第26話 起きてる?
遼はすぐには返信しなかった。
画面には、ひまりから届いた『起きてる?』の四文字が表示されている。
いつもなら、ほとんど反射的に返していた。実際、昨日も一昨日もそうだった。それなのに今日は、スマートフォンを手にしたまま数秒だけ動かなかった。
待っていた。
ひまりから連絡が来るのを。
十二時を過ぎてから何度も画面を確認して、来なければ少し落ち着かなくなって、それでも自分からは送らなかった。
そして今、届いた。
嬉しい。
理由も分かっている。
ひまりが一人では眠れず、自分を必要として電話を掛けようとしている。それが嬉しいのだ。
遼は入力欄を開いた。
『起きてる』
送る。
すぐに既読が付いた。
『電話していい?』
『いいよ』
着信。
「もしもし。」
『もしもし。』
いつもと同じ声だった。
「無理だった?」
『……何が。』
「一人で寝るの。」
『何で分かったの。』
「この時間に電話してきたから。」
『普通に秋月くんと話したかっただけかもしれないじゃん。』
「そうなの?」
『……それもある。』
「それも。」
『うるさい。』
ひまりが小さく笑う。
遼も笑った。
「美咲に怒られるじゃん。」
『だから今日は言わない。』
「悪い子だな。」
『秋月くんが言ったんでしょ。言わなきゃいいって。』
「言ったっけ。」
『言った。』
「覚えてない。」
『最低。』
ひまりがまた笑う。
それだけで、さっきまで胸の中にあった妙なざわつきが消えていく。
『でもね。』
「うん。」
『今日は結構頑張ったんだよ。』
「何を。」
『一人で寝るの。』
「寝てないじゃん。」
『結果だけ見ないでよ。』
「じゃあ何したの。」
『十一時くらいにベッド入って、スマホも見ないようにして、電気消して。』
「うん。」
『一時間くらい頑張った。』
「それで十二時?」
『そう。』
「寝られなかった?」
『寝られなかった。』
ひまりの声が少し小さくなる。
『別にフラバしたわけじゃないんだけどね。』
「うん。」
『何か落ち着かなくて。』
「何考えてたの。」
『いろいろ。』
「またそれ。」
『ほんとにいろいろなの。学校のこととか、美咲のこととか、昔のこととか。』
「昔のことも?」
『ちょっとだけ。』
遼は黙った。
『でも大丈夫だよ。』
「そう。」
『大丈夫なんだけど……寝ようとすると、頭の中がうるさくなる感じ。』
「それで電話?」
『うん。』
少し間が空く。
『秋月くんの声聞いてると、静かになるから。』
遼は目を閉じた。
まただ。
胸の奥が熱くなる。
「俺そんな声いい?」
『そういう意味じゃない。』
「じゃあどういう意味。」
『分かんない。』
「雑じゃん。」
『でも落ち着くの。』
「そっか。」
『うん。』
ひまりの声が少し近くなった。枕元へスマートフォンを置いたのかもしれない。
『迷惑?』
「何回聞くんだよ。」
『だって。』
「迷惑じゃない。」
『ほんと?』
「ほんと。」
『よかった。』
遼はその一言を聞きながら、昨日の美咲の顔を思い出した。
最近、秋月くんに頼りすぎじゃない?
美咲の言っていることは正しい。
榊も同じようなことを言っていた。
お前がいないと無理、みたいになったら面倒じゃん。
それも正しい。
だから本当なら、今夜は電話に出ない方がよかったのかもしれない。
一人で眠る練習を続けさせた方がいい。
少なくとも、毎晩こうして電話を繋ぐのが良いことだとは思えなかった。
「夏川。」
『ん?』
「明日は一人で寝られるといいな。」
『……うん。』
返事が少し遅かった。
『秋月くん、電話嫌になった?』
「違うよ。」
『じゃあ何で。』
「美咲も言ってただろ。」
『美咲は関係ないじゃん。』
思ったより強い声だった。
遼は少し驚いた。
「関係なくはないだろ。友達なんだから。」
『でも電話してるのは私と秋月くんでしょ。』
「そうだけど。」
『秋月くんが嫌ならやめる。』
「嫌じゃないって。」
『じゃあいいじゃん。』
ひまりは少し黙った。
『私だって、一人で寝られるようにはなりたいよ。』
「うん。」
『今日だって頑張ったし。』
「うん。」
『でも無理だったから電話しただけ。』
「分かってる。」
『それなのに、美咲が言ってたからやめた方がいいって言われるの嫌。』
遼は何も言えなかった。
ひまりが美咲に対してこんな言い方をするのは、少し珍しかった。
「怒ってる?」
『ちょっと。』
「俺に?」
『ちょっと。』
「ごめん。」
『……うん。』
「でも美咲も心配してるだけだろ。」
『分かってる。』
「なら。」
『分かってるけど。』
ひまりが息を吐く。
『最近、美咲といると疲れるときある。』
遼は目を開けた。
「何で。」
『心配してくれるじゃん。』
「うん。」
『すごくありがたいんだけど、ずっと大丈夫?って聞かれると、本当に大丈夫でも大丈夫って言わなきゃいけない感じになるの。』
前にも似たようなことを言っていた。
美咲といると、ちゃんとしなきゃと思う。
『あと、フラバしたあともさ。』
「うん。」
『無理しないでとか、保健室行こうとか、先生呼ぶ?とか。全部正しいんだけど。』
「嫌なの?」
『嫌じゃない。』
ひまりはすぐに答えた。
『美咲は悪くないよ。ほんとに。私のこと心配してくれてるだけだから。』
「うん。」
『でも秋月くんは、何も聞かないじゃん。』
「何も考えてないだけかも。」
『それでもいい。』
少し笑う。
『だから楽。』
遼は返事をしなかった。
美咲より、自分の方が楽。
その言葉が嬉しかった。
そんなふうに受け取るべき話ではないと分かっているのに。
「でもさ。」
『うん。』
「美咲には言わないの。」
『何を?』
「そういうこと。」
『言えないよ。』
「何で。」
『傷つくじゃん。』
「まあ。」
『それに、美咲のこと好きだし。』
「うん。」
『だから秋月くんに言ってるの。』
「俺ならいいんだ。」
『秋月くんだから。』
遼は黙った。
『……何。』
「何でもない。」
『またそれ。』
「眠くないの。」
『ちょっと眠くなってきた。』
「じゃあ寝ろよ。」
『切る?』
「切らない。」
『……ありがと。』
ひまりの声が柔らかくなる。
それからしばらく、二人ともほとんど話さなかった。
時々ひまりが何か思い出したように話し、それに遼が答える。会話が途切れても気まずくはなかった。
十分ほど経った頃。
『秋月くん。』
「何。」
『寝た?』
「起きてる。」
『よかった。』
「何が。」
『いるか確認しただけ。』
「いるよ。」
『うん。』
また静かになる。
遼はスマートフォンから聞こえる小さな呼吸を聞いていた。
五分ほどして。
『秋月くん。』
「いる。」
『まだ何も言ってない。』
「確認だろ。」
『……そう。』
「いるよ。」
『うん。』
ひまりが小さく笑った。
それからは、もう呼ばれなかった。
寝息が聞こえ始める。
遼は電話を繋いだまま、暗い天井を見ていた。
今日、ひまりは一人で眠ろうとした。
できなかった。
そして自分へ電話した。
美咲には言わない。
二人だけのこと。
秋月くんだから。
一つ一つは、ただの言葉だった。
それなのに、並べるとひどく心地よかった。
遼は目を閉じる。
今日の自分は、ひまりが一人で眠れなかったことを残念に思っている。
そのはずだった。
なのに。
十二時を過ぎても連絡が来なかったときより、今の方がずっと安心していた。
翌朝。
「眠っ。」
榊が机へ突っ伏していた。
「寝不足?」
「ゲームしてた。」
「馬鹿じゃん。」
「昨日イベント最終日だったんだよ。」
「知らないよ。」
「秋月は元気だな。」
「普通。」
「昨日何時に寝た?」
「一時くらい。」
実際には電話を繋いだまま、その少し後に眠った。
「健康じゃん。」
「榊が不健康なだけだろ。」
「三時。」
「馬鹿じゃん。」
「二回言うな。」
榊が顔を上げる。
そのとき、教室のドアが開いた。
「おはよー!」
ひまりだった。
いつものように笑いながら入ってくる。
「おはよう。」
「おはよ、ひまり。」
美咲が手を振る。
ひまりは美咲の席へ向かい、何事もなかったように話し始めた。
「昨日さ、あのドラマ見た?」
「見た見た。」
「最後やばくない?」
「分かる。」
二人で笑う。
昨日の電話のことなど、少しも感じさせない。
遼はその様子を見ていた。
「秋月。」
「何。」
「また見てるじゃん。」
「見てない。」
「いや、見てたって。」
榊は笑いながらひまりたちの方を見る。
「仲いいよな、あの二人。」
「そうだな。」
「藤沢、夏川さんのことめっちゃ好きじゃん。」
「うん。」
「何かあったら一番頼りになるの、やっぱ藤沢なんじゃね?」
遼は榊を見る。
「何で。」
「何でって、いつも一緒だろ。」
「そうだけど。」
「転校してきてからずっとじゃん。」
「……うん。」
遼はもう一度、ひまりを見る。
美咲が何かを言って、ひまりが笑っている。
昨日の夜。
『最近、美咲といると疲れるときある』
『だから秋月くんに言ってるの』
美咲は知らない。
今、目の前で笑っている美咲は。
知らない。
遼だけが知っている。
そのことを考えた瞬間。
胸の奥に、小さな優越感が生まれた。
「……そうだな。」
遼は答えた。
榊は何も気付かず、「だろ?」と笑った。
昼休み。
「秋月くん。」
ひまりがやって来た。
「昨日ありがと。」
「うん。」
小さな声だった。
美咲には聞こえないくらいの。
「寝れた?」
「うん。」
「ならよかった。」
「今日こそ一人で寝る。」
「頑張れ。」
「でも。」
ひまりが少しだけ笑う。
「無理だったら。」
「電話すれば。」
「うん。」
それだけ言って、ひまりは美咲のところへ戻っていった。
遼はその背中を見送る。
今日こそ一人で眠れるといい。
本当にそう思った。
ひまりのためには、その方がいい。
それでも同時に。
今夜も電話が来る気がしていた。
そして。
来てほしいとも思っていた。




