第33話 仲直り
翌朝、ひまりはいつもより少し早く教室へ来ていた。
遼が入ったときには、もう自分の席に座っている。机の上には英語の教科書とノートが広げられていたが、勉強している様子ではなかった。
「おはよ。」
遼が声を掛ける。
「おはよ。」
ひまりは顔を上げて笑った。
いつもの笑顔だった。
「早いじゃん。」
「目覚めちゃった。」
「昨日寝たの遅かったのに?」
「秋月くんのせい。」
「俺?」
「電話切らないから。」
「夏川が切るなって言ったんだろ。」
「あれ、そうだっけ。」
「都合いいな。」
ひまりが小さく笑う。
その笑い声は、まだ人の少ない教室によく響いた。
遼は自分の席へ鞄を置く。
「昨日のこと。」
ひまりが言った。
「美咲?」
「うん。」
笑顔が少しだけ消える。
「LINEしようと思ったんだけど。」
「しなかったの?」
「何て送ればいいか分かんなくて。」
「普通にごめんでいいんじゃない。」
「軽くない?」
「じゃあ、すごくごめん。」
「もっと軽くなった。」
「難しいな。」
ひまりが笑う。
「今日、ちゃんと話す。」
「うん。」
「やっぱ私も言いすぎたし。」
「そう思うなら言えばいいじゃん。」
「簡単に言うなぁ。」
「難しくしてるの夏川だろ。」
「そうなんだけど。」
ひまりは机の上の教科書を閉じた。
「仲直りできるかな。」
「できるだろ。」
「何で分かるの。」
「美咲だから。」
「何それ。」
「昨日も怒ってるっていうより、傷ついてる感じだったじゃん。」
ひまりは少し黙った。
「……やっぱ聞いてたんだ。」
「途中から。」
「恥ずかし。」
「廊下であんな声出したら聞こえるだろ。」
「忘れて。」
「無理。」
「最悪。」
また少し笑う。
そのとき、教室のドアが開いた。
二人ともそちらを見る。
美咲だった。
「あ。」
ひまりの声が小さくなる。
美咲も一瞬だけ足を止めた。
「……おはよ。」
「おはよ。」
それだけだった。
美咲は自分の席へ向かう。
ひまりは何も言えなかった。
遼を見る。
遼は小さく顎を動かした。
行けば。
ひまりは少し嫌そうな顔をする。
それでも立ち上がった。
「美咲。」
「ん?」
美咲が振り返る。
「ちょっといい?」
「いいけど。」
ひまりは美咲の机の横へ立った。
遼はそれ以上見ないことにして、鞄から教科書を取り出した。
聞こうと思えば聞こえる距離だった。
「昨日、ごめん。」
「……うん。」
「言いすぎた。」
「私もごめん。」
「美咲は悪くないじゃん。」
「いや、ちょっと心配しすぎた。」
「でも。」
「ひまりが嫌だって言ってるのに、何回も聞いたのは私だから。」
少し沈黙する。
「嫌いになった?」
ひまりの声だった。
「は?」
「私のこと。」
「何でそうなるの。」
「だって。」
「ならないよ。」
美咲は呆れたように笑った。
「そんなので嫌いになってたら、友達できないじゃん。」
「……そっか。」
「うん。」
「じゃあ。」
ひまりが少しだけ笑う。
「今日、購買行く?」
「焼きそばパン?」
「うん。」
「また売り切れるよ。」
「今日は早く行く。」
「授業終わる前に出る?」
「それは怒られる。」
「じゃあ走るしかないじゃん。」
二人が笑った。
遼は教科書を開いたまま、その声を聞いていた。
よかった。
素直にそう思った。
昨日のことは、これで終わる。
そう思った。
「秋月。」
後ろから声がする。
榊だった。
「何朝から英語なんか開いてんの。」
「勉強。」
「嘘つけ。」
「何で。」
「教科書逆さ。」
遼は手元を見る。
本当に逆だった。
「……勉強する気持ちはあった。」
「気持ちだけじゃ点取れないだろ。」
「期末で死ぬ。」
「まだ先じゃん。」
「予告。」
「縁起悪。」
榊が笑いながら前の席へ座る。
「で。」
「何。」
「仲直りしたっぽい?」
遼は少しだけ前を見る。
ひまりと美咲はもういつものように話していた。
「したんじゃない。」
「よかったな。」
「うん。」
「昨日あのあと大丈夫だった?」
「何が。」
「夏川さん。お前追いかけてったじゃん。」
「ああ。」
「何話したの。」
「別に。」
「またそれかよ。」
「大したこと話してない。」
「ふーん。」
榊は少しだけ遼を見る。
「まあ、いいけど。」
それ以上は聞かなかった。
昼休み。
四時間目のチャイムが鳴った瞬間、ひまりが立ち上がった。
「美咲!」
「分かってる!」
二人がほとんど同時に教室を飛び出す。
「廊下走るなよー。」
誰かが笑いながら声を掛ける。
「走ってない!」
「走ってるじゃん!」
笑い声が広がる。
遼も少し笑った。
「完全復活だな。」
榊が言う。
「そうだな。」
「昨日の喧嘩何だったんだよ。」
「友達なんてそんなもんじゃない。」
「お前、急に人生分かったみたいなこと言うじゃん。」
「適当に言った。」
「だろうな。」
二人も遅れて購買へ向かう。
途中で、向こうからひまりと美咲が戻ってきた。
「見て!」
ひまりが嬉しそうにパンを掲げる。
「取れた!」
「よかったじゃん。」
「最後の二個。」
美咲も同じものを持っている。
「二人で取った。」
「美咲が一個譲ってくれた。」
「譲ってない。二個あったから一個ずつ。」
「優しい。」
「だから違うって。」
二人は笑っている。
昨日までのぎこちなさは、ほとんど残っていなかった。
「榊くんたちも今から?」
美咲が聞く。
「うん。」
「もう焼きそばパンないよ。」
「知ってるよ。お前らが持ってんじゃん。」
「早い者勝ち。」
「一本ずつ麺くれ。」
「嫌だよ。」
「けち。」
「榊くんには絶対あげない。」
「何で俺だけ。」
ひまりが吹き出す。
遼も笑った。
普通だった。
本当に、いつもの昼休みだった。
その日の放課後も、ひまりと美咲は一緒に帰った。
「秋月くん、また明日ね。」
ひまりが手を振る。
「うん。」
「榊くんも。」
「俺はついでかよ。」
「違うって。」
「昨日も聞いたぞ、それ。」
「気のせい。」
二人は笑いながら校門を出ていった。
遼と榊も少し遅れて学校を出る。
「よかったじゃん。」
榊が言う。
「何が。」
「夏川さん。」
「うん。」
「藤沢と仲直りして。」
「そうだな。」
「お前も気にしてただろ。」
「少し。」
「少しねぇ。」
「何。」
「別に。」
「その言い方腹立つな。」
「お前がいつもやってるやつじゃん。」
榊が笑う。
駅前で別れ、遼は一人で家へ帰った。
夕食を食べ、風呂へ入り、適当に動画を見ているうちに十一時になる。
遼はスマートフォンを見る。
十一時五分。
まだ電話はない。
十一時十分。
来ない。
遼は画面を伏せた。
今日は美咲と仲直りした。
帰りも二人だった。
きっと話すこともたくさんあるのだろう。
十一時十五分。
スマートフォンが震えた。
遼はすぐに手を伸ばした。
ひまり。
通話ボタンを押す。
「もしもし。」
『もしもし。』
「遅かったじゃん。」
『え。』
「いつも十一時くらいだから。」
『待ってた?』
「別に。」
『待ってたんだ。』
「待ってない。」
『絶対待ってたじゃん。』
「うるさい。」
ひまりが笑う。
いつもの声だった。
『今日ね。』
「うん。」
『美咲と仲直りした。』
「知ってる。」
『見てたもんね。』
「教室にいたから。」
『よかった。』
「うん。」
『昨日、ちょっと怖かったんだよね。』
「何が。」
『このまま美咲と喋らなくなったらどうしようって。』
「そんなことにならないだろ。」
『分かんないじゃん。』
「でも仲直りしたじゃん。」
『うん。』
ひまりの声が少し柔らかくなる。
『やっぱ美咲好きだなって思った。』
「そっか。」
『一緒にいると楽しいし。』
「うん。」
『私が悪かった。』
「美咲も謝ってたじゃん。」
『でも最初に怒ったの私だし。』
「どっちが悪いとかじゃないんじゃない。」
『何それ。』
「知らない。」
『適当。』
「仲直りしたならいいだろ。」
『それはそう。』
少し沈黙する。
遼は天井を見ていた。
よかった。
ひまりと美咲が仲直りした。
本当にそう思っている。
それなのに。
『秋月くん。』
「何。」
『今日も寝るまでいい?』
遼は少しだけ笑った。
「いいよ。」
『よかった。』
「美咲と仲直りしたんだから、美咲に電話すれば。」
冗談のつもりだった。
ひまりも笑うと思った。
けれど、電話の向こうは少しだけ静かになった。
『美咲は美咲だよ。』
「うん。」
『秋月くんは秋月くん。』
「何それ。」
『別なの。』
「何が。」
『分かんないけど。』
ひまりが小さく笑った。
『美咲とは学校でいっぱい話すし。』
「俺とも話すじゃん。」
『そうだけど。』
「じゃあ同じじゃん。」
『同じじゃない。』
「何が違うの。」
『夜は秋月くんがいい。』
遼は黙った。
『……何。』
「別に。」
『今笑った?』
「笑ってない。」
『笑ったじゃん。』
「気のせいだろ。」
『絶対笑った。』
「見えてないくせに。」
『声で分かる。』
「超能力者?」
『そうかも。』
「怖。」
『失礼。』
ひまりが笑う。
遼も笑った。
仲直りした。
美咲はまたひまりの隣にいる。
昼休みも。
放課後も。
以前と同じように。
それでいい。
それが普通だ。
なのに夜になると、ひまりは自分へ電話を掛けてくる。
美咲とは違う。
そう言った。
遼はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。
嬉しいと思った。
それくらいなら。
まだ、普通だった。




