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第29話 フラバ

 その日の六時間目、ひまりは教室へ戻ってこなかった。


 担任から特に説明はなかった。美咲だけが授業開始直前に戻ってきて、教師に何かを小声で伝えてから自分の席へ座った。


 ひまりの席は空いている。


 遼は何度かそこを見た。


 さっきまで手首に残っていた赤い跡は、もうほとんど消えていた。


「秋月。」


 授業が終わると、榊が振り返った。


「夏川さん、早退かな。」


「分かんない。」


「藤沢に聞く?」


「いや。」


「そっか。」


 榊は鞄へ教科書をしまう。


 遼も帰り支度を始めた。


 教室の前では、美咲が一人でスマートフォンを見ている。


 いつもなら隣にひまりがいる。


 その光景を見ていると、昼間の出来事がまた頭へ浮かんだ。


『秋月くん』


『いる?』


 あの声。


 手首を掴んだ指。


 自分を見つけたときの目。


 遼は鞄のファスナーを閉めた。


「帰ろうぜ。」


 榊が言う。


「うん。」


 二人で教室を出ようとしたところで、後ろから声を掛けられた。


「秋月くん。」


 美咲だった。


「何?」


「ちょっといい?」


 榊が遼と美咲を交互に見る。


「俺、先行ってる?」


「いや。」


 美咲は少し考えてから首を振った。


「別に榊くんいてもいいよ。」


「じゃあいる。」


「何で嬉しそうなんだよ。」


「気になるじゃん。」


 榊が笑う。


 美咲はそれには反応せず、少し真面目な顔で遼を見る。


「ひまり、今日は帰った。」


「そう。」


「お母さん来てくれたから。」


「そっか。」


「保健室で一回落ち着いたんだけど、またちょっとダメになって。」


「また?」


「うん。」


 美咲は小さく息を吐いた。


「先生と話してる途中で。」


 遼は黙る。


「最近ずっと平気だったから、私も油断してた。」


「美咲のせいじゃないだろ。」


「分かってるけど。」


 そう言いながらも、美咲の顔は少し暗かった。


「何が原因だったんだろ。」


「さっきの?」


「うん。」


「男子が騒いでたやつじゃない?」


「やっぱそう思う?」


「たぶん。」


「写真って言ってたよな。」


 榊が口を挟む。


「前も写真だったじゃん。」


「うん。」


 美咲が頷く。


「でも今日、写真そのもの見てないよね。」


「言葉だけだった。」


「それでああなるんだ。」


 榊が少し考える。


「よく分かんねえな。」


「分かんないよ。」


 美咲の声が少し強くなった。


「私だって分かんない。」


 榊が口を閉じる。


「あ、ごめん。」


 美咲はすぐに謝った。


「別に榊くんに怒ったわけじゃない。」


「いや、いいけど。」


「ほんとに分かんないんだよね。」


 美咲は机へ視線を落とす。


「ひまり、何も言わないから。」


 遼は美咲を見る。


「聞いたことないの。」


「あるよ。」


「何て?」


「昔のこと思い出すって。それだけ。」


「それ以上は?」


「聞いても笑ってごまかす。」


 美咲は少しだけ苦笑した。


「私、一番仲いいと思ってたんだけどな。」


 その言葉に、遼は何も答えなかった。


「転校してきてすぐ仲良くなって、最初にフラバ見たのも私だったし。保健室も何回も一緒に行ったし。」


「うん。」


「でも結局、何も知らない。」


 美咲は顔を上げた。


「秋月くんは?」


「何が。」


「何か聞いてない?」


 遼は一瞬だけ黙った。


 昨日の夜。


『最近、美咲といると疲れるときある』


『だから秋月くんに言ってるの』


 あれは、今の美咲には関係ない。


 ひまりが自分にだけ話したことだった。


「聞いてない。」


 遼は答えた。


「そっか。」


 美咲はそれ以上聞かなかった。


「じゃあ、また明日。」


「うん。」


「お疲れ。」


 美咲は鞄を持ち、先に教室を出ていった。


 榊と二人になる。


「……藤沢も大変だな。」


「そうだな。」


「でもお前、何も知らないの?」


 遼は榊を見る。


「何で。」


「いや。」


 榊は首を傾げる。


「夏川さん、お前には結構話してそうだったから。」


「別に。」


「そう。」


 榊は深く追及しなかった。


 二人で学校を出る。


 しばらく歩いたところで、榊が口を開いた。


「さっきさ。」


「うん。」


「ちょっと怖かったな。」


「何が。」


「夏川さん。」


 遼は前を向いたまま歩く。


「お前の手掴んだとき。」


「そう?」


「うん。何ていうか。」


 榊は言葉を探す。


「お前しか見えてなかったじゃん。」


「フラバしてたからだろ。」


「まあ、そうなんだけど。」


「ならいいじゃん。」


「いいっていうか。」


 榊は苦笑する。


「俺だったらちょっと責任感じるかも。」


「責任?」


「だって、あんな感じで頼られたらさ。」


「うん。」


「自分が何とかしなきゃって思うだろ。」


 遼は少し考える。


「榊なら?」


「俺?」


「うん。」


「無理無理。」


 榊はすぐに笑った。


「保健室連れてく。」


「それだけ?」


「それ以上できねえだろ。」


「そうかな。」


「そうだろ。」


 榊は当たり前のように言う。


「俺ら高校生だぞ。」


 遼は黙った。


「秋月もさ。」


「何。」


「あんまり自分だけで何とかしようとすんなよ。」


「してないって。」


「ならいいけど。」


 榊はそれ以上何も言わなかった。


 駅で別れる。


 帰宅して、夕食を食べ、風呂に入る。


 十時。


 連絡はない。


 十一時。


 まだない。


 今日は来る。


 遼は何となくそう思っていた。


 昼間あれだけのことがあったのだから。


 きっと一人では眠れない。


 十一時半。


 何もない。


 十二時。


 まだ来ない。


 遼はスマートフォンを見る。


 昼間、ひまりが早退したことを思い出す。


 体調が悪いなら、もう寝ているかもしれない。


 家族といるのかもしれない。


 それなら連絡が来なくても当然だ。


 十二時十分。


 遼はトーク画面を開いた。


『大丈夫?』


 打つ。


 今度は消さなかった。


 送信する。


 数秒。


 一分。


 二分。


 既読が付かない。


 遼はスマートフォンを置く。


 五分後、また見る。


 まだ付かない。


 十分。


 十五分。


 少しずつ不安になる。


 昼間、保健室でもう一度フラバしたと言っていた。


 家でも起きているのだろうか。


 大丈夫だろうか。


 心配だった。


 それは本当だった。


 十二時三十二分。


 既読。


 遼は画面を見る。


 返信は来ない。


 少しして、


『ごめん』


 それだけだった。


 遼はすぐに返す。


『何が』


『起こした?』


『起きてた』


 少し間が空く。


『今日ごめんね』


『何で謝るの』


『また掴んだ』


『別にいいよ』


『痛かった?』


『全然』


『嘘』


『ほんと』


 しばらく返信がない。


『今大丈夫?』


 送る。


 今度はすぐに返ってきた。


『大丈夫』


 遼は画面を見る。


 大丈夫。


 その言葉。


『ほんと?』


 既読。


 返事が来ない。


 一分ほどして。


『たぶん』


 遼は少しだけ身体を起こした。


『電話する?』


 送る。


 数秒後。


『いいの?』


『いいよ』


 着信が来た。


「もしもし。」


『……もしもし。』


 声が違った。


 小さい。


「大丈夫?」


『うん。』


「ほんと?」


『たぶん。』


「今日、帰ってからどうだった?」


『普通。』


「保健室でもう一回あったって聞いた。」


 向こうが静かになる。


『美咲?』


「うん。」


『そっか。』


「大丈夫だった?」


『うん。』


「何でまた。」


『先生にいろいろ聞かれて。』


「昔のこと?」


『……うん。』


 遼は黙った。


『何でこうなるんだろ。』


 ひまりが小さく言う。


「分かんない。」


『もう大丈夫だと思ったのに。』


「うん。」


『最近ずっと平気だったじゃん。』


「そうだな。」


『写真も見れたし、一人で寝れたし。』


「うん。」


『治ってきたと思った。』


 声が少し震えた。


『なのに今日、また。』


「仕方ないだろ。」


『仕方なくないよ。』


「夏川が悪いわけじゃないじゃん。」


『でも。』


「別に誰にも迷惑かけてないし。」


『かけてるよ。』


「誰に。」


『秋月くんにも。』


「かかってない。」


『美咲にも。先生にも。』


「美咲は心配してただけだよ。」


『それが嫌なの。』


 遼は少し黙った。


『また心配させた。』


「友達なんだからいいだろ。」


『よくない。』


「何で。」


『だって。』


 ひまりの呼吸が少しだけ乱れる。


『また大丈夫?って聞かれる。』


「うん。」


『また保健室行こうって言われる。』


「うん。」


『また無理しないでって。』


「それくらい言うだろ。」


『分かってるよ。』


 少し強い声。


『分かってるけど、嫌なの。』


「そっか。」


『秋月くんは言わないで。』


「何を。」


『大丈夫?って。』


 遼は黙る。


『保健室行けとか、先生に話せとかも言わないで。』


「うん。」


『普通にしてて。』


「分かった。」


『……ほんと?』


「うん。」


『よかった。』


 少しだけ声が緩んだ。


 遼はベッドへ横になる。


「じゃあ何話す?」


『何でもいい。』


「またそれ。」


『秋月くんの話。』


「俺の?」


『うん。今日何してた?』


「学校。」


『私もいたじゃん。』


「途中まで。」


『そのあと。』


「榊と帰った。」


『何話した?』


「夏川のこと。」


『え。』


「嘘。」


『びっくりした。』


「ちょっとは話したけど。」


『話したんじゃん。』


「大丈夫かなって。」


『……それだけ?』


「それだけ。」


 嘘だった。


 榊はもっと話していた。


 自分だけで何とかしようとするな。


 俺ら高校生だぞ。


 でも、それをひまりに言う必要はないと思った。


『秋月くん。』


「何。」


『今日さ。』


「うん。」


『私、秋月くん見つけたとき、ちょっと安心した。』


「そう。」


『美咲いたのに。』


「うん。」


『最低かな。』


「何が。」


『美咲ずっと助けてくれてるのに。』


「別に誰頼ってもいいだろ。」


『でも。』


「夏川が楽な方でいいじゃん。」


 ひまりは黙った。


「違う?」


『……ううん。』


「じゃあいいだろ。」


『秋月くんって、そういうとこずるいね。』


「何が。」


『何でもいいって言ってくれる。』


「ダメなの。」


『ううん。』


 少しだけ笑う。


『好き。』


 遼の思考が止まった。


「……何。」


『そういうところ。』


「ああ。」


『何だと思ったの。』


「別に。」


『またそれ。』


 ひまりが笑う。


 遼も少し遅れて笑った。


 心臓が速かった。


 そういうところ。


 分かっている。


 それでも。


『秋月くん。』


「何。」


『今日も繋いでていい?』


「いいよ。」


『寝るまで。』


「うん。」


『寝たあとも。』


「いいよ。」


『ありがと。』


 布団の音が聞こえる。


 しばらくして、ひまりの呼吸がゆっくりになっていった。


 遼は目を閉じなかった。


 昼間のことを思い返す。


 ひまりは苦しんでいた。


 怖がっていた。


 自分の手首を強く掴んでいた。


 あんなものは、ない方がいい。


 当然だった。


 ひまりは笑っている方がいい。


 元気な方がいい。


 フラバなんて、なくなった方がいい。


 それなのに。


 なくなりかけた数日間より。


 今の方が。


 遼は満たされていた。


 スマートフォンの向こうから寝息が聞こえる。


 自分がいるから、ひまりは眠れている。


 そう考える。


 嬉しかった。


 昼間、あんなに苦しんでいたのに。


 その結果として自分が必要とされていることを。


 嬉しいと思っている。


 遼は初めて、その二つを切り離さずに考えた。


 ひまりに苦しんでほしいわけじゃない。


 でも。


 苦しまなくなれば、自分はいらなくなる。


 だったら。


 そこまで考えて、遼は目を閉じた。


 考えるのをやめた。


 向こうから、小さな寝息が聞こえていた。


 それだけを聞いていればよかった。

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