第27話 秋月くん離れしなよ
その日の夜、ひまりから連絡は来なかった。
十一時。
十一時半。
十二時。
遼はベッドに横になったまま、何度かスマートフォンを確認した。
何もない。
十二時を十五分ほど過ぎたところで、一度トーク画面を開く。
最後のやり取りは昼休みだった。
『今日こそ一人で寝る』
できたのかもしれない。
それならいい。
昨日より一歩進んだということだ。
遼はスマートフォンを伏せる。
目を閉じた。
眠れなかった。
別に、ひまりから連絡が来ないからではない。
そう思いながら、また画面を見る。
十二時二十八分。
何もない。
十二時四十分。
まだない。
遼はトーク画面を開いた。
『寝れた?』
入力する。
送信はしなかった。
しばらくその文字を見てから、全部消す。
自分から送ればいい。
普通に話したいなら。
それができない理由も、もう分かっていた。
ひまりから来てほしい。
自分を必要としてほしい。
遼はスマートフォンを置いた。
そのまま目を閉じる。
次に時計を見たときには、一時を過ぎていた。
連絡はなかった。
翌朝。
「おはよー!」
教室へ入ってきたひまりは、いつも通りだった。
遼は少しだけ拍子抜けした。
「おはよ。」
「おはよ、秋月くん。」
ひまりがこちらを見る。
目が合う。
「昨日。」
「うん。」
「寝れた。」
少し得意そうだった。
「よかったじゃん。」
「でしょ。」
「何時?」
「十一時半くらい。」
「早。」
「昨日眠かったから。」
「電話しなかったしな。」
「そうそう。」
ひまりが笑う。
「私、やればできる子だから。」
「一日だけじゃん。」
「一日は一日です。」
「今日もできたら褒める。」
「何で上からなの。」
「じゃあ褒めない。」
「それはそれで嫌。」
ひまりは笑った。
遼も笑う。
よかった。
本当に。
一人で眠れた。
そのことを嬉しいと思う。
同時に、昨夜ずっとスマートフォンを気にしていた自分が、少し馬鹿らしくなった。
「ひまり。」
美咲がやって来る。
「昨日どうだった?」
「寝れた!」
「ほんと?」
「一人で。」
「やったじゃん。」
美咲が笑う。
「ほら、できるじゃん。」
「まあね。」
「このまま秋月くん離れしな。」
「何それ。」
「最近頼りすぎだったから。」
「そんなことないし。」
「あるって。」
二人は笑っている。
冗談だった。
ただ。
秋月くん離れ。
その言葉だけが、遼の耳に残った。
「秋月。」
榊が後ろから声を掛ける。
「英語の宿題やった?」
「やった。」
「見せて。」
「嫌だよ。」
「何でだよ。」
「自分でやれ。」
「友達だろ。」
「こういうときだけな。」
「頼むって。」
遼は鞄からノートを出して渡した。
「神。」
「返せよ。」
「昼まで借りる。」
「授業一時間目だろ。」
「じゃあ五分。」
「早くしろ。」
いつもの朝だった。
それから二日。
ひまりから夜の電話は来なかった。
学校では普通に話した。
昼休みに遼の席へ来ることもあった。
帰り道が一緒になることもあった。
何も変わっていない。
それでも、夜だけが変わった。
十一時を過ぎてもスマートフォンは鳴らない。
遼も送らない。
三日目の朝。
「三日連続。」
ひまりが指を三本立てる。
「何が。」
「一人で寝れた。」
「ああ。」
「もっと褒めてよ。」
「偉い。」
「雑。」
「すごい。」
「気持ち入ってない。」
「じゃあ何て言えばいいんだよ。」
「頑張ったね、とか。」
「頑張ったな。」
「後から言われてもなぁ。」
ひまりは笑った。
「でも、もう大丈夫かも。」
その言葉に、遼は少しだけ止まった。
「そう。」
「うん。」
「よかったじゃん。」
「うん。」
ひまりは嬉しそうだった。
「秋月くんのおかげかも。」
「俺?」
「何回か付き合ってくれたから。」
「何もしてないけど。」
「だから、それがよかったんだって。」
前にも聞いた言葉だった。
「ありがとね。」
「うん。」
「これで秋月くんもちゃんと寝れるね。」
「俺は寝てたじゃん。」
「電話しながらでしょ。」
「同じだろ。」
「違うよ。」
ひまりが笑う。
「じゃあ今日も頑張ります。」
「頑張れ。」
「おー。」
小さく拳を上げ、ひまりは自分の席へ戻っていった。
遼はその背中を見ていた。
もう大丈夫かも。
いいことだった。
ずっとそうなればいいと思っていた。
ひまりが一人で眠れるようになる。
フラバも自分で止められるようになる。
誰かに頼らなくても平気になる。
それが一番いい。
「秋月。」
榊が前の席へ座る。
「何。」
「今度は何見てんの。」
「別に。」
「また夏川さん?」
「たまたま。」
「お前のたまたま多すぎだろ。」
榊は笑う。
「最近、電話してないの?」
「してない。」
「へえ。」
「何。」
「いや、よかったじゃん。」
「何が。」
「夏川さん、一人で寝れるようになったんだろ?」
「何で知ってんの。」
「さっき聞こえてた。」
「ああ。」
「お前も楽になるじゃん。」
「別に大変じゃなかったけど。」
「でも毎晩はきついだろ。」
「毎晩じゃない。」
「まあいいけど。」
榊は机に頬杖をついた。
「ちゃんと良くなってんだな。」
「……そうだな。」
「最初の頃、結構やばそうだったじゃん。」
「うん。」
「そのうちフラバもなくなるんじゃね?」
遼は答えなかった。
「そうなったらいいな。」
榊は何気なくそう言った。
遼も頷く。
「うん。」
その日の放課後。
「秋月くん。」
帰り支度をしていると、ひまりがやって来た。
「今日、途中まで一緒に帰ろ。」
「美咲は?」
「委員会。」
「神谷は。」
「何でそこで神谷くん出てくるの。」
「何となく。」
「また?」
「うん。」
「ほんと好きだね。」
「違うって。」
ひまりが笑う。
二人で学校を出た。
駅までの道は、少しずつ冬らしくなっていた。
「寒い。」
「十一月だからな。」
「この前秋って言ってたじゃん。」
「夏川が冬って言うから。」
「じゃあ冬。」
「どっちでもいいよ。」
「適当。」
ひまりは両手をポケットへ入れる。
「今日ね。」
「うん。」
「美咲に褒められた。」
「何を。」
「最近フラバしてないから。」
「ああ。」
「あと夜も。」
「言ったの?」
「一人で寝れたことだけ。」
「電話のことは?」
「言ってない。」
「何で。」
「怒られるから。」
「悪いことしてるみたいじゃん。」
「秋月くんが言ったんでしょ。」
「何を。」
「言わなきゃいいって。」
「ああ。」
「忘れてた?」
「ちょっと。」
「最低。」
ひまりは笑った。
遼も笑う。
「でも。」
ひまりが少し前を向く。
「美咲、安心してた。」
「そりゃそうだろ。」
「うん。」
「心配してたから。」
「分かってる。」
少し間が空く。
「だから、よかった。」
「何が。」
「もう大丈夫って思ってもらえたから。」
遼は横を見る。
ひまりは笑っていた。
「大丈夫なの?」
「うん。」
「ほんとに?」
「たぶん。」
「たぶんじゃん。」
「でも前より全然。」
「そっか。」
「うん。」
ひまりは前を向いたまま歩く。
その横顔は明るかった。
遼は何も言わなかった。
大丈夫。
その言葉を聞くたび、以前なら安心していた。
今も安心している。
なのに。
少しだけ、寂しかった。
駅へ着く。
「じゃあね。」
「うん。」
「明日も一人で寝れたら褒めてね。」
「覚えてたら。」
「覚えといてよ。」
「努力する。」
「そこは約束でしょ。」
「じゃあ約束。」
「よし。」
ひまりが笑って改札へ入っていく。
遼も反対側へ歩き出した。
その夜。
十一時半。
連絡は来ない。
十二時。
来ない。
もう待つ必要はない。
ひまりは一人で眠れる。
遼はスマートフォンを充電器へ繋ぎ、ベッドへ置いた。
電気を消す。
目を閉じる。
少しして、また目を開けた。
眠れない。
遼はスマートフォンを取った。
十二時十三分。
トーク画面を開く。
ひまりはもう寝ているかもしれない。
送らない方がいい。
そう思った。
『起きてる?』
文字を打つ。
しばらく見る。
消す。
スマートフォンを置く。
五分後。
また手に取る。
今度はひまりのアイコンを開いた。
過去のやり取りを少し遡る。
『電話していい?』
『秋月くんがいると、戻ってこられる気がする』
『できるようになるまでは、いてくれる?』
指が止まる。
できるようになるまで。
できるようになった。
それだけだ。
約束通りだった。
遼は画面を閉じた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
反射的に見る。
榊だった。
『明日の数学宿題どこまで?』
遼はしばらく画面を見た。
『58まで』
『サンキュー』
それだけだった。
遼はスマートフォンを伏せる。
なぜか少し腹が立った。
翌日。
「おはよー。」
ひまりはいつも通り教室へ入ってきた。
美咲の席へ向かう。
笑う。
神谷に声を掛けられる。
また笑う。
遼はその様子を自分の席から見ていた。
普通だった。
ひまりは元気だった。
自分がいなくても。
何も困っていない。
「秋月くん。」
ひまりがこちらへ来る。
「四日目。」
「何が。」
「忘れたの?」
「一人で寝れた?」
「正解。」
「偉い。」
「お、今日はちゃんとしてる。」
「昨日約束したから。」
「覚えてたんだ。」
「一応。」
ひまりが嬉しそうに笑う。
「もう完璧かも。」
「そうだな。」
「秋月くんも安心でしょ。」
「うん。」
遼は笑った。
ひまりも笑う。
そこで美咲に呼ばれ、ひまりは「またあとで」と離れていった。
遼はその背中を見送る。
安心。
そうなのだろう。
ひまりは良くなっている。
自分が望んでいたことだ。
それなのに。
遼は初めて思った。
ほんの一瞬だった。
考えようとしたわけでもない。
頭のどこかから、勝手に浮かんできただけだった。
またフラバしたら。
そのときは。
また自分を呼ぶのだろうか。
遼はすぐに視線を落とした。
机の上の教科書を開く。
今のは違う。
フラバしてほしいわけではない。
そんなことを思うはずがない。
ただ、もし起きたら。
そのとき自分がいればいい。
それだけだ。
遼はそう考えながら、教科書の文字を目で追った。
何度同じ行を読んでも、内容は頭に入ってこなかった。




