第28話 いるから
それから数日、何も起きなかった。
ひまりは学校を休まなかった。授業中に固まることもなければ、廊下の笑い声に反応することもない。夜中に遼へ電話を掛けることもなくなった。
朝になれば「昨日も寝れた」と報告し、それも三日ほどすると言わなくなった。
一人で眠れることが、報告するほど特別なことではなくなったからだろう。
「ひまり、今日放課後どうする?」
「暇だよ。」
「駅前行こ。」
「いいよー。」
美咲との関係も元に戻ったように見えた。昼休みには一緒に弁当を食べ、放課後には寄り道をする。以前のように美咲が「大丈夫?」と何度も尋ねることもなくなった。
神谷とも変わらない。
「夏川、これ。」
「何?」
「この前の実行委員の写真。」
「あー、懐かしい!」
「まだ一か月も経ってねえよ。」
「文化祭終わると昔に感じるじゃん。」
「分からんでもないけど。」
神谷のスマートフォンを覗き込みながら、ひまりが笑う。
写真を見ても、何も起きなかった。
遼はそれを見ていた。
「秋月。」
「何。」
「また夏川さん見てんじゃん。」
「見てない。」
「もうそれ無理あるだろ。」
榊が笑う。
「別にいいじゃん。好きなら見てても。」
「好きって決まったわけじゃない。」
「まだ言ってんの?」
「何が。」
「お前それ、だいぶ前から言ってるだろ。」
遼は少し考える。
「じゃあ好きなのかも。」
「軽っ。」
「榊が言ったんだろ。」
「そうだけどさ。」
榊は呆れたように笑った。
「告らねえの?」
「何で。」
「好きなら。」
「今のままでいい。」
「ふーん。」
「何。」
「いや、珍しいなと思って。」
「何が。」
「お前、結構ひまりちゃんと仲いいじゃん。」
「ひまりちゃん?」
「夏川さん。」
「急にどうした。」
「一回言ってみたかった。」
「キモい。」
「ひでえな。」
榊は笑いながら机へ頬杖をついた。
「でも、付き合いたいとか思わねえの?」
遼は少しだけひまりの方を見る。
美咲と何か話して笑っている。
「分かんない。」
「またそれかよ。」
「今でも普通に話せるし。」
「電話も?」
「最近はしてない。」
「じゃあ余計に付き合えばいいじゃん。」
「何でだよ。」
「知らねえよ。」
二人で笑った。
付き合う。
考えたことがないわけではなかった。
ひまりが好きなのかもしれない。
手を握られれば嬉しいし、一緒に帰れば楽しい。電話が来れば嬉しかった。
それなら付き合いたいと思うのが普通なのだろう。
けれど、恋人になった自分とひまりを想像しても、なぜか今ひとつ実感が湧かなかった。
それよりも鮮明に思い出せるものがある。
自分の袖を掴んだ手。
電話越しの弱い声。
『秋月くんがいると、戻ってこられる気がする』
遼は教科書へ視線を戻した。
「今のままでいいよ。」
「そっか。」
榊もそれ以上は聞かなかった。
昼休み。
「秋月くん。」
ひまりが弁当箱を持ってやって来た。
「ここいい?」
「いいよ。」
「やった。」
前の席を借りて座る。
「美咲は?」
「購買。」
「待たなくていいの。」
「あとで来る。」
ひまりは弁当箱を開く。
「今日唐揚げ。」
「昨日もじゃなかった?」
「昨日は竜田揚げ。」
「同じじゃん。」
「違うよ。」
「何が。」
「味。」
「ほぼ同じだろ。」
「秋月くん、料理できないでしょ。」
「できない。」
「やっぱり。」
「夏川は。」
「オムライス作れる。」
「それだけ?」
「……卵焼き。」
「卵ばっかじゃん。」
「うるさい。」
ひまりが唐揚げを一つ口へ入れる。
そのとき、美咲が戻ってきた。
「あ、いた。」
「おかえり。」
「私の席来るかと思ったら秋月くんのとこいるし。」
「近かったから。」
「教室の端と端だけど。」
「心の距離が。」
「うわ。」
美咲が露骨に嫌そうな顔をする。
「何それ。」
「冗談じゃん。」
「最近ほんと仲いいよね。」
美咲はそう言いながらも笑っていた。
以前のような警戒するような雰囲気はない。
「まあいいや。私もここで食べよ。」
「榊くんの席借りれば?」
「いないしね。」
三人で机を囲む。
しばらくは何でもない話をした。
期末試験が近いこと。
冬休みに何をするか。
美咲が新しいコートを買ったこと。
「そういえば。」
美咲がパンの袋を畳みながら言う。
「最近ほんと出ないね。」
ひまりの箸が少し止まった。
「何が?」
「フラバ。」
「ああ。」
「もう一週間くらい?」
「もっとじゃない?」
「そんな経った?」
「たぶん。」
美咲は嬉しそうに笑う。
「よかったじゃん。」
「うん。」
「このまま治るんじゃない?」
「治るっていうのかな。」
「出なくなったら治ったってことでいいでしょ。」
「まあね。」
ひまりも笑った。
「最近、普通に写真見れるし。」
「この前神谷くんの見てたもんね。」
「うん。」
「じゃあもう大丈夫じゃん。」
「そうかも。」
美咲が安心したように頷く。
遼は黙って二人の話を聞いていた。
「秋月くんもよかったね。」
突然、美咲がこちらを見る。
「俺?」
「夜中に電話来なくなったんでしょ?」
「うん。」
「ちゃんと寝れるじゃん。」
「前から寝てたけど。」
「でも楽になったでしょ。」
「まあ。」
そう答える。
ひまりが少しだけ遼を見る。
「……寂しい?」
「何で。」
「電話なくなって。」
「別に。」
「またそれ。」
「じゃあ何て言えばいいんだよ。」
「寂しいって。」
「何で言わせたいの。」
「何となく。」
「寂しくない。」
「冷た。」
ひまりが笑う。
美咲も「はいはい」と笑った。
遼も笑った。
ただ、自分の答えが嘘だということは分かっていた。
放課後。
榊と帰ろうとすると、担任に呼び止められた。
「秋月、悪い。」
「はい。」
「これ資料室持ってってくれ。」
「何で俺。」
「暇そうだから。」
「またそれですか。」
「榊も手伝ってやれ。」
「俺まで?」
「仲いいだろ。」
「横暴だなあ。」
榊が笑う。
二人で大量のファイルを抱え、廊下を歩く。
「重っ。」
「榊そっち少なくない?」
「気のせいだろ。」
「絶対少ない。」
「ジャンケンする?」
「もう持ってるじゃん。」
「じゃあこのままで。」
「最悪。」
資料室は別棟の端にあった。
階段を下り、渡り廊下を抜ける。
途中、正面から女子生徒が二人歩いてきた。
ひまりと美咲だった。
「あ、秋月くん。」
「何してんの?」
「先生の奴隷。」
「俺まで巻き込まれた。」
榊がファイルの山から顔を出す。
「大変そう。」
「夏川さん一冊持って。」
「いいよ。」
「嘘だよ。」
「何それ。」
ひまりが笑う。
そのまますれ違おうとしたときだった。
後ろから大きな音がした。
何かが床へ落ちた音。
続いて、男子の笑い声。
「お前マジ最悪!」
「知らねえよ!」
「写真撮っとけばよかった!」
「やめろって!」
遼は何となく振り返った。
廊下の奥で男子生徒が数人、ふざけ合っている。
それだけだった。
前を向く。
ひまりが止まっていた。
美咲もすぐに気付いた。
「ひまり?」
返事がない。
遼の腕の中で、ファイルがわずかにずれた。
「夏川?」
ひまりは男子たちの方を見ていた。
笑い声。
写真。
その二つ。
ひまりの顔から、ゆっくり表情が消えていく。
「ひまり。」
美咲が腕へ触れる。
その瞬間、ひまりの肩が跳ねた。
「……っ。」
息を吸う。
浅い。
もう一度。
「大丈夫?」
美咲が顔を覗き込む。
「ひまり、こっち見て。」
返事はない。
「秋月。」
榊の声がした。
遼は動かなかった。
目の前のひまりを見ていた。
久しぶりだった。
この顔。
焦点の合わない目。
震える唇。
何かから逃げようとしているのに、身体だけがそこへ残されているような表情。
胸が強く鳴った。
「秋月?」
榊がもう一度呼ぶ。
「あ。」
遼はようやく我に返った。
持っていたファイルを近くの窓枠へ置く。
「夏川。」
近付く。
ひまりの目がわずかに動いた。
「俺いるから。」
その言葉を聞いた瞬間だった。
ひまりの手が伸びた。
遼の手首を掴む。
強く。
「……秋月、くん。」
「うん。」
「いる?」
「いるよ。」
「ほんと?」
「いる。」
ひまりは遼の手首を離さなかった。
美咲がすぐ隣にいる。
榊もいる。
それでも、ひまりは遼を掴んでいた。
「ゆっくり息して。」
美咲が言う。
「大丈夫だから。」
ひまりは返事をしない。
遼の手首を掴む指だけが、少しずつ強くなる。
「夏川。」
「……うん。」
「ここ学校だから。」
「うん。」
「俺いるから。」
「……うん。」
呼吸が少しずつ遅くなる。
遼はひまりの顔を見ていた。
怖がっている。
苦しそうだった。
早く戻ってほしい。
そう思った。
それと同時に。
手首に食い込む指の感触が、ひどく懐かしかった。
数分後。
「……ごめん。」
ひまりが小さく言った。
「戻った?」
「うん。」
「ほんと?」
「たぶん。」
美咲が大きく息を吐く。
「びっくりした……。」
「ごめんね。」
「謝らなくていいって。」
ひまりは遼の手首を見る。
「あ。」
「何。」
「また掴んでた。」
「うん。」
「ごめん。」
「別に。」
ゆっくり手を離す。
指の跡が少し赤く残っていた。
「痛かった?」
「全然。」
「ほんと?」
「うん。」
ひまりは困ったように笑った。
いつもの笑顔へ戻ろうとしている。
「保健室行こう。」
美咲が言う。
「大丈夫。」
「今日はダメ。」
「でも。」
「ダメ。」
美咲の声は少し強かった。
「最近出てなかったからって、油断してた。」
「美咲。」
「行こ。」
ひまりは少し迷ってから頷いた。
「……うん。」
二人が歩き出す。
数歩進んだところで、ひまりが振り返った。
「秋月くん。」
「何。」
「ありがと。」
「うん。」
ひまりは小さく笑い、美咲と一緒に廊下の向こうへ消えていった。
静かになった。
「……大丈夫かね。」
榊が言う。
「最近調子よさそうだったのにな。」
「うん。」
「まあ、そう簡単には治らねえか。」
遼は自分の手首を見た。
まだ赤い。
「秋月?」
「何。」
「行こうぜ。これ運ばないと。」
「ああ。」
ファイルを持ち直す。
二人で歩き始めた。
榊は何も言わなかった。
遼も何も言わなかった。
ただ。
さっきまで自分の中にあったものが消えていることに、遼は気付いていた。
ここ数日ずっとあった、妙な寂しさ。
ひまりが一人で眠れるようになって、自分を呼ばなくなって、普通に戻っていくのを見ているときに感じていたもの。
それが、今はなかった。
代わりに。
安心していた。
ひまりは大丈夫ではなかった。
そのことに。
遼は安心していた。




