第30話 二人だけのひみつ
翌朝、遼が教室へ入ると、ひまりの席はまだ空いていた。
昨日早退したのだから、休んでもおかしくない。そう思いながら鞄を机へ置く。
「おはよ。」
榊が前の席から振り返る。
「おはよ。」
「夏川さん、今日来るかな。」
「さあ。」
「昨日結構きつそうだったもんな。」
「うん。」
遼はスマートフォンを見る。
通話は朝まで繋がっていた。
六時過ぎに目を覚ますと、画面には通話時間が表示されていて、向こうからはまだ小さな寝息が聞こえていた。遼が切る直前まで、ひまりは起きなかった。
連絡はしていない。
起こす必要もないと思った。
「秋月。」
「何。」
「眠そうじゃん。」
「寝不足。」
「また?」
「ちょっと。」
「ゲーム?」
「そんなとこ。」
「ほどほどにしろよ。」
「うん。」
嘘をつくことに、もう抵抗はなかった。
八時二十分。
教室のドアが開いた。
「おはよー。」
ひまりだった。
いつもより少し声が小さい。
それでも笑っていた。
「ひまり!」
美咲がすぐに立ち上がる。
「来たの?」
「来たよ。」
「大丈夫?」
ひまりの笑顔が、ほんの少しだけ固くなる。
「大丈夫大丈夫。」
「ほんとに?」
「うん。」
「昨日帰ってからは?」
「普通だったよ。」
「また出なかった?」
「出てない。」
美咲は安心したように息を吐いた。
「よかった。」
「心配しすぎ。」
「するでしょ、あんなの見たら。」
「ごめんって。」
「謝らなくていいけどさ。」
遼は自分の席から二人を見ていた。
昨日、電話で聞いた言葉を思い出す。
『また大丈夫?って聞かれる』
『それが嫌なの』
その通りになっていた。
もちろん、美咲は悪くない。
心配しているだけだ。
それも分かっている。
「保健室は?」
「行かないよ。」
「でも、また具合悪くなったらちゃんと行きなよ。」
「分かってるって。」
ひまりは笑っている。
ただ、いつもより少しだけ早口だった。
美咲もそれ以上は言わなかった。
「じゃ、先生来る前にトイレ行ってくる。」
「うん。」
ひまりがこちらへ歩いてくる。
遼の机の横を通る。
一瞬だけ目が合った。
何も言わない。
ひまりも何も言わなかった。
そのまま教室を出ていく。
ただ、通り過ぎる瞬間。
ほんの少しだけ笑った。
遼も小さく笑い返した。
それだけだった。
「何今の。」
榊が言う。
「何が。」
「いや。」
榊は教科書を出しながら首を傾げる。
「何でもない。」
一時間目。
二時間目。
ひまりは普通だった。
教師に当てられれば答え、休み時間には美咲と話し、時々周りの会話へ入って笑う。
昨日のことなどなかったように見えた。
昼休みになると、美咲がひまりの席へやって来た。
「購買行こ。」
「うん。」
二人で教室を出ていく。
遼は榊と弁当を食べ始めた。
「秋月。」
「何。」
「昨日さ。」
「うん。」
「夏川さんから連絡来た?」
箸が止まった。
「何で。」
「何となく。」
「来てないよ。」
「そっか。」
榊はそれ以上聞かなかった。
「何。」
「いや、別に。」
「何だよ。」
「お前昨日、ずっとスマホ見てたじゃん。」
「そうだっけ。」
「帰りも。」
「たまたま。」
「またたまたまかよ。」
榊は笑う。
遼も笑った。
嘘だった。
今度の嘘は、少し違った。
ひまりとの電話を隠した。
美咲にも。
榊にも。
ひまりが自分だけに頼ってきた時間を、誰にも渡したくなかった。
そのことに気付いて、遼は少しだけ箸を止めた。
「どうした?」
「何でもない。」
「今日それ多いな。」
「榊が聞きすぎなんだよ。」
「そう?」
「そう。」
しばらくして、ひまりと美咲が戻ってきた。
「焼きそばパンなかった。」
ひまりが不満そうに言う。
「遅いからだよ。」
「美咲がトイレ寄るから。」
「私のせい?」
「そう。」
「じゃあ私のパン半分あげない。」
「ごめんなさい。」
「早。」
二人が笑う。
そのまま美咲の席へ戻っていく。
遼は何となくひまりを見る。
ひまりもこちらを見た。
一秒ほど目が合う。
すぐに逸らされた。
そのあと、机の下でスマートフォンが震えた。
画面を見る。
ひまりだった。
『昨日ありがと』
遼は教室の前を見る。
ひまりは美咲と話している。
スマートフォンは机の下。
『寝れた?』
送る。
少しして既読が付く。
『めっちゃ寝た』
『知ってる』
『起きてたの?』
『朝まで』
『切ってよ笑』
『寝てたから』
『秋月くん寝不足じゃん』
『ちょっと』
『ごめん』
『いいよ』
遼はスマートフォンを伏せる。
また震えた。
『今日もいい?』
指が止まる。
昨日はフラバした。
だから電話した。
今日は違う。
今のひまりは普通に笑っている。
それでも。
『いいよ』
送る。
すぐに既読が付いた。
『やった』
その三文字を見た瞬間、遼は少し笑った。
「何ニヤついてんの。」
榊が言う。
「別に。」
「スマホ見て笑う高校生、一番怪しいぞ。」
「榊もやるだろ。」
「俺は堂々と笑う。」
「何が違うんだよ。」
「気持ち。」
「意味分かんない。」
榊が笑う。
遼もスマートフォンをポケットへしまった。
夜。
十一時を少し過ぎた頃、ひまりから電話が来た。
「もしもし。」
『もしもし。』
昨日とは違う。
声が明るい。
「今日は元気じゃん。」
『元気だよ。』
「じゃあ何で電話したの。」
『ダメ?』
「ダメとは言ってない。」
『じゃあいいじゃん。』
「まあ。」
少し沈黙。
『今日ね。』
「うん。」
『美咲にめっちゃ心配された。』
「見てた。」
『大丈夫? 大丈夫?って。』
「二回は言ってないだろ。」
『体感二十回。』
「盛りすぎ。」
『でもほんと。』
ひまりが小さく笑う。
『心配してくれてるのは分かるんだけどね。』
「うん。」
『私が悪いし。』
「それは違うだろ。」
『でも心配させてるの私じゃん。』
「そういう意味ならそうだけど。」
『ほら。』
「でも悪いとは違うじゃん。」
『……そういうこと言う。』
「何が。」
『昨日も。』
「昨日?」
『私が楽な方でいいって。』
「ああ。」
『あれ、嬉しかった。』
「そう。」
『美咲はさ。』
少し間が空く。
『正しいんだよね。』
「何が。」
『保健室行った方がいいとか、先生に話した方がいいとか、無理しない方がいいとか。』
「うん。」
『全部正しい。』
遼は黙って聞いていた。
『だから嫌なの。』
「正しいから?」
『うん。』
「変なの。」
『自分でも思う。』
ひまりが笑う。
『秋月くんは、正しくないから楽。』
「悪口じゃん。」
『違うよ。』
「正しくないって言ったじゃん。」
『そういう意味じゃなくて。』
少し考えているようだった。
『私がこうしたいって言ったら、いいよって言うじゃん。』
「嫌なら嫌って言うよ。」
『あんまり言わないじゃん。』
「そう?」
『そう。』
「じゃあ夏川が変なこと言わないからだろ。」
『変なこと言ったら?』
「内容による。」
『学校行きたくない、とか。』
「休めば。」
『ほら。』
「何が。」
『美咲なら理由聞くもん。』
「普通は聞くだろ。」
『秋月くんは聞かないの?』
「夏川が言いたくなさそうなら。」
向こうが静かになる。
「何。」
『……やっぱ楽。』
「そっか。」
『うん。』
遼は天井を見る。
美咲が間違っているとは思わない。
むしろ美咲の方が正しい。
ひまりが苦しんでいるなら、保健室へ連れていく。先生や家族に相談する。原因を知ろうとする。
自分より、ずっとまともだった。
でも。
ひまりは自分を選んだ。
『秋月くん。』
「何。」
『これ、美咲に言わないでね。』
「何を。」
『電話してること。』
「うん。」
『最近ずっとしてたことも。』
「分かった。」
『怒ると思うから。』
「何で。」
『分かんないけど。』
「じゃあ言わない。」
『約束ね。』
「うん。」
『榊くんにも。』
「分かった。」
『誰にも。』
「分かったって。」
『よし。』
ひまりが少し笑った。
『二人だけね。』
その言葉に、遼は返事をしなかった。
『秋月くん?』
「うん。」
『聞いてた?』
「聞いてた。」
『二人だけ。』
「うん。」
今度は答えた。
嬉しかった。
誰にも言えないことを、自分だけが知っている。
誰にも見せないひまりを、自分だけが知っている。
美咲も知らない。
神谷も知らない。
榊も知らない。
昼間のひまりは、みんなのものだった。
誰にでも笑う。
誰とでも話す。
誰からも好かれる。
でも夜だけは違う。
自分だけだった。
『眠くなってきた。』
「寝れば。」
『切らないで。』
「分かってる。」
『朝まで?』
「たぶん。」
『やった。』
「何が嬉しいんだよ。」
『何となく。』
「変なの。」
『秋月くんに言われたくない。』
「俺普通だよ。」
『それはない。』
「ひど。」
ひまりが笑う。
その笑い声が少しずつ小さくなっていく。
やがて会話が途切れた。
寝息だけが聞こえる。
遼はスマートフォンを枕元へ置いた。
二人だけ。
その言葉を思い返す。
秘密。
ただ夜に電話しているだけだった。
それだけなのに、誰にも知られたくないと思った。
ひまりが秘密にしたいと言ったから。
それだけではなかった。
もし美咲が知れば、止めるかもしれない。
先生が知れば、何か言うかもしれない。
榊なら、また「俺ら高校生だぞ」と言うかもしれない。
そうなれば、この時間がなくなる。
それが嫌だった。
遼は目を閉じる。
ひまりの寝息が聞こえる。
今日、ひまりはフラバしていない。
苦しんでもいない。
それでも、自分を呼んだ。
そのことが何より嬉しかった。
これならいい。
遼はそう思った。
ひまりが苦しまなくても。
自分を必要としてくれるなら。
これなら、何も悪くない。
そう思った。




