「うん。」
『嫉妬?』
「違う。」
『早。』
「違うから。」
『怪しい。』
「何に嫉妬するんだよ。」
『美咲。』
「何で俺が美咲に。」
『私と電話してたから。』
「しないだろ。」
『ふーん。』
「何。」
『別に。』
ひまりが笑っている。
遼は少し腹が立った。
「じゃあ美咲とそのまま電話してればよかったじゃん。」
口から出た。
向こうが静かになる。
数秒。
『……怒った?』
「怒ってない。」
『怒ってるじゃん。』
「怒ってないって。」
『ごめん。』
「謝ることじゃないだろ。」
『だって。』
「美咲と電話するくらい普通じゃん。」
『うん。』
「俺がどうこう言うことじゃないし。」
『うん。』
自分で言いながら、遼は少し嫌になった。
その通りだった。
自分には何も言う権利はない。
ひまりが誰と話そうが自由だ。
美咲は親友だ。
むしろ仲直りしてよかったと思っていた。
なのに。
『でも。』
ひまりが言う。
「何。」
『美咲とは課題の電話。』
「うん。」
『秋月くんとは違うよ。』
「……何が。」
『用事なくても電話するじゃん。』
遼は黙った。
『だから同じじゃない。』
数日前にも聞いた言葉だった。
『これでいい?』
「何が。」
『機嫌直った?』
「最初から悪くない。」
『めんどくさ。』
「お前に言われたくない。」
『それはそう。』
二人とも笑った。
さっきまで胸の奥にあった嫌な感じが、少しだけ消えていく。
遼は安心した。
ひまりが自分と美咲を区別してくれたことに。
そのことに安心した自分については、考えないことにした。
『ねえ。』
「何。」
『明日さ。』
「うん。」
『放課後ちょっと付き合って。』
「どこ。」
『本屋。』
「何買うの。」
『参考書。』
「偉いじゃん。」
『美咲に、このままだと期末で死ぬって言われた。』
「俺もそう思う。」
『じゃあ生きるために買う。』
「壮大だな。」
『命懸かってるから。』
「数学の参考書に?」
『数学なめんな。』
「お前がな。」
ひまりが笑う。
『じゃあ約束ね。』
「うん。」
『二人で。』
「……うん。」
『よし。』
それからまた、どうでもいい話をした。
電話を切ったのは一時近くだった。
翌日の放課後。
「ひまり、帰ろ。」
美咲が鞄を持ってやって来る。
ひまりは少しだけ困った顔をした。
「あ、ごめん。」
「ん?」
「今日ちょっと寄るとこある。」
「どこ?」
「本屋。」
「参考書?」
「そう。」
「じゃあ私も行こうか?」
ひまりが一瞬だけ黙った。
遼は自分の席で鞄を整理していた。
聞いていないふりをする。
「今日はいいや。」
ひまりが言った。
「秋月くんと行くから。」
手が止まりそうになった。
「あ。」
美咲が遼を見る。
遼も顔を上げる。
「そうなんだ。」
「うん。」
ひまりは笑う。
「昨日約束したの。」
「そっか。」
美咲も笑った。
「じゃあまた明日。」
「うん、また明日。」
「ちゃんと買いなよ。漫画だけ買って帰ってきたら怒るから。」
「買うって。」
「証拠写真送って。」
「信用なさすぎ。」
「前科がある。」
「ないよ。」
二人は笑った。
美咲は手を振って教室を出ていった。
何もおかしくなかった。
仲直りしたばかりの親友が、別の友達と出かける。
それだけだった。
「秋月くん。」
「うん。」
「行こ。」
「うん。」
二人で教室を出る。
廊下を歩きながら、遼は何となく後ろを振り返った。
誰もいない。
「何?」
「いや。」
「忘れ物?」
「違う。」
「じゃあ早く。」
「分かってるよ。」
ひまりが少し先を歩く。
遼はその後ろを追った。
昨日の言葉を思い出す。
同じじゃない。
それだけで十分だった。
今はまだ。




